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『死してなお踊れ』でおどる

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』 河出書房新社 2017年

読んでいて踊り出したくなる文章だ。この人の書物は軽快でざっくばらんな表現が多い。どうだ参ったか!どんどん行け!という爽快感が漂う。

さて、むかしむかし、法蔵(のちの阿弥陀如来)が48の願いごとを立てた。庶民に寄り添ったありがたい願。さらにそのなかの第18願だけをピックアップして押し出したのが、法然(浄土宗の開祖)だ。

第18願(現代語訳)

私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。

ja.wikipedia.org

法蔵は48願の中で「この願いが果たされなければ私は仏にならない」と言い切っている → その後ちゃんと阿弥陀如来になっている → よって、だれでも心して念仏を唱えれば浄土へ行けるはず…というシステム。
つまり阿弥陀仏様のおかげで極楽往生が可能、なので「他力本願」という。

話を戻そう。法然のポイント。
「十遍、私の名を称えた」そこに着目した。それだけでいいんだ、長く厳しい修行や働いて得たお金を泣く泣くお寺に寄進したりしなくていいんだ。
一遍もその思想をうけつぎ、さらにとんがっていく。

生きながらにして往生できるって、どういうことですか、あたまおかしいんじゃないですかと。一遍だったら、こうきりかえすだろう。うるせえよと。一遍は、おおまじめにこう考えている。現世と浄土のあいだに境界なんてありはしない、仏の世界はいつだって人間の世界にすべりこんでいるんだと。

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』p53

もし幼な子が崖から落ちそうになれば、危ない!と無意識に体が動いて子を助る、その心根にすでに仏の慈悲が息づいている。
しかしそのためには「捨て」なくてはならないものもある。現世の価値観にそってお金に執着し、いつの間にか目的がすり替わって本来の自分を見失っている、その状態から脱しなくてはならない。身内の相続のドロドロ、自身の愛欲、そういうものに一遍も苦しんでいたようだ。いくつかの出来事をきっかけに断ち切っていこうとする一遍の様子が本書に描かれていく。
身を捨て、捨てようとする心までも捨てよ。徹底している。
空也の、念仏は「捨ててこそ」というシンプルなフレーズも力強い。
良いコンセプトは短く、限りなく芳醇である。

興味深いのは、短い念仏をしるしたお札を配っていたことだ。その数、二十五万枚以上。大人も子供もみんなが欲しがったという。いい気分だったと思う。それでちょっとした事件が起き、一遍はまたガックリくるのだが、そのとき彼は熊野権現という神様の夢を見たという。神様は「とにかく札を無心で配りまくれ」と告げてくれた。

【ちょっと解説】なぜ仏教を志す者なのに、神社の神様が? 
日の本はまことに柔軟なおくにである。本地垂迹ほんじすいじゃく、つまり「神道における八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である(権は「仮」という意味)」という思想。親しみやすいし、都合がいい。神仏とは「神 or 仏」ではなく「神 and 仏」なのだ。
神社が仏教の勢いに圧されたというより、仏教を広める段階でその土地の信仰をうまく取り入れながら浸透させていったのだろう。一遍の、熊野権現のエピソードもそんな流れに乗っていると言って良さそうだ。
詳細が気になる方はこちらの記事へ→「神『疲れたので仏になります』!?」

本書の中盤、いよいよ踊り念仏の始まりだ。その前段として、心と体のアンバランスさに対する一遍の違和感と不安が綴られる。昇天したいと高らかに念仏を唱えているのに体が重い。重力がきつい。そうだ、かしこまって座禅している場合じゃねえ! 気がつけば大地をけって飛び跳ねていた…

今を、己を、世界を、突破していく。突き抜けていくためには体を使わなくてはならない、自分の体で声で、世界を、突き刺していかねばならない

踊るとは気恥ずかしいものだ。整然とした盆踊りでさえ、踊りの輪に入っていく一瞬は、生まれ変わるような緊張感がある。あらためて我執を捨てて、飛びこんでいく実際がある。

さて一遍は、諸地行脚により、じわじわと水平方向へ拡張しつつあった。そこへ、この激しい垂直方向の運動が加わった。世界という空間をタテからヨコから片っぱしに埋め尽くしていく。一遍のエネルギーと作為なき手法がどんどん人々を巻き込んで、ふくれあがる。
こうして一遍は世界に満遍なく行き渡っていった。

しかし一遍は考えた。かたになってはいけない。目的になってはいけない。
時衆が踊り屋で踊りながらぐるぐる回り念仏を唱えているが、それは決してお手本じゃない。こうすべき、という方向性が生じるとそれは組織になって階級になって、まるで捨てようと思ってた社会権力と同じじゃないか。そうではなくて、誰かがちがう歌い方を始める、踊り方も人によって変わる、その方がいい。

一丸となって、バラバラに生きろ。

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』p179

最後にもうひとつ本書からエピソードを引いておこう。
あるとき武士に念仏の札を渡したが、彼は人に「一遍は日本一頭のおかしい奴」と言いながらも「その念仏は狂ってはいない、だから札をもらったんだ」と。それを伝え聞いた一遍、破顔し大いに評価したという。いちばんわかってる、そうだオレのことなんてどうでもいい、オレが救うんじゃない、念仏が人を救うのだ、と。
本質的なことに個人の自我を重ねるべきでない。「私が」という自尊心などまったく不要で、言った内容・行動した事実、そのもの自体に価値がある。
真に何かを伝え届けたいなら、人は無名に透明に、くうのようにあるべきなのかもしれない。


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