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AIが大人を褒める

毎日「AI」を目にする。新聞で、webニュースで、雑誌でも冊子でも見る。ブックマークもしている。AI、AI、AI。「AIはすごい」という意見もあれば「AIは危険」という意見もあるし、「AIと生成系AIは違う」と話す人も「AIと生成系AIの違い」を教えてくれるAIもいる。AIだらけだ。

人ができないことをやる。あるいは、人でもできるけどAIの方が得意なことをやる。主語を自分に変えてみたとき、ふとそれって何だろうと思った。

できないことって、なんだ

自分ができないこと、自分でもできるけどAIの方が得意なこと。世間を賑わせるタレントが自分の家のリビングに座っているようだ。どこかの研究所から歩き出し、街中に増殖してついに自分が履くズボンのポケットまで来た。そして思う、こいつに何をしてほしいだろう。

自分ができないことなのだから、きっと普段は他人にしてもらっていることなのだろう。誰かに頼らなくちゃできないことを、自己完結するためのツール。少し寂しい気もするが、だからといって無駄なコストを払う気にもなれない。電話を掛けて依頼をし、お金を払って受け取る手間が、手元にあるディスプレイ上でものの数秒で解決できるなら、自分も含め多くの人がそちらを選ぶ。ダメ出しもしやすい。「そうじゃないんだよな」「申し訳ございません、別の案をお出しします」物足りなかったら、ガンコな職人風にも返してくれたりするんだろうか。いや、むしろガンコな職人風AIも、セクシーなモデル風AIも、諸葛孔明風のAIだってそのうち出てくるだろう。王道はやがてニッチに。昔、格好いいを経て陳腐に見えたときが流行の終わりだと誰かが言っていた。誰だっけな、AIではなかったはず。

褒めること=AIができること?

そんなことを考えていて、ふと思った。ひょっとしてAIにできるのって「褒めること」なんじゃないだろうか。
小学生のとき、忙しく働く父親を見るたびその安定感に圧倒されていた。自分の知らない誰か(きっと大人だ)と電話で談笑し、朝は新聞を読み、夜はスーツで帰ってくる。休日には車を運転し、子どもが悪いことをすると怒る。そうした一連の行動を、ブレることなく繰り返す安定感。葛藤を重ねて泣いたり怒ったりする自分と比べては、大人ってすごいなと感心していた。
だが、自分が父親と似た年齢になり分かったのは、「そう見えていただけ」というシンプルな答えだった。安定など、ほど遠い。小学生と同じように葛藤し、悩み、揺れ動いて立ち上がり、また進む。その繰り返しだ。

そして、葛藤をこえ進み続ける原動力もまた、小学校の頃と大して変わらない。「褒められること」だ。テストの点数で、年度末のお遊戯会で、自分が書いたコピーで、大企業相手のプレゼンで、良い結果が出たときにもらえる「頑張ったね」という一言。その言葉に励まされ勇気づけられて、もう一度進むことができる。そんな瞬間がたくさんある。たった一つ違うのは、大人には褒めてくれる人があまり多くないという点だ。

大人には褒めが足りない

大人を褒める人はあまり多くない。それはその大人の社会的な地位が上がれば上がるほど顕著になる。小学生が10万円稼いだらベンチャー企業にスカウトされそうだが、孫正義が10万円の利益を生んでも褒める人はいない。そして、孫正義さんはそれ以外の業績でたくさん褒められるだろうけど、世の中の多くの大人はそうではない。

ディープラーニングされた集合知を使い、AIは客観的だが親密に、大人を褒めるだろう。自分の知識を超えたすごい技術という根拠が、その褒めに説得力を持たせる。そこには新しい癒しの姿があるし、AIにより評価され勇気づけられる人間というちょっと不気味な姿もある。

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