『水中の哲学者たち』の息継ぎを見る
永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社 2021年
対話イベントを通して老若男女と哲学的な話し合いをしている著者が、その経験を振り返りつつ、戸惑いやひらめきや苦心、発見を繰り返すエッセイ。ドラマの水戸黄門的構造がある。
溺れてはいない
著者の活動の一つが、哲学の対話を通して共に悩み考えるというもの。本書ではあたふたしたりボンヤリ思い沈む様子がうかがえるが、じっさいご本人は予備校講師もしておられ、その動画などはチャキチャキとしてむしろやり手のようにも感じられる。たとえ水中でうまく泳げなくても、息継ぎの仕方がうまいのだろう。才能やバイタリティがあってどんどん進んでいける人、だからこそ本も出版される。
どんな息継ぎか
水中、海、泳ぐ、溺れる、沈むなど、たしかに水や深みを示す表現が多い。
まずは本書から、水中でのもがきと息継ぎに関して文章を引いてみよう。
このあとになぜか母親の描写が続き、著者のいる部屋が水中の比喩となる。しかし溺れているのは著者だけではない。書題には「たち」がついている。
なんと力強い言葉なのだろう。対話教室での子どもたちの言葉。脳の食欲。こう懇願されてなお授業を終えられるものなのか。テーマ(縛り)があり場が与えられ人が集まると、このような熱が生まれることがある。
著者は対話が怖いと言う。難しく、ときにつらいものだと。それでも対話を続けたいという意欲に突き動かされているようだ。小学校での対話教室の話が続き、子どもたちに急かされながら、著者は明るい水面へ浮上していく。
心で音が鳴る。対話ではたまにそういうことが起こる。しかし自分の心の何かが壊れた代わりに、出来上がったり自分自身になっていくものがある。あらためて著者はそう評価していく。
自分とは何か。自分で思う自分像と、他者が描く自分像。そのギャップには驚く。どちらが真実か決めることはできない。言葉や描像がさまざまに入り混じりながら、この世界に自分がゆらめいている。それを肯定的に受けとめたい、とする。
最後にひとつ。
水戸黄門的現代的
本書では、誰かの言葉の引用、著者自身の内面、意外な出来事への言及が、巧みな言い回しをもってここぞという要所に置かれている。それこそが(本書に限らずではあるが)エッセイにおける「黄門様の印籠」である。
なぜドラマの水戸黄門はあのカタルシスが可能だったのか。時代劇という設定も良かったのだろう。本書の場合は、日常の哲学的な問題とその困難さ。テーマとしては自在だ。もちろん勧善懲悪のモチーフはない。生きにくさ、伝わりにくさの問題も退治すべき悪ではない。そのかわりに果てしない戸惑いや当惑がある。
著者は困った様子の表現もうまい。説明的でなく情感や滑稽をも混じえる。
最後には気の利いたセンテンス。水中でもがきながらも、さわやかに息継ぎをする。難解な哲学よりもっと困難な日常への、等身大のアプローチがそこにはある。思わず読者も手を引かれて、明るい水面へと向かう。
とりあえずの面白さか、深みを目指す啓蒙か。読み手の中でその余韻をいかに展開するかで、読書の質も変わっていく。哲学が問いから始まるように、読むことはきっかけでもある。
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