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人生の高跳びをとんだり、あえてとばなかったり
わたしに、ぎりぎりの高さでバーを置いてくるのは、だれなんだろう?
いつもいつも絶妙な高さだ。
人生の大半、何十年も、とびこせなかったバーがあるのだけれど、
最近、それをとびこすことができるようになった。気がする。
*
他の人が、人生を楽しんでいるとき。
わたしは、ただひたすら、バーのことを考えていた。
わたしの世界はわたしだけのもので、他の人と比較できないから、何も言えないけれど、
わたしは、あまり人生を楽しむことをせず、ひたすらバーのことばかり考えていた。ような気がする。
バーをとびこえてから、人生を楽しむものだと思っていた。
正攻法ではムリだった。
足を鍛えるとか、助走を研究するとか、そういうことは飽きるほど繰り返した。
「とびこえなければならない」
それが大きな間違いで。
「とびこえなくても、問題なくない?」
「とびこえなくても、楽しめばいいじゃん」
毎日毎日、鍛錬とバーの研究ばかりに時間を費やしていたけれど、
「もうしらない」と、放棄した。
バーから離れて、大変久しぶりにお気に入りの場所へ行って、夢中になって遊びまわった。
それでも、頭の片隅には、バーのことがあって。
ふとした瞬間に、
「ああ、なるほどね」
と、ひらりとバーをとびこえた。
遊んでいるうちに、からだの使い方を思い出したのだ。
そして、
「べつに、とびこえなくてもいいけどね」
とも思う。
とぶもとばないも、好きにすりゃあ良いんだ。
どうして、「とびこえなければ」、と固く思っていたんだろう……。
折角だから、わたしの体験を、みんなに伝えてみることにした。
わたしみたいにつまづいている人がいたら、もしかしたら?、役に立つかもしれないけど、
これはわたしの自己満足。
また新しいバーがくるかもしれないし、もしかしたら、今のバーもとびこえられなくなるかもしれない。
まあ、その時はその時。
そもそも、とびこえなくても大丈夫なんだから、
ここで、今を大切に、ゆるやかに暮らしてる。
きっと、絶妙な高さでバーを置いていたのは、わたしだったんだろうなあ。
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