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2023.9.12 【全文無料(投げ銭記事)】なぜ秀吉はキリシタンの危険性に気づいたのか

今回は、国を守るためには、国に入れてはならないものがあるという『免疫機能』を学ぶという点から、渡辺京二著『バテレンの世紀』、高瀬弘一郎著『キリシタン時代の研究』、三浦小太郎著『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか- 世界遺産「潜伏キリシタン」の真実』の3書籍を参考に、豊臣秀吉から始まったキリシタン弾圧をテーマにして書いていこうと思います。


殉教者は天国にいけるという信仰

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件から、早22年が経ちました。

イスラム過激派テロ組織『アルカーイダ』の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、事件後に布告を出して、アメリカに対する聖戦ジハードを宣言し、
「アメリカとその同盟国の国民を、民間人、軍人を問わず、殺害することは全てのイスラム教徒の義務である」
と述べました。

イスラム・テロリストたちは、民間旅客機をハイジャックし、自ら操縦して、ワールドトレードセンタービルに突入したのですが、こうしたジハードで死んだ者は『殉教者』の名誉を勝ち得ます。

イスラム・テロでは少年少女までも、自爆攻撃に向かわせるケースも後を絶ちません。

こうした中世的な原理主義は、戦国時代に日本にやってきたキリスト教宣教師たちにも見られました。

家康が慶長17(1612)年にキリシタン禁教令を発すると、スペインが支配するマニラ政庁は宣教師の渡日を禁止したのですが、各修道会は日本で殉教するのを最高の名誉と心得ていたので、一片の法令で宣教師の渡日を禁じても効き目はなかったといいます。

元和3(1617)年、秀忠が禁教を強化した翌年に逮捕されたイエズス会司祭ジョアン・バウティスタは斬首されましたが、6,7歳の頃から、日本に行って殉教者になりたいと夢見ていたそうです。

死を恐れずに日本に潜入・潜伏し、処刑されると最高の名誉になるというのですから、幕府も手を焼きました。

しかし、そもそも幕府は、何故にキリスト教布教を禁止したのでしょうか。

罪の償いのためには道すがら見かけた寺を焼くことだ

第一の理由は、日本国内で宣教師たちが神道や仏教を攻撃して止まなかった事です。

例えば、次の具体例からも窺えます。

フロイスはぬけぬけと次の話を録している。
あるキリシタンが四旬節の折にコエリュを訪ね、罪の償いのために何をしたらよいか教えを乞うと、コエリュは道すがら見かけた寺を焼くことだと答えた。
信徒は帰り道で大きな美しい寺院に出会うと早速放火し、寺院は全焼した。

渡辺京二著『バテレンの世紀』

また、キリシタン大名の有馬晴信が領有する肥前国では、次のような逸話がありました。

コエリュはフロイス以下修道士や若者を率いてその山に渡り、岩殿と呼ばれる洞窟の中にあったおびただしい仏像を取り出し、大きくて取り出せぬものはその場で火をつけた。
残りの仏像は、教理を習っている少年たちを召集して口之津の司祭館へ運ばせた。
彼らは仏像を曳きずり、唾をかけた。
加津佐の住民たちは
「男も女も子供も戸口に出て、その哀れな運命に同情を示していた」。
その後仏像は司祭館の炊事の薪となったと、フロイスは得々と書いている。
驚くべきなのは、住民の悲しみを叙して平然たるフロイスの神経ではなかろうか。
おのれのなすところを善かつ真理と信じこむ狂信の常というべきか。

渡辺京二著『バテレンの世紀』

現代のタリバンも、2001年3月、アフガニスタンにあった古代の巨大石仏2体を破壊しています。

同じことをキリシタンもやっていたのです。

キリシタン大名の高山右近は、領国内の仏僧に宣教師の説教を聞くよう強制し、改宗しない僧を追放すると宣言しました。

100人に及ぶ僧侶が洗礼を受け、寺は教会に変ったと伝えられています。

キリスト教以外の宗教は全て悪魔の誑かし

なぜキリシタンは、これほど異教に対して攻撃的だったのか?

次の一文で、説明が為されています。

寺社の破却はイエズス会の根本方針であって、かの穏和なトルレスでさえ、(大村)純忠に洗礼を施す条件として、将来領国内の寺社をことごとく破却することを誓わしめた。
イエズス会の観点からすれば、日本人が神仏と称しているものの実体は悪魔にほかならず、この悪魔から解放することなしに日本人の魂の救済は不可能なのだ。

渡辺京二著『バテレンの世紀』

キリスト教では、神と悪魔が戦っており、キリスト教以外の宗教は全て悪魔のたぶらかしに過ぎないので、まず異教を破壊する必要があると信ずるのです。

彼らにとっては、日本人の先祖崇拝も“悪魔のそそのかし”に過ぎません。

宣教師たちは、彼らの説教を聞いた子供たちが、先祖の墓を散々破壊したと誇らしげに語っています。

異教を滅ぼすことが神への奉仕と考えるのですから、神社仏閣を破壊することも、“改心”しない仏僧や神官を殺すことも神への奉仕なのです。

ウサーマ・ビン・ラーディンが、
「アメリカとその同盟国の国民を殺害することは全てのイスラム教徒の義務である」
と述べているのも、彼にすれば当然の事なのです。

神への奉仕の最高純粋の形が殉教です。
悪魔との戦いにおいて、神から頂いた身命を神のために使うのですから、キリスト教徒全員が称賛すべき名誉なのです。

奴隷であっても“人間”になった方が良い

こうした当時のキリスト教の考え方を理解すると、キリシタンがなぜ日本人を奴隷として海外に売りさばく商売に関与していたのかも理解できます。

日本人奴隷が世界の各地に売り飛ばされていたことは、各地の古文書などで記録に残っています。

例えば、アルゼンチンの古都ゴルドバでは、
<日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を800ペソで売る>
という記録が残っています。

戦国時代には戦争捕虜や誘拐されたり、親に売られた子供が数万人規模で奴隷として、ポルトガル商人によって東南アジアからポルトガル本国、中南米にまで“輸出”されていました。

豊臣秀吉は、バテレン追放令を出す直前に、日本準管区長ガスパール・コエリュに、
「ポルトガル人が日本人を奴隷として購入し、海外へ連行するのは許されぬ行為である。連行された日本人を連れ戻すよう取り計らえ」
と詰問しています。

こうした奴隷売買に宣教師たちは協力していたのです。
というのは、キリスト教徒の奴隷になると宣教師の洗礼を受けるのですが、それによって、異教徒はようやく“人間”となると考えていたからです。

異教徒のような“動物”でいるよりも、奴隷であっても“人間”になった方が良い。
それが本人の幸せでもあるし、またそうすることが神への奉仕となるという考え方です。

支那征服のために日本人キリスト教徒を送る

信長も秀吉も、一般民衆がキリスト教を信ずるのは自由であり、全く問題ないと考えていました。

抑も“神仏”と一言で言い表すように、日本古来の神道とインドで生まれた仏教が平和的に共存、融合していましたし、また家族の中でも違う仏教の宗派を信じる事は普通にありました。

元々、八百万もの神々がいる国土では、信仰の自由は自明のものだったのです。

信長は、キリシタン宣教師追放を迫る仏僧に対して、これまで存在した教派が一つ増えるだけだと答えていました。

しかし、秀吉は、キリシタン大名が領民にキリスト教信仰を強制し、寺社を破壊し、更には奴隷貿易にも携わっている事を知って、治安上の大きな問題だと考えたのです。

秀吉のキリシタンに対する疑念を決定的にしたのは、宣教師たちが政治や軍事にも口を出し始めたからです。

天正13(1585)年、秀吉が、まだキリシタンに好意的であった頃、コエリュは秀吉に九州平定を勧めました。

その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束しました。

更に秀吉が、
「日本を平定した後は、支那に渡るつもりだ」
と述べると、その時には2艘の船を提供しようと申し出たのです。

当時、日本には外航用の大艦を作る技術はありませんでした。

秀吉は、表面はコエリュの申し出に満足したように見せかけながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めたようです。

秀吉の疑念は的を射ていました。
ただ、宣教師たちは、日本は強すぎるので征服には向かない。
それよりも、中国の征服に日本人を使った方が良いと考えるようになっていました。

10年以上も日本に留まってイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、この前年、1584年6月27日付けで、スペイン国王宛てに支那征服の利を説いて、次のように書いています。

日本に駐在しているイエズス会の神父パードレ達が、容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。
彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、嬉嬉としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。

高瀬弘一郎著『キリシタン時代の研究』

当時、スペインとポルトガルは世界征服を目指しており、イエズス会はその尖兵として働いていたのです。

世界を植民地化することは、悪魔に操られている世界中の異教徒をキリスト教徒という本来の“人間”にすることであり、これも偉大な神への奉仕と考えたのです。

世界植民地化は、彼らの宗教的情熱によって後押しされていました。

拷問は殺さずに棄教させようとしたから

秀吉のキリシタンへの懸念は、徳川家康にも受け継がれ、慶長19(1614)年には全国に禁教令と宣教師の追放令が出されました。

しかし、幕府側の厳しい摘発にもかかわらず、殉教者が相次いでいました。

キリシタンに棄教を迫る激しい拷問が為されましたが、これについて、渡辺京二氏は次のように指摘しています。

キリシタンを手っ取り早く根絶したいのなら、宣教師であれ信者であれ、見つけ次第殺せばよいのだ。
殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴え、相手の頑強さに比例して、拷問の残酷さもエスカレートしたのである。

渡辺京二『バテレンの世紀』

あぶりの刑にしても、キリスト教を捨てると決心したら火から直ぐ逃げられるよう、キリシタンをくくる縄は弱く縛っていました。

それでもキリスト教を捨てない“頑強さ”とは、キリスト教信者たちが殉教を“最高の名誉”と考えていたからです。

オランダの商館長ニコラス・クーケバッケルは1635年に、商館のあった平戸の領主からこう聞かされています。

「皇帝(※将軍)や閣老はポルトガル人を憎んでいる、なぜなら宣教師を連れて来るのを止めないので、多数の罪のない人の血が流されるからだ」

島原の乱は『千年王国運動』の一種

その翌々年、寛永14(1637)年、島原の乱が起こり、数万人規模の“罪のない人の血”が流されました。

この乱は、飢饉と領主の圧政に苦しんだ農民の反乱という見方がありましたが、それでは説明のつかない史実が幾つもあります。

まず一揆勢は、周囲の村々に、
「キリシタンに改宗せぬ限り殺す」
と宣言していました。

それに抵抗して、幕府方について一揆勢と戦った村もあります。

また一揆勢は城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れた女性を拉致し、城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を切り、指物にして、城の大手口に押し寄せました。

今でも、蜂起したキリシタン信者が切り落としたとされる、首を落とされた地蔵が島原の本光寺に伝わります。

渡辺京二氏も三浦小太郎氏も、島原の乱が西欧中世後期に頻発した『千年王国運動』の一種だと指摘しています。

『千年王国』とは、終末の日が近づき、キリストが直接地上を支配する千年王国が実現するという夢想です。

それを示す史実があります。

村々には檄文が配られた。
そこには「天人」と呼ばれる神の使者が地上に降りくだり、全能の神の審判が下される、キリシタンとなって「天人」天草四郎に従えばデウスの審判を免れるが、改宗しないものはデウスの手で地獄に落とされると書かれていた。

三浦小太郎著『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか- 世界遺産「潜伏キリシタン」の真実』

至福の千年王国に入るためには、天草四郎に従い、改宗しない者たちは殺して神に奉仕しなければならない。

その戦いにおいて命を落としても、それは名誉ある殉教だ。
一揆勢は、正に千年王国を夢見て戦いました。

その夢想によって、数万人規模の“罪のない人の血”が流されたのです。

国を守るためには、国に入れてはならないものがある

興味深いことに、渡辺京二氏はこの『千年王国』論は、共産革命の“革命後に労働者の天国が実現する”という理想と同型であり、また
「イエズス会は共産主義前衛党の紛れも無い先蹤せんしょう(=先例)と言わねばならぬ」
とも言われています。

確かに、共産主義では、“目的は手段を正当化する”として、殺人テロも革命に近づけるための手段として正当化されます。

秀吉から徳川に受け継がれたキリシタンとの戦いは、スペイン、ポルトガルの植民地主義から国を守ったものであり、同じキリスト教国でもオランダとは平和的な交易を続けていました。

これを、“封建制を守るために高等宗教のキリスト教を禁じて鎖国を行い、それによって日本は世界の進歩から取り残された”などと考えるのは、史実を無視した歴史観です。

日本が、メキシコやフィリピンのようにならずに済んだのは、先人の戦いのお陰です。

そして、その歴史から、
“国を守るためには、国に入れてはならないものがある”
という免疫機能の必要性を学ばなければなりません。

特に侵略的な全体主義国家が世界を脅かしている現代においては…。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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