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韓国にきて、十年たった。

2013年2月18日午後2時50分、仁川空港に着いた。

当時の手帳を開いてみたら、その日の日記が書かれていた。
出発の日、東京は降り出しそうな曇り空だったらしい。成田空港に向かう電車のなかで「何もかも夢だったらという気分になり不安」になった、と書いてある。

たった1年半の韓国の大学院生活のはじまりの日だった。この日から10か月余りの寮生活の後、いったん日本に戻った。そして改めて翌年に韓国に渡って一人暮らしをはじめたから、じっさいには私の韓国暮らしは2014年からだと思っているのだけど。

そんなわけで、当時は1年の授業履修が終わったら日本に帰るつもりでいたから、いろんなものを日本に置いたままにしてきた。荷物も、気持ちも。
大きめのスーツケースひとつでやって来た韓国には、私のものはなにもなかった。

短い滞在でなら何度も行き来していたし、ことばも分かるし、なにより国籍が一致する国に行くわけだから、海外留学といえるような新鮮さはなかった。だけど実質的に韓国に「暮らす」のは初めてだ。
仁川空港から寮のある大学までは、かなり遠かった。たしかバスで向かったはずだが、降りる停留所を聞き逃さないようにすごく緊張していたのを覚えている。窓の外の街並みを不思議な気分で眺めた。

その日のことは、妙にささいなことばかり覚えている。
道中とてもお腹が空いて、道端でトッポッキやおでんを売っている屋台で何か食べたいのだけど、いざとなるとなかなか一歩が踏み出せなかった。一人前はどれくらいなのか、いくらなのか、どうやって注文したらいいのか、けっこういろいろわからなかったからだ。
屋台のまわりを無駄にウロウロしながら「トッポッキ、ハナチュセヨ(一つください)」を口の中で何度か練習して、意を決して向かった。屋台のおばちゃんはうんともすんとも言わず、ビニールでくるんだお皿にトッポッキを盛って差し出した。お皿と引き換えにお金を渡すと怪訝そうな顔で受け取った。みると隣の客は、串刺し練り物のおでんを鍋からいきなり自分で摘み取ってばくばく食べ、去り際にお金を渡していくのだった。
後払いでいいのか!そんで屋台では言葉のやりとりは最小限でいいのか!かるく衝撃を受けた。
ようやくありつけたトッポッキは忘れられないくらい美味しくて、それ以来私は屋台の食べものに目がない。

やっとの思いで到着した寮でも、けっこうな困難が待ち構えていた。
受付で「ベッドはあるけど布団は持参してください」と言われたのだ。
え、さっき飛行機で着いたんですけど…どうしろと? 
ないなら買ってきたらいいじゃないかとアッサリ言われたが、着いたばかりの韓国で、トッポッキすら買うのにこんなに戸惑った初心者に、布団を買ってこいとはなかなかの難問ではないか。
徒歩10分くらいのところにあると教えてもらったスーパーマーケットに向かって、実際には20分くらいかけて暗い車通りをとぼとぼ歩いて布団を買いに行った、あの先行き不安な気持ちもよく覚えている。
(そもそもスーパーに布団が売ってるのか…?というのが不安だったが、行ってみると西友とかイトーヨーカドーのような総合商店だった。のちにそこは私たちの生活アイテム調達の大事な拠点となる)
 
まさかその後もずっと韓国に住み続けることになるとは、思いもしなかった。というか、先のことなど想像もできなかった時期だった。

それまでの生活にいったんケリをつけ、この先どうしたいのかおよそ描くこともできず、ただ降って湧いたようなチャンスに飛びついて、東京からジャンプした。2013年は、休止符のような年だった。
あれから10年か。

韓国では10年たてば山河も変わるというけれど、この10年で2、3ターンくらいしたように思える。それだけ変化の速いこの国で、私はまったく変わっていない位置にいるような、まるで予想もしなかった所にきてしまったような、錯綜した気持ちになる。


到着初日に購入した記念すべき布団。その後も相当長いこと愛用した。