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2021.11.25 日中戦争に隠された3つの謎

第二次世界大戦に関して『日米大戦』の研究は進んできましたが、その陰に隠れていたもう一つの戦いを皆さんはご存知でしょうか?

実際は日米大戦よりも犠牲者が多く、近代日本の対外戦争で一番長いものでした。
それが『日中戦争』。

にもかかわらず、教科書でも研究でも、日本の侵略戦争、満洲の日本軍の暴走で片付けられてきました。
しかし、ここには重大な謎がありました。

日本国内にはない、海外に残された一次史料を読み解いていくと、日中戦争に関して、下のようなの不可解な点が見つかりました…。

ということで、今回は日中戦争の謎について書き綴っていこうと思います。

謎①
なぜ盧溝橋事件という小さな小競り合いが史上最長の戦争になったのか?

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一般的に歴史教科書では、日中戦争の開戦のきっかけは、北京郊外で起きた盧溝橋事件とされている。

「日本政府および軍中枢は、盧溝橋事件が発生すると、自衛権の発動を口実に陸海軍を増派、事実上の戦争となった」

と、このように言われているが、実際には盧溝橋事件はごくありふれた小競り合い程度の衝突だった。
1937年7月7日の深夜、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍に対し、数発の実弾が撃ち込まれた。

事件が発生すると、一瞬は緊張が走ったものの、犠牲者が出ることはなかったことから、日本軍、中国軍共に、本格的な武力衝突にまで拡大させる理由は無かった。

小規模の戦闘はあったが、2日後には事実上の停戦状態となり、現地での話し合いが続けられ、4日後には停戦協定が成立。
日本の内地からの増援も中止され、この時点で日本と中国との軍事衝突は、一応の収まりを見せていた。

それでは何故、その後、日中両国は本格的な前面衝突へとエスカレートしてしまったのだろうか?
この重要な事実は、教科書では伏せられている。

謎②
なぜ強かった日本軍が中国軍に勝てなかったのか?

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北京郊外で起こった盧溝橋事件が、日中戦争の発端ではないとしたら、本当の発端は何だったのか?
それは、北京からおよそ1000kmも離れた上海で起こった。

盧溝橋での停戦協定からちょうど1ヶ月が経った頃、上海在住の邦人を保護していた日本軍を突如、中国の正規軍が包囲し、奇襲攻撃してきたのである。

中国軍の奇襲攻撃で、人質にされた丸腰の日本人約3万人。
彼らを守る日本軍はわずか2500人ほどだった。

中国軍は数万人規模で攻め込んで来た上に、その背後には20万人の軍隊が動員されていた。
日本人が皆殺しになってしまう…。
そこで、日本政府は急いで内地から軍隊を増援した。

しかし、上海での戦いがただならぬことは、上陸したその日に分かった。
中国軍は周到な準備でもって、日本軍が来るのを待ち構えていたのである。

幅150m、厚さ60cm、そして長さ1kmの鉄筋コンクリートで作られた巨大な砲台が築かれており、中国軍はその上から機関銃で日本軍を苦しめた。

さらには、トーチカと呼ばれる分厚いコンクリート壁、出入口は鉄の扉という小型の要塞が大量に配置されていた。

上海には堅固な要塞、防衛陣地が構築されていたのだ。
これは、第一次世界大戦時にヨーロッパで生まれた戦法で、これまでの中国軍には見られなかった。

一体、いつの間に身に付けたのか?
慣れない戦いに日本軍は攻めに攻めあぐね、ただ犠牲者が増えるだけだった。

苦戦の末、土鼠のように1つ1つトーチカを占領していったのだが、これらは全て日本軍を嵌めるため、予め構築されていた罠だった。

上海から首都南京へと進んでいくにつれ、この計算し尽くされた陣地によって、確実に日本軍の力は弱まっていった。

第一次大戦のヨーロッパで見られた戦術や戦法が、なぜ中国にあったのか?

謎③
なぜ中国軍の裏にドイツの影が見え隠れするのか?

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日本軍の南京占領後の記録映像『戦線後方記録映画―南京』(東方映画文化映画部制作)を見てみると、最後のシーンの行軍場面で、数人の日本兵がドイツ軍のヘルメットを被って喜んでいる様子が記録されている。

当時のドイツ製の兵器は性能が優れていたため、日本兵は戦利品として手にしていたのだろう。
しかし、ここで1つ不思議なのは、なぜ中国にドイツ軍の兵器があるのか?
ということ。

中国で見つかったドイツ製兵器はヘルメットだけではなかった。
中国軍はドイツ軍の最新鋭、高性能の武器、重機関銃、戦車、榴弾砲などを手にしていた。
さらに詳しく見ていくと、見つかったのは武器だけではなかった。

なんと、中国軍を指揮し、実際に日本との戦いを最前線で率いていた軍の中に、ドイツ軍事顧問団の顔があった。
人数は、46人もの顧問団が中国軍にいた。

しかし、一体なぜ日本の『同盟国』ドイツの武器が、“敵国”中国で見つかるのか?

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もし、日中戦争を今まで通説で習ってきたように、単純に『日本と中国の戦争』とか『軍部の暴走で始まった日本の侵略戦争』という風に捉えていては、これらの謎の答えは見つかりません。

しかし、もしこの戦争を自らの利益を追い求めた欧米列強・ソ連・中国共産党など、様々な勢力の謀略が複雑に絡んだものだと捉えると、見える絵柄はガラリと変わってきます。

一体なぜ、日本の『同盟国』ドイツの武器が、“敵国”の中国で見つかったのか?
実は、その背後には、後述するドイツの思惑がありました。

1933年、ヒトラーが首相に就任すると、ドイツは国際連盟を脱退し、再軍備拡張路線に走り出していた。
国内総生産2%であった軍事費は、1935年には17%、1937年には22%まで膨れ上がる。

このような中、ドイツは砲弾の生産に必要不可欠な希少金属であるタングステンを求めて中国に接近。
タングステンは、中国が世界の産出量の8割以上を誇り、ドイツでは全く取れなかった。

ドイツは兵器の原料の輸入先としてだけでなく、同時に完成した兵器の輸出としても中国を利用した。
蒋介石に対し、ナチス・ドイツが持つ最新鋭の武器を売りつけた。

それだけではなく、中国は恰好の新兵器の実験場でもあった。
そのため、日中戦争が始まると、日独防共協定を締結した後であるにもかかわらず、上海・南京一帯で日本軍と激突した中国軍の中核は、ドイツ製の武器とドイツ式の防衛陣地を構えた部隊で、実際にドイツ軍事顧問が作戦を指導していた。

上海戦で犠牲になった日本軍4万人という大被害は、ドイツ製武器の結果であった。
このような蜜月関係が歴史の真相でした。

もし、日中戦争が、そもそも日本と中国の戦争ではないとしたら…、一体誰が日本を中国との戦争へと引きずり込んだのか?

日中開戦によって、本当に得をしたのは誰なのか?
そう考えると見方が断然変わり、全てが腑に落ちます。

なぜ中国大陸での戦いが泥沼化し、その結果、真珠湾攻撃、日米大戦へと繋がってしまったのか?

なぜ、戦後75年以上もの間、日本軍が中国との和平交渉を何度も試みたことが隠されたのか?

なぜ、張作霖爆殺事件の犯人が日本だけ違って教えられてきたのか?
など、これらの点と点が全て繋がってきます。

そのような戦後の日本人が決して知ることを許されなかった日中戦争の裏側…。
なぜ、このような事が私たちの元には知らされないのでしょうか。

それは、歴史を知るための貴重な史料の多くが、日本から消されてしまったからです。

終戦直後、秘密文書が連合国軍の手に落ちるのを防ぐため、日本の各地で大量の公文書が燃やされ、さらに占領軍GHQが入ってくると、7000冊以上の書籍を焚書にしてしまいました。

焚書にされた書籍リストを見てみると、欧米にとってもよほど不都合な事実が多いのか、支那事変(日中戦争)関連の書籍は、焚書の中でも群を抜いて1位だったのです…。

こうして、戦後の日本人にとって、正しい歴史を伝える史料が失われてしまいました。

そのため、歴史研究に巨大な空白が生じ、日本国内では中国の主張通りの
「日中戦争は、日本の侵略戦争」
「軍部の暴走が原因」
が通説となってしまい、教科書でも詳細に教えられることは無かったのです。

無題

しかし、ソ連崩壊後に公開されたコミンテルンの史料、ドイツ、英米などの一次史料、台湾に残っていた中国国民党の史料を複数読み合わせていくことで、日本の教科書には書かれていない、日中戦争の全貌が明らかになりました…。

日本と中国との戦い。
そう思っていた日中戦争も、中国の裏になぜかちらりちらりと見えるドイツの影。

そして、ドイツだけでなく、欧米やソ連の動きも合わせて見ていくと、満州での日本軍の暴走も、軍の侵略行為も南京大虐殺も…、通説とは全く異なる歴史が浮かび上がってきます。

「勝てない戦争に突き進むなんて戦前の日本は愚かだった」
「各国の人々に卑劣なことをして迷惑をかけた」
私たちが教わってきたことは、本当に史実だったのか?

国外に残る一次史料など中立的に書かれた文献を紐解くことで、それらの答えが見えてきます。

そして、これまで一方的に押し付けられてきた『残虐な日本兵』という通説がガラガラと崩れ去り、長年の疑問が晴れてすっきりし、日本人として誇らしい気持ちになれるでしょう。

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