短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~7.~

7.

 気がつけば、客席にはもう私一人。幻想的な気配に身を嬲られているうちに、時間の感覚を失っていた。でもあえて腕時計を見る気はない。けれど、時間の経過を如実に示す現象が、私に「LADIES ROOM」と書かれた扉を開けさせた。

 用を済ませて鏡の前に立ってみる。まだ頬が熱い。冷たい水で顔をジャブジャブと洗ってしまいたい気分だが、そういうわけにもいかない。

 ジン・トニックに奪われたリップをゆっくり引き直す。うん、悪くない。ちょっと顔が赤いことを除けば、いつもどおりのカッコイイ私。

 男はみんな、女の身体が細く柔らかそうなカーブを描き、その内奥が見えそうで見えない服が好き。それが一番よく私を引き立てることを知っているから、私はそんな服を好んで身につける。だけど今目の前の鏡の中に、私は映っているだろうか?

 トイレから出ると、バーカウンターの周りが賑やかだった。ステージを終えたバンドのメンバーがバーテン達と談笑している。

「やあ京野、来てくれたんだね」
 私を見るとすぐに、霞君が声をかけてきた。グラスを持ったまま私の手を取り、隣の止まり木に座らせる。さっきまでスティックを持って、激しくドラムを叩いていたその手。それが私の皮膚に体温を感じさせる。熱い。とっても。

「どうだった? 俺達のステージ」
 彼は屈託のない表情で、まっすぐに質問を投げかけてきた。それに合わせて他のメンバーも笑顔で好奇心たっぷりの視線を向けてくる。

 長い白髪をポニーテールにしたピアニストのオジサンは五十から六十歳くらいだろうか。サックスの黒人はきっと三十代。ウッドベースの男の子は二十二、三といった感じ。

 彼らに共通しているのは、あどけない子供のような表情とキラキラ輝いている瞳。それが8個も揃って私を見つめているなんて、思わず身をよじりそうになる。再び頬が真っ赤に染まる。努めてクールになろうとするが、自制がうまく働かない。

「あの――、もう、何か入り込んじゃって、気持ちよくてボーッとしているうちに、いつの間にか終わっちゃってて……。私、ジャズ生で聴いたの初めてだったんだけど、曲がどうとかいうより、その気配に圧倒されちゃって――。ごめんなさい。私、ワケ判んないこと言ってる」

 私の支離滅裂な言葉に呆れるかと思ったら、みんな「へえ」とか「ほお」とか言いながら、私を見る目に強い光を込めてくる。

「京野、いい感性してんな。そういうことが判る人なんだ」
 霞君はニヤリとして私に顔を寄せた。意外な驚きだが実は予想していた、というような嬉しそうな表情。

「ありがとう。それは最高の褒め言葉だよ」
と、白髪のピアニストは私にウィンクを投げる。

 でも私は、それに対して気の利いたリアクションを返すことが出来なかった。私の神経は過敏に昂ぶっている。演奏中の陶酔状態を思い返し、また身体が熱くなる。

 きっと私はバカみたいにうろたえている。傍目から見ても、今の私にはカッコよさなど微塵もない。でももうダメだ。こんなシチュエーションは初体験。リカバリーする方法が見つけられない。どうしよう? 

 とりあえず、正常な思考を妨げるこの身体の熱を少しでも冷まさなければ。えっと・・・。

 私は動揺し、目の前にあった氷入りのグラスに手を伸ばすと、中の液体を一気に体内へ流し込んだ。

 確かに液体そのものは冷たかった。けれどそれは見事に私の期待を裏切り、全く正反対の効果を瞬時に体内にもたらした。

 辛い。そして熱い。猛烈に熱い。口の中が、液体が流れ落ちていく喉が、胃が焼けそうに熱い。私は激しく咳込んだ。けれどそれはその熱い液体が体内を駆け巡るスピードを助長し、呼吸を奪い、鼓動を激しくしてさらに私を苦しめた。

「な、何コレー。すっごく、辛い……」

 私は途切れ途切れに声を絞り出した。

 霞君がちょっと心配そうに新たなグラスを差し出してくれる。私はそれを掴み取り、一気に飲み干した。今度は正真正銘の水。ようやく私は深く息を吐く。

「だってそれ、ウィスキーだもの。しかも俺の」

 何てこった。私がアメリカ人だったら、きっと今頃「オーマイガッ!」と叫び出しているところだ。うろたえるあまり人のグラスで一気飲み。その上激しくむせて醜態を晒してしまった。どうも私は、この人の前でいつもどおりカッコよく振る舞えない。

 彼はウィスキーのお代わりを頼み、私のオーダーも訊いてくれたので、私はジン・トニックを頼んだ。

「いつも、そんな辛いの、飲んでるの?」
 私は訊いた。
「慣れれば別に辛くないよ。かえって、甘いかな。俺、ビールなんかよりこっちの方が性に合ってる」

 そう言って、彼はグラスに唇をつけた。その仕種がとてもさまになっている。

 きっと飲み慣れているのだろう。体育祭や合唱祭など、校内のイベントの後にクラスで開く飲み会に一度も顔を出さない彼が、こんな風にアルコール度の高いお酒を飲むなんて、全く予想外のことだ。

「飲めるんなら、クラスの飲み会にも時々顔を出せばいいのに」
「それは、遠慮しとくよ。俺、飲みたいときに飲みたい分だけ自分のペースで飲みたいから、一気飲みを強要されたり、騒いだりするの好きじゃないんだ。それにみんなと仲良くないし、イベントの達成感も共有出来ないしね」
「そんなこと……」

 私は言葉に詰まった。確かに学校内での彼は、盛り上がってバカ騒ぎの出来る性格には思えない。

 気がつくと、彼以外のバンドのメンバーはカウンターから消えていた。

「でも、もうちょっとみんなと仲良くなれればいいのに。今のようにほとんど仲間外れみたいな状態、嫌じゃない?」
「そりゃあ、気分よくはないさ。でも正直、そんなことどうだっていいんだ」
「随分、投げやりなのね」
 表情からそうでないことは判っていたが、私はあえてそう言った。案の定その言葉は、屈託のない笑顔にすぐに弾き飛ばされる。

「そうじゃないよ。俺、本気でジャズドラマーとして将来やっていきたいと思ってるんだ。だからまずは今のバンドでメジャーデビューしたい。そのための努力を今までもしてきたし、これからも惜しむつもりはない。

 学生だから、当然学校には行かなきゃならないんだけど、それ以外の時間は出来るだけそのために費やしたいんだ。学校終わったらバイトしたり、スタジオで練習したり、ライブに出たり、作曲したり――。

 俺にはやることが沢山あるんだ。その結果、クラスメイトと疎遠になったとしても、それは仕方ないって思うしかないし、クラスメイトの方から俺にコミュニケーションを求められても、俺は時間的にも彼らの期待には応えられないから、それで仲間外れにされるなら、まあそれも仕方ないかって」
「大人ね」
「どうかな。何が大人で何が子供かなんて、定義の仕方でどうにでも変わるじゃん。俺は、俺が俺であるためにやりたいことをする。それだけだよ」

 そう言って、彼は残りのウィスキーを一気に飲み干した。カウンターに置かれたグラスの中で、バーテンが刻んで作った球形の氷がパキーンと音を立ててまっ二つに割れた。その音は、私の頭の中になお一層強く響いた。

「……カッコいい」
 私のそれは、半ば呆然とした呟きだった。

 自分の夢のために素直に懸命に生きる。これこそ本当のカッコよさだ。私の求めたものとは雲泥の差。私のは見た目だけ。うわべだけ。彼の前にこんな露出の多い服を着て来たことが、今になって無性に恥ずかしく思える。本当にカッコイイ女は、きっとTシャツにジーンズでもカッコイイのだ。

「だろ? なかなかいないよ、前向きに仲間外れになれる奴。……なんてな」

 その、子供のようなキラキラした瞳。私が日々求めて止まなかったそれが、今までは見て楽しむだけだったそれが、今は私の表皮を通り抜けて深々と心に突き刺さる。

「ヘイ――」
 突然背後から、早口の英語がまくし立ててきた。振り向くと、カウンターから消えたメンバーがステージ上で楽器を準備して待っている。

 でも驚いたのはそのことじゃない。霞君が、サックスの黒人に負けないくらい早口の英語で言い返したことだ。

「英語、話せるの?」
 私は目を丸くして訊いた。

「そうだね。あいつジョニーって言うんだけど、ジョニーと話す分には全然問題ないよ。もっともあまりいい言葉遣いじゃないから、正しい英語と呼べるかどうかは判らないけどね」

 この人、本当に底が知れない。一体何度私を驚かせれば気が済むのだろう。

 彼は出来ること、出来ないことを素直にはっきりと口にする。それでいて少しの嫌みも翳りもないのだ。

「ジョニーがそろそろ始めようってうるさいから、本題に入ろうか」
 そう言って、彼は私を口説き始めた。

 ジャズは基本的に先人達の名曲を引き継いで演奏するだけのように思われがちだけど、自分達のバンドはジャズに新しいムーブメントを立ち上げたいと思っている。そのために自分達で曲作りをし、それを元にメジャーデビューを果たしたい。

 その売り込み用のデモ音源作りにぜひ協力してほしい。今回の曲にフィットする女性の声を俺達はずっと探してた。黒板消しを叩きながら歌っていたあのファルセット、あのときの君の声が最高にいいと思った。絶対俺達の曲にぴったりだ。俺はそう確信したから、君にここへ来てもらった。みんなも待っている。だから歌ってほしい、あのファルセット。

 いつの間にか私の手を取って力説する彼の瞳から、逃れられるとは私はとても思えなかった。彼の夢に協力する。彼の力になれるということ。最初から私に否やのあろうはずがない。

 でも正直に言うととっても怖い。私で力になれるだろうか? 彼らの期待に応える力が私の中にあるのだろうか?

 そんな思いが、私の中の素直な「イエス」を引き留める。

 でも彼は私の表情を読み取ると、手を引いて無理矢理ステージに立たせた。新たに設置されたボーカル用のマイクスタンドが、鈍い輝きを放って私にプレッシャーをかけてくる。

「京野、楽にして。あのときみたいに、両手に黒板消しを持っていると思えばいい。……楽譜、読めるか?」

 ドラムセットに座り、スティックを指先でくるくる回している霞君に、私は不安げに首を振った。

「ダンさん、頼みます」
 彼がそう言うと、ピアノのダンさんがコードを一つ鳴らし、私にほほえみかけた。

「そんなに緊張しないで。左手が伴奏、右手が君の歌うメロディ・ライン。よく聴いて、音を覚えて。歌詞はないから、ラララでいい。繰り返し弾くから、慣れてきたら声を出してみて」

 私は唾を飲み込みながら頷いた。何度かの繰り返しの後、少しずつ声を出してみる。かすれている。身体も口も強張っている。

 それでもピアノのダンさんはにこやかな表情を崩さずに、何度もフレーズを繰り返してくれる。

 けれど私の心は申しわけない気持ちでいっぱいだ。早くちゃんと歌わなきゃ。みんなの期待に応えなきゃ。私がちゃんと歌えなきゃ、霞君の立場がなくなっちゃう。

 彼の前でこれ以上みっともない姿を見せたくない。バンドのみんなに、使えない奴と思われたくない。そう思えば思うほど自分の首を絞めることになるだけだというのが判っているのに、私は既にこの思考の悪循環を断ち切る術を失っていた。

 ふと、伴奏中のダンさんの視線が私から逸れた。何だろう? そして背後に人の気配。でも振り向くより先に、私の耳の裏側に息が吹きかけられた。

「きゃあああっ!」

 思わず叫び声を上げた。そこは私の身体の中でもっとも敏感な部分の一つ。男女にかかわらず単なるクラスメイトがこれをやったら、ソッコー平手打ちして一生涯の絶交を宣告するところだ。

「――!?」

 やったのはもちろん霞君。私は動揺しまくり、口をぱくぱくさせながら彼を見た。彼は最初だけいたずらっぽい表情を見せていたが、すぐに真剣な顔をして、

「京野さあ、最初からうまくやろうとか思わなくてもいいよ。ステージに立つの初めてなんだから、それでうまく出来たら、俺らの立場がないじゃんか。お前、歌うの好きだろ? 俺知ってるよ。そうでなきゃ、あんな伸びやかなファルセット出せやしない。

 リラックスして、歌うことを楽しんで。誰が期待してるとか、そんなこと考えないで、好きな歌、歌ってよ」

 私はまだジンジンする耳の後ろではなく、激しいビートを刻む左胸に手を当てた。

「ごめん、びっくりさせて。でもこれやると、ホントにリラックス出来るんだぜ。身体の力、抜けたろ?」
「……うん」
 鼓動が緩やかに戻ると、確かに身体からよけいな緊張がなくなっているのが判る。

「俺も初ライブのとき、ステージに立つ前にダンさんにやられたのさ」
 そう言って霞君が視線を投げると、ダンさんはそれに思わせぶりな笑みをニヤリと返した。

「でも自分のパートだけだと、確かに歌いにくいかも。ジャムに巻き込んじゃった方が、勢いでいい声が出るのかな。ダンさん、それでいきましょうよ」

 ダンさんの返事と霞君のドラムソロが始まったのはほとんど同時だった。すぐに他の楽器が追いかけて心地よいグルーブを作る。いい感じ。これならゆったりとした気持ちで声が出せそう。

 ダンさんは、他の楽器にかき消されないように強めにメロディ・ラインを弾いてくれている。それでも私は一小節目の出だしを外してしまった。けれど、今はそれでもいいや、と思える。

 歌い始めた中で一つ判ったことがあった。あんなことして平手打ちせずに許せるのは、たぶん霞君だけだ。

 自然に声が出た。ファルセットもいい感じに伸びる。ちらりと見ると、みんなの表情が変わっている。

 でもそんなことどうでもいい。心地よいリズムの波にぷかぷかと身体を浮かべて空を見ているような、そんな気分。霞君と目があってもウィンクを返せるほど、今は心に余裕がある。それに対して彼が心底嬉しそうな笑顔を返してくれたから、私の歌はまた一小節飛んじゃった。

 でもみんな楽しそう。私も楽しい。こんな気持ち、一体いつ以来だろう。もしかすると初めてかも。

 演奏は続く。私も歌う。最初から通したり、パートのアレンジを変えてみたり、ラララを崩して歌ってみたり――、心地よい疲れと共にライブハウスを出る頃には、朝日が昇りかけていた。

 時の経つのを忘れるほど夢中になったのは、本当に久しぶり。バンドのみんなとの一体感も、目にしみる淡い自然の光もホントにホントに心地いい。

「行こうか」

 そう言って私を見る霞君の笑顔に暁の光が射しかけて、私の目を眩ませたとき、それは確信に変わった。

 私は、ずっと前からこの人が好きだったのだ。

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