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2022.4.11 ウクライナの誇り『コサック』とは何者か?

ロシアとウクライナは、なぜ対立しているのでしょうか。

両国の関係は、これまでどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。

今回の記事は、3月16日にアップした記事『ロシア人のルーツとウクライナ侵攻』と同様に、現代から遡ってロシアとウクライナの関係や民族についての歴史を書き綴っていこうと思います。

9世紀後半に興ったキエフ公国は、バルト海と黒海を結ぶドニエプル川流域を支配し、交易によって栄えます。

10世紀末、リューリク家のキエフ大公ウラディミル1世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)と連携し、自らギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を受容します。

この時、ギリシア正教のみならず、キリル文字をも受容し、これを基礎にロシア文字が形成されていきます。

ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹と結婚します。

この時、リューリク家が皇帝家と姻戚関係になったことで、ビザンツ帝国崩壊後、モスクワ大公イヴァン3世がツァー(皇帝)の位を継承する根拠となります。

ウラディミル1世の時代にキエフ公国は全盛期を迎えますが、11世紀後半、トルコ系の遊牧民がキエフ公国に侵入し、混乱の中、各地で内乱が頻発するようになります。

12世紀以降、イタリアを中心とする地中海交易が活発化し、ドニエプル川流域の交易が相対的に衰退し、キエフ公国は荒廃していきます。

そこを、チンギス・ハンの孫バトゥが率いるモンゴル人が襲来します。

1237年、モンゴル軍はロシアに入り、1240年にキエフを占領します。

街は徹底的に破壊されて、キエフ公国は滅亡しました。

ウクライナ人はロシア人と共に、『タタールのくびき』と呼ばれるモンゴル人によって支配される時代に入ります。

この時期、ウクライナから南ロシアの各地に『コサック』という騎馬武装集団が現れます。

コサックは元々トルコ人の馬賊たちでした。

コサックはトルコ語で、『自由な人』を意味します。

トルコ人馬賊にはモンゴル人も加わるようになります。

このモンゴル人は何らかの理由で、モンゴル正規軍から離れた者、正規軍に不満を持っていた者、或いは正規軍に最初から属さず、馬賊として活動していた者などです。

当初、コサックは、トルコ人やモンゴル人のアジア系の混成集団でしたが、ウクライナ人などのスラヴ人もコサックに加わるようになります。

ウクライナ人の一部はモンゴル人支配を嫌い、自らコサックの一団に参入することにより、モンゴル人に抵抗したのです。

こうして、黒海に注ぐドニエプル川やドニエストル川流域で、無数のコサック集団ができ上がります。

コサックはトルコ人集団をベースにしながら、モンゴル人やウクライナ人、ロシア人を取り込んでいき、多層な混血民族集団へと変化していきます。

ウクライナ人の愛国主義者たちは、モンゴル人やロシア人に決して屈することのなかった誇り高いコサックこそが、自分たちの民族の原点であると主張します。

なぜなら、ウクライナの国歌の歌詞にも、
「我らは自由のために魂と身体を捧げ、兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう」
とあるからです。

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