短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~6.~

6.

 そして二日後。私は全裸のまま、床に散らばした服の海の真ん中に鎮座していた。

 バイト先には休みの連絡を入れ、放課後まっすぐに帰宅して服選びを始めたのだが、二時間経っても何も決められずにいた。霞君との約束は午後八時だったから、まだ充分に時間はあるけれど、このまま同じことを繰り返していても私が全裸でなくなる日が来るとは思えない。けれどそれは楽しい選択だから、私は少しも苛々しない。

 いっそのこと全裸で行ったら彼は驚くよね、なんて考えてから、身体の線にがっかりされたら立ち直れないだろうと思い、気が沈む。やっぱりこういうときはVラインの深いキャミ? それともブラウスで胸のボタンを多めに開ける? 

 ふと我に返って思う。私ってすごいエッチかも。でも女のおしゃれは男の目を引きつけるためのもの。これ、普通よね。

 私は自分を納得させて、パンツにするかスカートにするか考える。全体のトーンを決めてから、それに合わせてピアスやマニキュア、リップの色を選んでいく。

 彼が誘った、「J・グラフィティ」という場所がどういうところであるか判れば、服選びは楽になるかもしれないが、私はあえて調べようとはしなかった。未知なままの方がきっと楽しい驚きが増す。

 彼が言った、「声を貸してほしい」という言葉の意味は何だろう。私はちょっとだけ考えて、すぐに詮索を止めた。

 霞君と、学校以外の場所で、しかも夜会える。私はそのことだけに胸を弾ませていようと決めた。

 だが結局は、その弾むものを効果的に見せながら隠すものを何か身につけなければこの部屋を出られないことに、思考は戻るのだった。


 午後七時五十分、J・グラフィティの入口前に私は立っていた。

 繁華街の大通りから一本裏手に入った雑居ビルのB1がそこだった。自分の住む街にこんな場所があることを、私は今まで知らなかった。

 店はまだ開いておらず、入口前のベンチには七、八人が座っていた。年齢、性別はバラバラで、誰もが無言。皆一人で来ているようだ。

 ここで待っていれば霞君は来るのかしら。しばらくぼんやり待っていると、いつの間にか店の入口が開いて、出て来たスタッフが名前を読み上げ始めた。待っていた人達が一人ずつそれに答え、中へ入って行く。私もフルネームを呼ばれたので、それに従って中へ入る。

 入るとすぐにレジカウンターがあり、前の人達はそこでお金を払って奥へ進んで行く。

 私が慌てて財布をバッグから出そうとすると、レジにいた口ひげのオジサンが、

「京野実佳さんだよね?」 

と訊いてきた。私が頷くと、

「君の分は大丈夫。どうぞ奥へ」

と言って、思わせぶりなウィンクをする。私が意味が判らずに立っていると、

「君の分のお金はもうもらってあるってことサ」

と、中年のくせにいたずら好きな子供のような笑顔。

 私はそれに促されるまま奥へ入った。

 短い通路を抜けると今度はバーカウンターがあり、「ワン・ドリンク制なので、お好きな飲み物をどうぞ」と声をかけられた。

 何本ものボトルが壁に並んだり吊り下げられたりしていて、それらがグラスと共に天井からの光を美しく反射させてカウンターに模様をなしている。

 まるで、流行りのドラマの中で恋人同士がデートをする場所としてよく出てくるような、そんなカウンターだった。そこでコーラやジュースをオーダーすることはいかにも無粋に思えて、私は飲んだことのないジン・トニックを頼んだ。

 グラス片手に振り返ると、そこは別世界だった。

 こぢんまりとしたステージにアップライトのピアノ、ドラムセット、ウッドベースや管楽器が並べられ、薄暗い中に淡く光る赤と青のスポットが幻想的な空間を作り出している。

 ドキドキした。私は束の間、座る席を探すことを忘れてしまった。劇場で、始まる前に緞帳が上がるのを待つときのような、映画館でブザーと共にスクリーンを覆うカーテンが開くのを待つときのような、そんな雰囲気が私は大好きだ。

 霞君はまだ現れない。

 彼は、この小さなライブハウスのステージを一緒に見ようと私を誘ってくれたのだろうか。

 彼の言う、「声を貸してほしい」という言葉から察すると、そうではなく、彼はステージに立つ側で、彼のやる音楽のために私の声を借りたいという意味の方がしっくりくるのだが、学校の中でのぼんやりした様子からは、彼がステージに立って演奏する姿を想像することはとても出来ない。

 初めて頼んだジン・トニックが辛いくせに甘くすっきりとしていて、私の口に合ったお酒だわ、と思えるようになった頃、店内のライトが全部消えた。ステージの暗闇を、幾つかの人影がすっと移動する。

 演奏は突然始まった。ステージのスポットライトだけが淡く灯る。

 ――ジャズ。どういうリズムやメロディを刻む音楽をジャズと呼ぶのか理屈は判らないけれど、これがジャズであることは判る。

 ステージ上で次々に紡ぎ出される心地よい音のうねりとリズムが、バイブレーションとなり私を襲う。私はされるがままに深い陶酔に溺れる。

 溜息も出ない。身動きも出来ない。私は視線だけをステージに這わせ、この空間を圧倒的に支配するグルーブを視覚からも取り込んで自分の官能をさらに行き着けるところまで深くしようと企んだ。

 指先が気の向くままに鍵盤を跳ねる奔放なピアノ、出しゃばりすぎずムードを作るサックス、その後ろで、まるで愛しい女にするかのようにしっかりと抱いたボディの上に指を滑らせるウッドベース、そして――。

 瞬間、私は息を飲んだ。この早めのビートを規則的に保ち、グルーブのボルテージをキレのいいブレイクで高めていくドラム――を叩いているのは、何と霞君だった。いつもはボサボサの黒髪を逆立てて固め、ライトの加減で顔が赤黒く見えるけど、私が見間違えるはずがない。

 それは今までに私が見たことのない姿。

 ステージ上の彼は、とんでもなくセクシーだった。ブレイクや数フレーズのソロでも安定感たっぷりのプレイ、時折他のメンバーと交わす目配せ、ライトに光る両耳のピアス、額に浮かぶ汗――。

 そして何よりも、とびきりの笑顔。

 目で追いきれないほど激しく身体を動かしながら、その労力に一曲目から汗を滴らせていても、本当に心から楽しそうだ。あんな顔、今まで見たことがない。

 彼の身体がパーツごとにあんなに激しく、それでいて滑らかに動くことを私は知らなかった。

 あのドラムスティックを激しく捌く彼の力強い両腕が、私の身体に触れるなら――。止めどなく浮き出ては飛び散る彼の額の汗を、私の指先が拭うなら――。

 身体の奥が熱くなる。その熱はたちまち全身を駆け巡り、私の意識を奪ってステージ上の一点以外の光景をフェード・アウトさせる。顔が火照る。ジン・トニックの氷が、私が飲み干すより先に蒸発するほどに。

 悔しい。胸がキュンと鳴り、どんどん苦しくなってくる。心臓は今にも爆発しそう。私は喘ぎ始める。まるで酸欠の金魚のように。でも欲しいのは酸素じゃない。けれど私の欲望は、金魚のそれのように純粋だ。

 曲の境目になんか気づきもしない。周りの客の拍手を聞いても、私の腕は動かない。ブレイクタイム。ステージ上のメンバーが視界から消えると、私の意識はスイッチを切り替えて余韻の中へと深く沈み込む。そこから一ミリも浅瀬に向かいたくないと抗う。

 再びステージが始まる。グルーブが戻る。熱い。身体の芯から。アルコールのせい?

 それもある。でもそれだけじゃない。
 こんな風に、何かに心も身体も奪われたこと、今までにない。

 全ての演奏が終わってフロア内が明るくなったとき、私は放心状態だった。私を邪魔にして席を立つ人がいても、私は指一本動かせなかった。

 しばらくして、ようやく吐息が一つ。身体が気怠い。エッチの後って、こんな感じなのかしら。勝負下着で覆った私の身体の各所から、それを思わせる反応が伝わってくる。自分の身体がこんな風になることが、自分自身で信じられない。

 けれどその陰で、私は自分に問いかける。

 今までの人生の中で、私はステージ上の彼のように心から笑ったことがあっただろうか、と。

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