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人との別れについて思うこと

家を出るとか初めて1人で暮らそうとした時などの、親との別れという節目はそんなに苦しみとか悲しみというのがなかった。無感情だった。

むしろ、親からもらいたかったものを代わりに親のように私に与えてくれた、愛情を示してくれた人たちとの別れの方が何倍もつらかった。
自分から切り出した別れだとしても、体の一部が引きちぎれるような思いだった。明らかな精神的欠損を感じた。

ただ、そうやって直感的な感情というのが湧かないからといって、親や家族に対して何も思っていないわけではない。
いや正直自覚はできないけれど、多分それらは静かに黙っているだけで、私の中にそれもなかなか大きいウェイトで横たわっている心地がする。

なぜなら今でも家族の夢を定期的に見てしまう。

それは私を苦しめるものだったり、昔の、一時の穏やかな時間を感じさせるものであったり、何てことない日常のワンシーンであったり、とにかくいろんな形で家族の夢というのを定期的に見てしまう。

だから別れの瞬間にあまり何も感じなかったというのは 、感情自体がないというより感覚器そのものが抜け落ちてしまったような、私が何も感じないでいられるように機能自体がオフになったような、きっとそういう仕組みが私の中で起きていたんだと思う。

受け取る機器――感受性と言うんだろうか。家族に関する感受性というものが、過去のどこかで機能がオフになっただけで、きっと私の中に感情はあった。恐らく今もある。当然といえば当然のことだけど。

なんとなくそうなってしまった心当たりはついていて、その機能がオンになっていると私が壊れてしまうが為に、無意識のうちに、私の身体が私を守るために勝手にスイッチをオフにしたんだろう。

ヒトの身体(脳)というのは本当によくできていて、なにをしてでも人を生き延びさせようとする。たまに起こる誤作動も含めて、生かす為なら手段を選ばないし結果苦しめることになるとしても生命を生かそうとする。ちょっと厄介だなと思う。

スイッチが切れている(というか壊れてるのかもしれない)からといって何も思っていないというわけではない。言葉にできないからと言って、私の中に何も存在していないわけではない。

伝えられない以上、そう認識されるのは仕方ないとは解っているけど、
悲しむ相手の私に対する解釈を内面化しないようにたまにこうやって必死に言い訳を述べておかないといけないなと思う。他人の自分に対する言葉はあくまでいち解釈に過ぎない。

私が知っている私のことを信用できるようにならないとな、などと考えている。結局私に最後まで付き合って生かしてくれるのは私だけなので。

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