現実は、神様が思うよりはるかに残酷だー。【映画『ホロウ』作品解説】
よく、すべての出来事には意味がある、と言われることがある。
では、ある日突然娘の命が無惨に奪われてしまったら。その命を奪った男がたった1年足らずで釈放されてしまったら。果たしてそこにはどんな意味があるというのだろうか。
映画『ホロウ』はそんな絶望的な世界に突き落とされ、神も何もかも信じられなくなってしまった一人の母親を描いた作品です。
鬱映画とも言うべき今作。劇中に散りばめられていたキリスト教のテーマやモチーフが表していた意味とは何だったのか。そして作品に込められたメッセージとは?
今回は、その制作背景とともに映画『ホロウ』に迫っていきます!
※この解説はいかなる宗教も否定・批判、または称賛・宣伝しているわけではないことをご理解いただけますと幸いです!
貧しかった少年が監督になるまで
”この映画は、ブリストルの貧しい街で育った少年だって、まだ夢を叶えることができるんだと世界に証明するチャンスを与えてくれた”
そう答えたのは、『ホロウ』の監督を務めたポール・ホルブルック監督。
映画の舞台にもなっているイギリス、ブリストルの街で育った監督は、まともな教育を受けられず、決して裕福とは言えない環境で育ちながらも、脚本家、そして映画監督として地道にキャリアを築き上げてきました。
そんな彼が見つめる人々の生き様は、人間らしくもありパワーに溢れているのも見どころ。
これまでの監督作品『シャイニー』『少女と拳銃』『日曜日の礼拝』などはSAMANSAでも配信されてきましたが、どの作品も、どこかで心の苦しさを抱えながらも力強く生きていく魅力的な主人公が特徴的でした。
しかし、今作『ホロウ』はそんな力強さとはまたちょっと違い、人間の弱さ、そして憎悪の連鎖を絶望的なほどに真っ直ぐに描いています。
ただ復讐に取り憑かれる主人公ローラ、罪悪感に苛まれながら酒に溺れる被告の男ラヴィン、足を洗い必死に神にすがろうとする牧師、そんな彼に罵声を浴びせる貧困街の若者たち。
この映画の登場人物たちは皆、病んだ社会の中でもがこうとしながらも追い詰められています。
主人公ローラを演じた女優のローラ・ベイストンは、悲しみにくれた母の絶望感を表すため、撮影期間は実際にほとんど何も食べていなかったのだそう。飢餓状態で演じられる彼女の演技は、まるで本当に何かを失ったかのようですね。
聖書の引用と’クモ’の意味
劇中では牧師がたびたび聖書を引用する場面がありました。登場したのは、キリスト教聖書の中の「ローマ人の手紙第12章」。
神への献身と自己変革を説くこの章では、「復讐は神の成すことであるから、怒りに任せるのではなく悪には善を持って打ち勝たなければならない」といったことが強調されています。
つまり、牧師はこの章を引用することによって復讐に燃えるローラをとめようとしていたのです。
しかし、映画の冒頭で、ローラの部屋の壁に十字架の跡がついていたことなどから、きっとこの頃にはもうすでに彼女がキリスト教を見捨てていたのかもしれません。
また、劇中で登場していた蜘蛛ですが、クモは聖書の中でイエスを守るために神から送られた使者として、「神の保護」を象徴する場合があるのだそう。
このことから、ローラが蜘蛛を潰したシーンは、娘の命が守られなかった今、そんな「神の保護」など信じたくもないという彼女の強い憎しみを表しているとも言えます。
さらに、先ほどのローマ12章の中にはこのような一節があり、
「なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。」
この ”一つの体と複数の肢体” がクモの姿をも連想させることからも、蜘蛛はこの映画において重要なモチーフであると言えます。
受刑者過多で釈放?!
6歳の少女を惨殺しておきながら、受刑者の過多というとんでもない理由から釈放された被告の男。
実はイギリスとウェールズは、西ヨーロッパの中でも特に高い受刑者数を誇っており、刑務所の過密状態が深刻な問題となっています。 資金不足などから、囚人が増加する一方で限られたスペースに収容しなければならない状況が続いており、現在でも約20,000人の人が過密状態で拘留されているのだそう。
このような現状は、刑務所内での暴行やドラックの使用を悪化させる状況をも生んでしまいます。
この映画では、最後までなぜ男が殺人を犯したのか、その背景まではっきりと描かれることはありませんでした。しかし、新聞にSORRYと大きな文字で書かれていたことやラストシーンでローラを逃したことから、おそらく自らの過ちに拭いきれない罪の意識を抱えていたのかもしれません。
ですが、どんなに謝罪をしようとも、その代償はあまりに大きすぎるものでした。
胸をえぐられるラスト
聖書の中には「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という一節があり、牧師の言った「ラヴィン(被告)にはいずれ代償を払うときがくる」と言う言葉は、きっとこのことを意味しています。
しかし、どんなに神に祈っても、たとえもし裁きがくだったとしても、娘が帰らぬ人となってしまった事実は変わらない。それはローラにとってどんなことよりも地獄にほかならなかったのです。
あのラストシーンは、彼らにとって神への信仰など虚構に過ぎないほど、現実が残酷であることを表しています。
一方で怒りに任せた憎しみもまた、結局は誰をも救うことができませんでした。
復讐せずあのままただじっと座っていたら、果たして何かが変わったのか。だからといって、怒りを抑えながらも必死に信仰し続けた牧師はただ「哀れ」だったのか。
信仰なんて力にならないほど残酷で不条理な世界の中をどう生きていくべきなのか、映画『ホロウ』は問いかけているのです。
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