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韓留日記。

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かんりゅうにっき。留学を経て韓国に留まることになった暮らしのなかで、日々思ったり感じたりすることを書き留めておく雑記帖。
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記事一覧

カトノタタカイ。

蚊って本当にすさまじい生き物だ。いつからそういう生き方(他者の生き血を吸って生命を維持する)をしてきたのか知らないが、相当長いこと生き永らえながら、子々孫々「迷惑なやつ」と他の生物に忌み嫌われ続けてきたのだろう。 死に至らしめる伝染病を運んでくることもあるのに、「恐ろしい存在」というよりも「うっとおしい存在」と思われがちなのは、タイミングさえ合えば一発の平手打ちで死なせることができる弱弱しい体躯を持っているからだ。だけど彼らは単体の命で生きているのではない。一匹や二匹を殺し

入り口のおばあちゃん。

マンションの入り口のポーチに座っているおばあちゃんがいる。 私はこのマンション団地に住んでもう8年目になるが、自分の階の住民ですら、すぐ隣りの「赤い髪のおばさん」以外はまったく面識ない。 ちなみに、韓国のマンション(通常、高層の住宅建物は「アパート」と呼ぶ。日本でいうアパート的な建物はヴィラとか連立住宅と呼ぶ。ここではややこしいから「マンション」としておく)は大体「廊下式」と「階段式」があって、廊下式は一つの階に廊下に沿って複数の世帯が並んでいる形式、階段式は一つの階に玄

「疲れてる」以外の表現はないものか。

口の左端にヘルペスができた。 週末明けの朝、くちびるの端っこがむずむずした。と思ったら、あっという間に水泡ができて醜く膨らんでしまった。よくあることで、必ず左の下唇にできるので、ああこの場所に私のヘルペスウイルスが棲みついているんだなあ、と思う。 不思議なもので、くちびるの水泡を見た人は十中八九「疲れてるんですね」と言う。ヘルペスという単語は知らなくても、疲れるとこの症状が出るということは何となく多くの人が知っているというのが不思議だ。 疲れているのだろう、というのを見

紅白まんじゅうと蛇と父の話。

東京の実家から韓国の家に戻ってくると、ほんの少しセンチメンタルな気分になる。 今回は、指を折って数えればさほど少ない日数でもなかったのに、ものすごくちょっぴりの滞在だったような気がした。 年末にコロナに罹ってキャンセルした帰省のリベンジだったから、前々から日程をとっていたにもかかわらず、出発前までなぜか気持ちがとても慌ただしかった。会いたい人も、食べたいものや買いたいものも、やりたいこともたくさんあったけれど、その予定組みもちゃんとできなかった。まあ、同居人つきの渡航だから

いわゆる「自分へのご褒美」と心咎め。

365日のうちの一日にすぎないけれど、その日はやっぱり「特別な日」にしたくなる。いい年して恥ずかしいけれど。誕生日は、自分を甘やかすのを許す日としている。私が私になにをしてあげようか、じっくり考えるのがささやかな楽しみだ。 最近、外でふと鏡に映った自分を見て、老け込んだ顔にぎょっとしたことがある。家ではきちんと化粧をしたつもりだったのに、くすみきった顔色を目にしてガーンとなった。急にメイクが気になり、思わずその場で検索した。 ところが、「ファンデーション、くすみ」なんて検索

夢見る引っ越し。

周期的に引っ越しがしたいという気持ちが湧きおこる。 現在のわが家は、リビングのほか一部屋と、キッチン、シャワー付きトイレ、ベランダ、とかなりコンパクトな方だ。正直、二人と一匹で暮らすぶんにはさほど不都合はないのだけれど、人というものは「あとほんのちょっと+α」を求めてしまうらしい。 (ちなみに、周りの所帯持ちの友人たちの家を訪問した限りでは、うちより狭い家はまだみたことがない) まず、キッチン。ガス台と小さいシンクと、その間のまな板がやっと一枚置けるスペースですべての料理

韓国にきて、十年たった。

2013年2月18日午後2時50分、仁川空港に着いた。 当時の手帳を開いてみたら、その日の日記が書かれていた。 出発の日、東京は降り出しそうな曇り空だったらしい。成田空港に向かう電車のなかで「何もかも夢だったらという気分になり不安」になった、と書いてある。 たった1年半の韓国の大学院生活のはじまりの日だった。この日から10か月余りの寮生活の後、いったん日本に戻った。そして改めて翌年に韓国に渡って一人暮らしをはじめたから、じっさいには私の韓国暮らしは2014年からだと思って

確信は危うい。

自分のことや何かについて話すとき、「わたしはAだと思うけれど、Bだという人もいるだろう」というような言い方をよくしているようだ。意識的になのか、無意識的になのかわからないが。 答えを開いておく、といえばそれなりの意味付けにもなるが、自分の考えに自信がないともいえる。 または、バランスを取ろうとしているのかもしれない。一方に注目が集中して重心が傾くとき、空きがちになるもう一方がいつも気になる。ただ、それは「バランス感覚がある」というのとはちょっと違う。いや、むしろかけ離れて

捨てない日々。

普通、ゴミ出しってどれくらいの頻度で行うものだろうか。 もちろん家族構成員の数とか住居の周りのゴミ出しルールによってだいぶ違うだろうけど。 うちは、10リットルの一般ゴミ(可燃ゴミ)袋をマンションの収拾場に出すまで、大体ひと月弱くらいかかる。なかなかいっぱいにならない。それが普通の二人暮らしの家庭と比べてどうなのかよくわからない。まあ比べる必要もないけど。 紙類、ペットボトル、ビニール類などはそれぞれ分別して出す。韓国で分別ゴミの出し方は、複数棟で構成されたマンション団

よくある日曜日の過ごしかた。

朝のしごとのない日曜日はかなり遅く起きる。 稀に8時台に目が覚めると、今日はなんでもできそうな、充実した一日になりそうな、そんな錯覚にとらわれるのが罠だ。 今日の記録。 ベッドでぐだぐだした後、9時半ごろ起き上がって朝食の用意をする。一人は玄米がゆ、一人はおこげスープ。 食べ終わってから、今日は午前中に書きもの系のしごとを1本終わらせるぞ、そして本を読んで、観たかった動画を観るぞ!と計画する。 しかし、シンクに置かれたままの食器が気になる。洗い物くらいはやってほしいと思っ

お義母さんの畑。

旧正月つながりで、田舎のことを少し書いておこう。 夫の実家の周りは、見渡す限り畑と山以外はなにもない。 いや、なにもないわけではない。隣りには家があり、その隣にかなり大きな牛舎がある。家の裏の道を挟んで向こう側に家が二軒。その隣の小高い丘には、以前は畑だった土地があり、その隅っこに義父のお墓がある。こんもり土を盛り上げただけで何の墓石もないお墓。畑は、以前はそのときどき作物が変わっていたが、今回行ってみたら人の背丈くらいの草がぼうぼうに茂って枯れていた。 風景を描写すれ

話したいことはたくさんある。

散らばっていく。考えが、ことばが、行動が。 散漫。バラバラになって散っていくというよりは、あちこちに置かれている感じ。一つ拾ってはまた目について一つ拾う。片づけたくて、整理したくてそうしているのに、いつの間にか自分の引き出しがまた一杯になってしまっている。 心新たに立てた目標は、手にするものはなるべく少なく、そしてなるべく小さくて素朴なものから、だった。心の赴くままに一番近くにあるものから手をつけること。一つずつ。……だったのに。 限りなくシンプルにする目標なのに、それが

静かな旧正月。

今年のソルナル(旧暦の正月)は夫の実家のある田舎で過ごした。 去年も一昨年も、ソーシャルディスタンシングが実施あるいは勧告されていたので、 秋夕(旧暦8月31日)や旧正月など人口移動の激しい時期に帰省するのは控えていた。なので旧正月当日を田舎で過ごすのは実に3年ぶりだ。 夫の実家はほんとうに田舎なので、自家用車のない私たちは往復だけで一苦労だ。だから、気軽にたびたび訪れることはない代わりに、一年のうち3回、 盆と正月そして義父の忌日に行なう祭祀(チェサ)だけは「必ず行く」

コロナの風景の記憶。

韓国政府は20日にも「室内でのマスク着用義務の解除」を正式に発表するという。おそらく今月末から、室内でのマスク着用は義務ではなくなり、「勧告」へと緩和される。 最近、こういうニュースに接すると、私は足元がずるっと滑ってどこに立っているのか分からないような気分になる。情報と現実の乖離ということで比喩するならば、ものすごく寒く感じて温度計を見たら摂氏30℃と表示されていて、かつ気象情報でもそう言っていて、ガタガタ震えながらまったく実感の伴わない夏の気温の情報を飲み込まなければな