短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~3.~

3.

 キーを差し込んで部屋に入ると、薄暗く冷え冷えとした空気が私を迎えてくれた。この家が家族で埋まるのは、深夜から朝にかけてのわずかな間だけだ。普段ほとんど人のいないこの広すぎる空間を、私は時折もったいないと思う。

 鞄を置いて制服を脱ぎ、そのままベッドに倒れ込むと自然と溜息が漏れた。誰の視線もない一人きりの場所で、私は少しホッとする。大の字になった四肢の先端までが徐々にリラックスしていくのが判る。

 私は他人の視線の前で、私であることを演じている。

 私は早くから自分を客観的に見ることが出来る子だったから、自分のどこをどう飾れば人から可愛いと思ってもらえるかを自分なりに知っていた。また、それを実現するための親の財力も持ち合わせていたから、私は常に自分を磨き、小さい頃から男の子にモテたし、女の子からは憧憬を孕んだ友情をもらった。

 私の周りには常に人が集まった。

 センスがよくてカッコイイ女――、これが周りの私に対するイメージだった。私は時折それに答えるべく、薄いブラウスの下にストラップレスの紫色のブラジャーを着けて登校したりした。

 負けず嫌いの執念で、あるときテストでいい点を取ったら、「知的な女」と称賛を浴びた。以来私は、ある程度の成績を維持するよう努めた。

 男の子達に人気があったので、女の子達が、どうすれば男の子にモテるのか、彼とうまくいくかを相談しに来るようになった。幼少時より乱読家でそれなりの知識があった私は、その範囲内で適切なアドバイスを返した。それが好評であったがゆえに、いつしか私のそれは豊富な実体験に裏打ちされたものだと思われるようになった。

 私は立ち上がり、鏡の前で全裸になった。制服には制服用、私服にはそれ用の下着がある。学校では控えめなピアスもちょっと大きめのものに代えてみる。

 だけど本当は、得意な気持ちの裏に隠したいという気持ちがある。見せたい思いと逃げたい思いが同居している。シルクやシルバーで埋め立ててしまったら、私の心は誰からも見えなくなってしまう。

 そんな風に思いながらも、カラータイツの下にラメのペディキュアまで塗る自分を、私は時々二重人格だろうかと思う。


 夕方から降り出した雨は止まることを知らず、深夜にも本降りのままだった。少なくなった街の灯りに照らされて空から落ちてくる水は、ときにしらたきのように、またあるときはロングピアスのように見えることもあったが、今の私には人の元気を奪う毒針のように思えた。

 私はいつしか溜息をついていた。

 もうすぐ日付も変わろうというこんな時間に、自分のバイト先である喫茶店の軒先に所在なく立ち尽くすなんて、当初の予定にはなかったことだ。さっきから私のスマホにはひっきりなしに友達からメッセージが入って来るが、どれに返信する気にもなれなかった。

 事の始まりは、店長が早退したことだ。

 確かに私も、一緒にシフトに入った宮田君も、店長と一緒に何度かクローズをやったことがあったから手順を覚えてはいたけど、責任者不在でやるっていうのはかなり不安だった。

 だけど日頃から責任感の強い店長が自ら、「早退したい」と言い出すなんてよほどのことだと思ったから、二人共断るなんて出来なかった。

 重そうに身体を引きずって、真っ青になりながら歩く店長を送り出した後、こういうときに限ってお客さんが沢山来て、店は大忙しとなった。

 営業時間は午後十時までだったけど、バイトだけではなかなかお客さんに帰ってもらうよう言い出しにくくて、ようやく店を閉めたのが十一時十分。それから店内の清掃、売上集計などを始めたためにこんな時間になったのだった。

 私は傘を持っていなかった。店にも置き傘はない。宮田君も持っていなかった。彼は自宅とは反対方向にある銀行の貸金庫に売上を入金する役を買って出てくれて、そのまま雨の中を走って帰ってしまった。

 しばらく待ってみたが、一向に雨脚は衰える気配を見せないため、私は、覚悟を決めて駆け出した。

 が、すぐに後悔した。

 一瞬で衣服がずぶ濡れになり、身体にまとわりついて気持ち悪い。真冬でもないのに急激に体温が奪われていくのが判る。髪が顔に貼りついて、視界が狭くなって鬱陶しい。

 私は我慢出来なくなって、前方から視界を切って髪をかき上げた。

 そのときだった。私の身体に何かがぶつかった。「ドシン」という衝撃。でも金属などではない、恐らく他人の肉体と思われる柔らかな感触。

「ごっ、ごめんなさい」
 私は咄嗟に謝った。前方不注意、どう見ても非は私の方にある。でも相手が返した言葉に驚いてその顔を見たとき、私の身体は胸の奥から別の衝撃を受けた。

「何だ、京野じゃん」
「霞、くん……」
 そう。あの霞大吾だったのだ。よりによって、こんなずぶ濡れの醜態を彼に晒す羽目になるなんて。私は今すぐ逃げ出してしまいたい気持ちだった。けれど、彼が「入ってく?」と言いながら傘を差し出してくれたときには、私は「うん、ありがとう」と自然に頷いていた。

 私は傘の右側に入り、彼と肩を並べて歩いた。これ以上濡れなくて済むことにホッとしたのはほんの一瞬だった。私の全身は緊張し、鼓動は高鳴りっぱなしだった。彼は何も喋らないけれど、傘を少し右に傾けて私が濡れないようにしてくれている。そのせいで、彼の左肩に傘から雨が落ちている。

 そんなに気を遣ってくれなくていいよ。もうこんなにびしょ濡れなんだから。

 普段なら何てことのないこんな言葉が、今はどうしても自分の口から音となって外へ出ない。けれど、このままでは間が持たないので、私から何か話すしかなかった。

「あの、ありがとう。助かっちゃった。バイトの帰りだったんだけど、私、傘持ってなかったから……」
「バイト?」
「うん。ウェイトレス。喫茶店の。知ってる? 『キャッツ』ってチェーン店」
「うん。女子の制服がオレンジのミニスカートってアレでしょ?」
「うん」

 彼の視線がちらりと私の方を向いた。私がオレンジのミニを穿いている姿を彼が想像しているのだろうかと思い、ちょっと恥ずかしくなった。

「あ、電話」
「え?」
 ふいに彼が言った。彼の目線を追いかけると、私のバッグの中でスマホが着信ランプを点滅させながら震えていた。私は画面も見ずに、バッグの奥へ押し込んだ。
「いいの?」
「うん。どうせこの時間は、特に用事のある連絡じゃないから。霞君、スマホは?」
「持ってない。必要ないから」
「へえ。霞君らしいね」

 私が何気なくそう言うと、彼は突然立ち止まった。彼が私に向ける瞳には、意外な驚きというような色が宿っている。私にはそう見えた。

 でも何が? 私がちょっと考えている間に、彼は小さく笑いながら視線を前に戻し、再び歩き始めた。

 が、彼が髪をかき上げる仕種をしたそのとき、私はつい声を上げてしまった。

「あっ、ピアス」
「え?」
 少し間があって、彼はちょっと照れたように、「ああ」と笑いながら頷いた。
 かき上げる髪の隙間からだったけど、小さめの耳朶に光る緑色の石を私は見逃したりはしなかった。

 でも、私が気になったのはピアスだけじゃなかった。私の鋭い嗅覚が、彼が髪をかき上げた際に微かに舞った、煙草と酒と香水のような甘い香りの入り交じった匂いを確かに捉えたからだ。

 何故彼はこんな匂いを? そう言えば、何故彼はこんな時間にここを歩いていたのかしら? 彼の背のリュックには、一体何が入っているのだろう?

 私の中に次々と好奇心が沸き起こる。それを口に出すべきか否か葛藤する。初めて会話を交わした夜に、そこまで踏み込んでいいものかというためらいが揺れる。

 そうしてぼんやりしていると、突然彼が私の手を取った。

(……え? え?)

 私がどぎまぎしていると、彼は私の手に傘を押しつけて、
「京野ん家、あっちだろ? 俺、向こうだから」
と、立ち止まって言った。

「どうして知ってるの? 私ん家」
「前に、帰るとき見かけたことあったから。その傘あげるよ。じゃあ」

 私が次の言葉を口から出す前に、彼は走り去っていった。私の左手の彼が触れた部分は、雨が蒸発するほど熱かった。


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