見出し画像

確信は危うい。

自分のことや何かについて話すとき、「わたしはAだと思うけれど、Bだという人もいるだろう」というような言い方をよくしているようだ。意識的になのか、無意識的になのかわからないが。

答えを開いておく、といえばそれなりの意味付けにもなるが、自分の考えに自信がないともいえる。

または、バランスを取ろうとしているのかもしれない。一方に注目が集中して重心が傾くとき、空きがちになるもう一方がいつも気になる。ただ、それは「バランス感覚がある」というのとはちょっと違う。いや、むしろかけ離れている。四方八方ぜんぶをある程度見渡しておきたいという、私の元来のおせっかい本能と、どうしようもなく私の性格を規定している「統制欲」にも起因するのかもしれない。

* * *
先日、あるインタビューを受けた。そのインタビュー記事が多くの人の目に触れることはあまりなさそうなので安心して(?)書くけど。
インタビュアーさんがとても誠実に熱心に質問してくれたので、つい興に乗ってべらべら喋ってしまった。

冒頭に書いた件は、会話のなかでインタビュアーさんが指摘してくれたことだ。もちろん批判ではなく、視点の持ち方について誉めてくれたのだった。「自分の視点だけでなく、必ず別の角度からの視点を用いるというのは素晴らしいことだと思います」と。
誉めてくれるので悪い気はせず、へらへらしながら、まあ世の中確固たる答えはないし、白か黒かと決めつけるのは危ういことですからね。などとわかったようなことを言ったような気がする。

帰り道、つらつら考えながら、どうしてそういう風に(=自分の視点と、別の視点)考えたり言ったりするクセがついたのかな、というのと、はたして本当にそう考えているのか? それは私の本心なのか? という疑問点が出てきた。

そもそもは、人一倍白黒つけたがる性格だと思う。自分にとって曲がったことは認めたくない。確固たる答を常に求めている。自分のなかに規範をつくり、そこから外れる人や物事は我慢ならぬタイプだ。
クラスに必ず一人はいて、委員長とかをやってしまうタイプだ。わかりやすくいえば。

だから、逆に統制しようとするのかもしれない。正義感みたいなもので暴走しないように、自分を。私が確固として疑わないそれは、別の角度からはまったく違うかたちに見えるということを、あえて自分に言い聞かせているのかもしれない。

なんてことを言いながらも。
インタビュー後に食事しながらのラフな会話で、参席していたある人の話にあからさまに反応してしまった。その話は不快だとか間違ってるという話では決してなく、私自身に知識の足りない部門の話だったので、受け入れるなり聞き流すなりすればよかったのだ。でも、ある1点においてどーしても納得いかない部分があった。それでむきになってしまった。さすがに初対面の人に噛みつきはしなかったが、咎めるような表情と口調に現れていたと思う。
最終的に、そういう考えもあるんですね、とは口にしてみたものの、もやもやが残った。

そうして、帰りながら頭を冷やしつつ、一人で苦笑した。だれが「別の角度の視点を持つ」だって? えらそうなこと言ってもうたわ。結局私は根強い固執タイプなのだ。自分の見方に固執するというのは、もちろんある面では大事なことでもあるけど、とっても重たい。

確信したい何かや、はっきりした答を求めたいという一方で、信用しきれず別の視点を持ってきてぐらぐら揺れる。常に揺れ動く、というところに、むしろ信頼性をおきたい。

尊敬する思想家が書き残した。北極を指す羅針盤は何が怖いのか常に針をぶるぶる震わせている。か細い針が震えている限り、その方向を信じていい。その針が動きを止め、一方向に固定されたなら、私たちはその羅針盤を捨てなきゃならない。なぜならそれはもう、羅針盤はではないからだ、と。