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EPIC DRUMS 00s~ (part3)

2000年以降の楽曲のみを取り上げ、流行り廃りを超えた多角的なドラム/リズム分析を目指します(アーティスト名/曲名/リリース年、の順に表記)。一応ジャズ研OBという体は最低限守りつつも年代順不同、ジャンル不問。主観全開、批判は楽しく適量で。要するに単なる長文駄文。あえて音源掲載は行いません。気になったものだけコピペ方式で。

David Bowie/5:15 The Angels Have Gone/2002

ドラマーは長年のバンドメイトSterling Campbell、打ち込みのリズムトラックはBrad MehldauLargo』でも熱演光ったMatt Chamberlainが担当。22年振りにプロデューサーTony Viscontiとタッグを組んだことでも当時話題をかっさらいました。故David Bowie2002年作品『Heathen』より、抽象世界極まる1曲を取り上げます。

タイトルの「5:15」というのはロンドンの始発電車の時間を指しているそうです。比較的最近知りました。しかし結論から申し上げてそのくらいの断片的な情報では、曲の輪郭を撫でることすらできそうにありません。共演経験のあるMassive Attackのトラックを彷彿とさせるようなMattのリズムパターンも怪しく光ります。

9.11」をモチーフにした世界観ではないか、と読み解く説も根強いです。しかしあまりに根拠が薄い。事実、曲の大半が「9.11」以前に仕上がっていた事実を考えるとやや妄想が過ぎると言わざるを得ません。曲中二度に渡って繰り広げられるクラッシュシンバルの応酬が、何かそれらしい衝撃音を表現していると捉えられないこともありませんが。

この煙に巻く感じが実にDavid Bowieらしい。確かに作品発表後の世界情勢を反映し曲の世界観が増幅される光景というのは、いつ何度となく起こってきたことではあります。それが音楽の面白いところでもあり、狂気を孕んだ部分であるともいえそう。とはいえ一向に明らかにならないのは「The Angels Have Gone」の真意です。

リリースからもうすぐ20年。令和2年を数える現代社会に、一体どのようなメッセージを投げかける楽曲となるでしょうか。世相を反映することで、18年前に味わった響きと異なる響きに変わったでしょうか。主宰目線は、何か得体のしれない死生観が漂う楽曲で、しかもそれは作品全般に共通している印象。まるで彼の死期を予感していたとでもいわんばかりの。

Brad Mehldau/Sabbath/2002

せっかく『Largo』、Matt Chamberlainの名前を挙げましたので一緒にご紹介しておきましょう。はからずも当コラム最多3回目の登場となるBrad Mehldau。さながらテレフォンショッキング。長年相方を務めてきたドラマーJorge Rossyではなく、新たな一手として起用されたのがMattです。これがなかなかの化学反応を起こします。

これは牧野直也氏の著書「リマリックのブラッド・メルドー」でも言及されていることですが、Brad Mehldauの演奏スタイルが大きな転換期を迎えたのはソロアルバムリリースの前後です。つまり『Live in Tokyo』近辺。主宰もこの視点には大きく頷きました。確かに近年、同時期のソロ演奏をまとめたアルバムが発売されたばかりでもあります。

2018年リリースの『After Bach』ではまさしく正面切ったクラシック音楽への傾倒/接近が見られたものですが、『Largo』で見せたスタイルの転換はむしろジャンル包括的/地ならし的な色合いが強かった。そこに大きく貢献したのがMattのサウンドメイクといえます。結果、土作りに成功した畑からは後年怒涛の良作ラッシュを迎えることとなります。

近作では『Taming The Dragon』や『Finding Gabriel』がそれにあたるかと。Mark Guilianaという共通項もあり、ある意味David Bowie逝去がなければ実現し得なかったアルバムということもできそう。おもわぬところで不思議なめぐり合わせが。前述の『After Bach』も『Largo』という周到な下準備のおかげで誕生した名盤ということに他なりません。

当楽曲の音場に近いフィールを感じる作品群に、スウェーデンの雄Esbjorn Svensson Trioの名前が挙げられそうです。ピアノにもベースにも大胆な歪みを効かせつつ、ジャンル包括的に独特のリリシズムを追求する音楽。2000年を過ぎた辺りから特に拍車がかかった手法といえるでしょうか、遺作『Leucocyte』における「Ab Initio」などはまさにその到達点。

Joshua Redman/Right Back Round Again/2020

ちょうど当コラムpart2の締めに入ろうかというタイミングで、突如投下された新曲がこちら。往年のカルテット編成が遂に復活です。Brad MehldauChristian McbrideBrian Bladeというオリジナルメンバー。今やジャズ界を牽引する4人です。昨年に企画モノとして限定ライブを行ってはいましたが、しっかり1曲こしらえてくれました。

編成が変わった後もメンバー個々に共演歴を重ねてはきましたが、フルメンバーが揃う機会はありませんでした。音楽性の違い、あるいは仲違い。あらぬ妄想も膨らみかけていましたが、たとえそれが興行ベースだったとてライスワークだったとて、こうしてリアルタイムに演奏に触れるチャンスを与えられることは恐悦至極。

とにかく90年代初頭にあって、正直ここまでキャラ立ちのエグいカルテットは他に類を見なかったと思います。予想の遥か上を行く構成力とテクニック、20代前半とは思えない老獪さ、ほのかに漂うドラッグの香り、フェス仕様にもTVサイズにも対応できる運動神経の鋭さ。学生時代、動画サイトに溢れる断片をこれでもかと拾い集めたものでした。

バンドリーダーに限らず、どこからともなくアイデアが浮かんできては自然と呼応し合う音楽。一体どこまでが打ち合わせ通りでどこからがフリーハンドなのか、もはや誰にも判別できません。スケール的アプローチも、リズム的アプローチも自在のカルテットが個々にスキルアップして堂々の帰還。日本公演はいつになるのやら。

新作リリースへの期待も高まるばかりです。個々にリーダーアルバムをリリースするなど、プレーヤーとしてのみならずコンポーザーとしても名実共に高いプレゼンスを誇る4人衆です。あるいは各人のオリジナルを散りばめたオムニバス形式という可能性も無きにしも非ず。さすがに高望みし過ぎでしょうか。

Christian Mcbride, John Clayton, Ray Brown/SuperBass Theme/2001

せっかくですのでMcbride参加盤からも1曲。とはいえドラム/リズム分析を主とする当ブログ史上最大の禁忌を犯すことになりそうです。羅列されたメンバーを見ておわかりのように、そこにはドラマーもパーカッショニストもおりません。なんでそんなことしたんだよ!お客様、これには確たる理由付けと信念がございましてですね。

一端のドラマーを自称する主宰はよく、ドラムレスの音源から得たアイデアを自身のプレーに生かせないものかとあれこれ思い巡らせたのでした。これは在学中、テナーサックスの先輩がアルト奏者を中心にフレーズコピーに励み自身のスタイルに落とし込む様子を間近に見ていたことに起因するものでして。大変感銘を受けた次第であります。

つまり、ドラマーなんだからドラムだけ聞いていればそれでいいなんてことはないはずなのです。再三こちらでも書いていることですが、すべてに意味がありすべてに理由がある。理解するではなく感じ取ることなのだと口酸っぱく自分にも言い聞かせて、いたって楽しく音楽を聞いてきました。きっとこれからもそうだと思います。

ご覧のようにビッグネームしか並んでいない驚異的なアルバムです。鳴っていないはずのシンバルレガートが、刻んでいないはずのコンピングがあれよあれよと聞こえてくる。こういう感覚こそが音楽なのだと信じてやみません。あるいは再生速度を上げ下げすることで、夢のようなメンバーと疑似プレイアロングできる時代にすらなりましたから。

例えばヴォーカルピアノデュオにおけるアインザッツ。ピアノデュオにおける主導権の奪い合い。ギターベースデュオ独特の他にはない弦楽器オンリーならではのタイム感。おそらくはドラマーの数だけ解釈があり答えが用意された世界です。全然関係ないですが、美術展とか見に行くとめちゃくちゃドラム叩きたくなったりしますよ。これ本当に。

Dado Moroni, Eddie Gomez, Joe La Barbera/Funkallero/2017

前後のコラムに関連性を持たせることは無論、見た目上も美しく、なんかこう伊坂幸太郎みたいでサイコー!ってなってるかもしれませんが正直さすがに疲れましたので雰囲気を変えて。主宰の永遠のアイドル、御年72歳のおいちゃんドラマーをご紹介しましょう。エヴァンス最晩年を支えた名手が今なおご存命で、しなやかなドラミングもご健在である奇跡。

黄金トリオよ永遠なれとの号令一下生まれたファン感涙の覇権コンテンツ、それが歴代メンバーを迎えたトリビュートライブでした。アメリカではChick Coreaが、ヨーロッパツアーにはDado Moroniが帯同し、日夜各所で名演を繰り広げました。そのドキュメンタリー的作品が『Kind Of Bill』と名前の付いたアルバムです。

チョイスした楽曲「Funkallero」もZoot SimsStan GetzJim Hallといったプレーヤーとの歴史的な演奏が残されています。特筆すべきはやはりおいちゃんのドラミングです。コンテンポラリーゴスペルチョップスに若くて活きのいいのは数多くいるものですが、やはりいくら束になってもかなわない確固たる世界観がありますよね。

特に曲後半のバース部分は終始おいちゃんペースで進み、難攻不落の城が築かれていく様子がわかります。迷いなく伸びた手から湯水のようにフレーズが溢れ出してくる。知識の泉。アイデアの宝庫。16分音符の連打にこれ以上ないアーティキュレーションと強烈な推進力を感じさせる。おいちゃんはやっぱり何歳になってもアイドルのままです。

一切面識のない重鎮を終始「おいちゃん」呼びしながら結びの段まで来ましたが。現役バリバリの名ドラマーが特にJAZZ界隈で目立つのは不思議ですよね。例えば4歳年上のRoger Humphriesは往年のHorace Silverを支えた名手、昨年大きな音楽賞を受賞したばかりのこれまたすごいおいちゃんです。御年76歳、勢いは衰えるどころかますますキレッキレ。

Roy Haynes/Yardbird Suite/2001

つい先日95歳のバースデーライブを終えたばかり、もはやおいちゃんを通り越してスーパーおいちゃんの域に入ったRoy Haynes19年前の録音から。この時はまさか共演したトランぺッターRoy Hargroveに先立たれてしまうことになろうとは、ゆめゆめ想像もしていなかったことでしょう。Kenny GarrettDavid KikoskiDave Hollandらも参加。

Stan Getzバンド在籍時から一際異彩を放っていた天才肌。おそらくリスナーの大半はいかにも80代目前のドラミングを想像してこのトラックを聞き、若き日の音源に立ち戻ってまた驚く。あれ?全然変わってねえな。むしろ今の方がやばいかもしれないという感覚にすら襲われる。独創性により一層磨きがかかる日々。音楽作りに年齢は関係ありませんね。

日野皓正氏が故Paul Motianと共演した際、「完全に食われた」という趣旨の発言を残したと昔に本で読んだ記憶があります。共演者喰い、というとあらぬ誤解を招く恐れがありますが、Roy Haynesにも頭から丸ごと飲み込まれてしまいそうな感覚があります。若手プレーヤーに遊ばせているように見せて、裏では絶えず糸を引き続けている。

主宰のアイドルことおいちゃんにも共通する部分です。つまり空間支配力が桁違いだということです。音が鳴っていようと鳴っていまいと、オーラだとか貫禄だとかそういう安易なレベルではなく。存在そのものがJAZZという領域にまで達してしまった。だから音楽を止められずに、むしろ音楽の神様に導かれるまま音楽を鳴らし続けてくれているような。

先日、車椅子生活となっているWayne Shorterが自身のサイトに「Never Give Up」と記してくれました。髪の毛は真っ白になり、いくらか痩せこけた印象はあります。でも、その言葉信じていいんですよね。まったくもってリズム/ドラム分析になっていませんけれど。それでも信じて待っていますから。

Baptiste Herbin/Chute libre/2012

ヨーロッパのJAZZ界隈にもくまなく目を向けて行きましょう、怒涛の三部作でお送りしてまいります。記念すべき1人目からクライマックス、東のSteve Gadd、西のAndre Ceccarelliとまで讃えられるほどのまさに音楽界の至宝が登場です。近年めきめきと実力を蓄えつつあるアルト奏者のデビュー盤より。

Andreをご存知でない方のために補足すると、JAZZ界隈特有のいわゆる科学者的ルックス。アルト奏者でいえばLee Konitz、ピアニストでいえばDavid Kikoskiのそれ。犬顔か猫顔かでいえば圧倒的に猫顔だと思います。突如始まった謎の連想ゲーム。とはいえビッグネームには意外な共通点があるものです。

時にノイジー、時にセンシティブ。ベーシストSylvain Romanoのバックスピンがかかったような強烈な推進力も相まって、アルバムを通しバンド全体が最も勢いづいている1曲。スタジオ版ならではの尺感、もっとたっぷり聞いていたいなと思わせてくれるような緊張と緩和ある世界観があります。

金物は比較的ビートの強い、きらびやかな音色のものを好んでチョイスして叩くイメージ。彼の代名詞である白黒アシンメトリーのドラムスティックは、陰と陽あるいは光と影の二面性を表すためか。絵画的であり映像的。スウィングも縦ノリもお手のもの。なにせSteve Gaddと並べられるほどの実力派ですから。

結局おいちゃんトークに落ち着くんかいと言われそうですが、御年74歳。円熟さというよりむしろ妖艶さすら感じるほど。音楽は生涯現役、とはよく言ったものですがまさにそう。生きるモチベーション、食う寝る音楽するの状態ということになるのでしょう。これからも新鮮な驚きを提供し続けて欲しいドラマーです。

Aldo Romano/O.D.(Overdose)/2013

第二弾は同じBaptiste Herbin繋がりでもう1曲。名手ペトルチアーニを表舞台に引っ張り上げた張本人はまさにこの人。Steve Kuhnをはじめビッグネームとの共演歴も実に華々しい。『New Blood』というアルバムタイトル通り、若い世代にしっかりスポットを当てる懐の深さも依然として健在。御年79歳。衰えることのない探究心に感服。

音作りの特徴としては、バップドラムにありがちな小口径の楽器由来のコンパクトな出音重視というよりは、コンプを効かせガチガチに作り込まれた存在感ある音色にまとめられています。主宰はこの音色がとてもとても好みです。長い活動歴の中で培われてきたこの世界観を、新世代と融合させようという企画盤の意味合いも孕んでいるといえます。

オーバードーズを取り上げた楽曲ですので、要所に酒に溺れる主人公のモチーフがいくつも散りばめられています。ペダル的に奏でられるパートでしこたま飲んだ後に、ハイハットとスネア同時打ちのキメパートへと移行。まるで机に飲み終えたグラスを叩きつける様子を表現しているかのよう。名曲に必ずと言っていいほど登場する映像美。

また冒頭にも書きましたが、彼の功績の大きいところは「バップドラムの固定観念を壊した」点にあると思っています。コンプはしっかり効かせる、存在感を放つことの重要性をこれでもかと示してくれたまさに名手。ヨーロッパの音楽にはこうした伝統と破壊の歴史が随所に見られ、表現のための文化的土壌がしっかりあるのだと思わされます。

八百万の神の国、日本においてはどうでしょうか。こうした文化的土壌が強固な地盤となっていると果たして言えるでしょうか。空気を読め、不謹慎だ、自粛自粛の流れに煽られてつい萎縮しがちな印象。暗黙のルールというか無言の同調圧力というか。型破りを良しとしない風潮は依然根強い。今こそAldo Romanoの個性と寛容さに学ぶべき時なのかも。

Enrico Rava Quartet/It Ain’t Necessarily So/2002

三部作の最後を飾るのはRoberto Gatto。一見めちゃくちゃに強面なつるっぱげのおいちゃん。Pat MethenyStefano Di Battistaとの胸熱な共演も記録と記憶に刻まれる、言わずとしれた名手です。主宰目線、これは大袈裟でも何でもなく、ヨーロッパのJAZZと聞けば真っ先に彼の顔と名前を挙げると思いますね。間違いなく。

反応速度もさることながら、あらゆる音楽的振れ幅や不条理も甘んじて受け入れる覚悟とでも言うべき包容力。柔軟さと突き詰める感覚は対概念として用いられがちですが、彼の場合は違います。物腰柔らかくそれでいて職人の心を忘れない。映像で彼の音楽を辿ってみると、表情にしっかりと表れているのがわかりますよ。悪い顔してほくそ笑んでいる。

曲中のリズムチェンジも、何か咄嗟の思い付きというよりは大局観を感じる大人の対応ですよね。常日頃から頭の中で多種多様なパルスのリズムが鳴っている証拠。あらゆる想定外を想定内に変える芯の強さ。あとは引き出しを開ける順番の問題、とでも言わんばかりの用意周到さ。言葉にすればするほど陳腐に聞こえてしまうほど。

終始モーダルな世界観を貫くEnrico Ravaのプレイングとは好対照な、Stefano Bollaniのフレーズ感と抑揚感そしてRobertoの劇場型サウンド。このトータルバランスこそが音楽なのです。足りない部分は補い合い、余剰部分は存分に遊ぶ。弱きを助け、足るを知る。だからこそこうしたプラマイゼロの音場が出来上がるということ。

具体画も抽象画も自在。興味を持っていただいた方や見識を深めたい方には是非、彼のリーダーバンドLysergic Bandの盤も強く激しくおすすめしておきます。彼の持つ美学が凝縮されており、リズミカルにメロディアスにまさしく唯一無二の音楽体験が可能なアルバムになっております。時にイベント主宰、時に色々の回しモン。

Adam Shulman Sextet/Grant And Green/2015

ヨーロッパJAZZシーン狙い撃ち三部作を束ねる小規模な総集編的位置づけのコラム。例えば一般論的に、小編成におけるドラミングと多管編成におけるドラミングで根本的違いはあるのか、あるいはサウンドメイクの部分で一体どのような差異が生まれ得るのかについて主観全開のコラムを展開していきます。

取り上げる楽曲は「Grant And Green」という文字通り含みのあるタイトル。音の輪郭だけをさらえばやや現代寄りの響きともとれますし、One For Allに代表されるような安藤忠雄的に言えば「オールドニュー」なサウンドともとれる。ギタリストGrant Greenを文字っているとの解釈も別にないではない。といった具合です。

小編成と大編成を絶妙に跨ぐ中間択的な「セクステット」フォーマットの楽曲。冒頭掲げたテーマにも通ずるところですがやはり小編成におけるアティチュード、多管編成ならではのアプローチの狭間で揺れる様子が克明に録音されていますね。ドラマーはSmith Dobson。大は小を兼ねるとは便利な言葉ですが、見た目以上に落としどころが見つけにくい。

行先不明の議論に一石を投じるとすれば、近年「グリーンスタイル」なる新たな生活様式が謳われる時代になってきました。対照的に何か「与えられたもの」的色合いの「Grant」はその対概念となり得るワードです。平たく言えば伝統と革新。目に見えない制約の多いフォーマットの中にも、「共存する」という第三の道が微かに提示されている。

プロパガンダ的になり過ぎてもいけませんが、現代社会を反映しているのかもしれませんね。敵味方で区別しているだけでは物事は好転していかない、違いを受け入れることでしか活路が見出せないことの裏返し。音楽においてもそうでしょう。フォーマットによる細かな手法の違いには気付けた、しかし互いが意地を張るだけでは先が見えない。

Eric Reed/Happiness/2001

同じセクステット編成ながら、実に牧歌的でスペーシー。ほんわかムード全開のナンバーを取り上げます。Wynton Marsalis Septetでの好演も光った名手Eric Reedが自身の名義でリリースした盤のタイトルチューンより。Wayne EscofferyWycliffe GordonMarcus Printupら豪華なメンバーが並びます。

ドラマーはRodney Green。オールドなバップサウンドを基軸としながら、新旧問わず幅広いジャズメンとの共演作が目立ち聞き応え十分。今作では聞き役中心ながらも出るところはしっかり出ていくオールラウンダーっぷりを発揮しています。Adam Shulman Sextetに得た学びをそのまま体現しているようです。

狭っ苦しいレコーディングブースにこれでもかと敷き詰められた管楽器隊、といった音場。まるで1本のマイクに三方向から音入れされたかのような密集感と、お酒を1杯引っ掛けてから収録に臨んだかのようなリラックス感が同居している。堅苦しいことは後回し、とにかく今を楽しもうという気概。思い出のアルバム感。

この夢見心地、ほろ酔い加減がアルバム最後の1音までずーっと続いていきます。タイトル通りの多幸感。各人が気持ち良いと感じたフレーズ/リズムをそのままアウトプットするという、ごくごく自然なそれでいて当たり前の感覚。不思議と、音楽を続けているとつい忘れてしまいそうになるんですよこういう感覚を。

例えばJAZZ初心者向けにリリースされたオムニバスアルバムや、カフェに合う、ジョギング向け等々様々な謳い文句で消費される音楽がある。それもまあアリっちゃあアリですが、たまにはこういった盤をアタマから通しで聞くことで得られる満足感というものにも目を向けていきたいものですよね。相当やばいですよこのアルバム。

The Dave Pell Octet/Lady Is A Tramp/2010

カリフォルニアの老舗Lighthouse Cafeにて収録されたライブアルバムより、これまでのコラムから若干編成を大きくした8人編成でのナンバーより。東京事変がカバーしたことでも有名なスタンダード。オリジナル版の収録は1954年6月にまで遡ります。半世紀以上を経ての録音というのも実に感慨深いものがありますね。

オリジナルメンバーに名を連ねるのはDon FagerquistやBill Richmondといったこれまた強力な布陣です。要所要所にアナログテープを繋ぎ合わせた痕跡も生々しく残る、それもまた味な仕上がり。「一回性」を重んじるジャンルでありながら録音技術の発展途上にあった当時としては「再現性」を高める意味も非常に大きい1枚だったのだろうなと推察できます。

さて本編。オリジナル版より若干抑え目のテンポ設定。矢継ぎ早にこれでもかと繰り出されたフレーズの応酬とは対照的に、よりバンドとしてのアンサンブルに重点を置いた印象。しっかりとサウンドしています。焼きが回ったようなレイドバックも、演歌調の節回しもありません。純度が高くそれでいて現代的解釈にも寛容。

ヴォーカリストLucy Ann Polkとの共演作でも顕著ですが、大御所ジャズメンに共通する「海のように広い心」。実のところ編成の大きさや楽器構成というのはそれほど重要なファクターではなく、和食は美味いしかしながら中華料理も洋食もサイコーなのだ、といったような並列的な物の見方。ここに音楽の神髄を見たような気がします。

お客さんを間近にしての演奏だからこそ生まれるバランス感でもあるのかもしれません。何をどんなテンポで飲み食いしながらご覧いただけているのかということが手に取るようにわかる。だからこそ奏でられる音楽もリアルタイムに変化する。BGM的に終始せず、一体となって仕立て上げられていくもの。お客は神様というのはこういう文脈で使いましょう。

Lucas Pino/I Can’t Remember/2017

どんどん編成を大きくしていきましょう、今度はノネット(9人編成)です。ヴォーカリストLauren Desbergのサイドマンとして来日経験もあるテナー奏者のプロジェクト。ニューヨークの老舗Smallsでほぼ月1行われているライブ中継を2セットとも欠かさず見ているほどの、主宰イチオシのバンドです。正直、過小評価が過ぎている。

メンバーそれぞれがリーダーを張れる器。それほどの超エリート集団。曲を聞いていただければ一目瞭然。曲名「I Can’t Remember」の後に続くのは「When I Didn’t Love You」つまり彼のパートナーRoxy Cossに宛てられたラブソングであるということです。チャラい。チャラ過ぎる。恋愛バラエティに出てきそう。それはさておき。

曲によってはオールドに、時にコンテンポラリーにという振れ幅ある音楽性。Dave BrubeckGeorge Russellといった往年のサウンドを踏襲しながら、彼オリジナルの独特な歌い回しが絶妙にアクがありアイロニーに満ちている。ライブを重ねバンドを温めた状態で臨んだレコーディング。漂うスルメ感。気付けばこの曲ばかり何度も何度もリピートしてしまう。

ドラマーJimmy Macbrideは10年あるいは20年に一度のレベルで秀才であると断言しておきましょう。20年代は間違いなく彼のための10年間になると思います。数々の名ドラマーが歩んできた道、ヒョロ長メガネ。心なしか長い手足。どうしてこう揃いも揃って。とはいえオールドスタイルと新世代感を併せ持つ超ハイブリッド、今後台風の目になると思います。

収録アルバム『The Answer is No』、答えはノーだ。の真意は定かではありませんがこういう考えがあるんだかないんだかわからないところが彼の底知れぬ魅力であります。すべてをつまびらかにしないところに良さがある。わかるように伝えてくれないと、などという発想は驕りであるとわかります。

Hilario Duran/From The Heart/2006

勢いに任せて始まった感のある多管特集。いい加減ここらで切り上げておかないと、後で自分の首を絞めることにも繋がりかねない。手打ちの意味も込めて「ビッグバンド」形式を取り上げひとまずお開きとします。Latin Jazz Big Bandを謳うアルバムです。とてつもなく聞き応えがあり、じんわりはおろかびっしゃびしゃに汗をかくレベル。

ゲストドラマーはHoracio Hernandez。ラテン音楽をこよなく愛する主宰からすればこれ以上ない夢のコラボレーション、買う前から名盤であることは確定していました。事実、期待を裏切らない仕上がりで特に表題曲が物悲しくもどこか抽象的な異国情緒の塊でしたのでご紹介します。どうぞお気に入りのリキュールと共に。

収録曲のレコーディング風景がそのままMVになっている「Mambo Influenciando」を検索いただけるとおわかりのように、ブッキングに失敗したのかと思うほどバンド人員と釣り合わないブースの狭さ。オンマイクのようでオフマイクな管楽器隊のサウンドが妙な味となって、バッキバキのドラムサウンドと溶け合う。こういう音楽を待っていた。

スタジオアルバム的でもありライブアルバム的でもある。スタジオブッキング大失敗(たぶん)という怪我の功名によって、各プレーヤーの息遣いや譜めくりの音までもがパッケージされた珠玉の1枚に。ラテン音楽独特の音価の長さ、粘っこさとは何たるかがこれを聞けばわかる。そして一朝一夕では再現不可能であることもまたわかる。

木管セクション金管セクションそれぞれに見せ場があり、高らかに歌いあるいはむせび泣く。メインとしてのオイシさ、サブとしてのオイシさがしっかりと詰まっている。不公平感といった類の要素が一切なく、音楽の前に皆平等なのだという静かで確かな証明。ビッグバンド入門盤としても申し分ないレベルなのでは。

スネオヘアー/ワルツ/2005

怒涛のJAZZ盤ラッシュにも一区切りをつけまして晴れて通常営業、ハチクロ直撃世代が懐かしのアニソンをぶち込みます。もう15年も前になるのですね。渡辺健二氏によるソロユニット。氏らしい循環型のコードが涼しく悲しく響く。ワルツといえども4拍子。クレジットにドラマーの記載がないことから、完全打ち込みサウンドであることもわかります。

これはあくまでネット上だけのお話ですが。一部では「打ち込みが古くさい」等揶揄されているそうです。ただ宅録経験がおありの方、またそうしたサウンドに馴染みのある方ならさほど違和感を覚えることもなく、むしろ打ち込みってそういうものなのでは?とサラリとかわせるはずですので。別段そうした批判はあたらないという前提で話を進めてまいります。

とはいえリズム的フックが詰まった良作。特にバスドラムの「ダブルストローク」形は謎多き存在。故・青山純氏的に言えば、なぜ一つ打ちではなく「ダブルストローク」を織り交ぜたややテクニカルな音形を採用しているのか。8分音符だけでも十分に成立しそうなものですが、スムースな上モノの下で最後までヘビーに鳴り続けています。

氏の手癖なのでは?で確かに話は完結しそうなもの。それほど大きな意味はなさそうにも見えます。どこか人工的なフレーズという印象が拭えませんが、あえてドラマーを起用せず打ち込みサウンドを残したのには深い理由がありそうな気もしてくる。人前ではおどけてみせていますが、氏が非常にセンシティブな人間であることを主宰はよく知っていますので。

ある視点はこうです。つまり現実と虚構、ノンフィクションとフィクションが交錯している世界観を表現するため。どこか一向に交わることのない世界線を眺めているような歌詞からもわかります。あるいは自然物と人工物の対比、アンドロイドとの禁断の恋模様なんて読み方をしているのは主宰ぐらいのものかもしれませんが。果たして真相やいかに。

100s/Honeycom.ware/2005

この曲も本当に謎が多い。主宰目線、中村一義に共通する世界観は難解ながらも最後にトンネルを抜け出すような開放感/多幸感が待っているというものでした。ところがこの曲には最後まで希望の兆しが見えない。終始掴みどころなく気付いた時には終わってしまう。「はにかむ」を文字ったとする説が有力なタイトルも、断片的すぎる歌詞も、謎。

「光る砂」「色はブルー」ということですので、舞台は海っぺりかあるいは宇宙空間か。生命のスープ、地球は青かった等々記憶を辿ってみますが何か全容解明には至らない。「爆音ゾーンの末、憂いな。」とは?宇宙空間説に立てばロケットの発射音あるいは機内は爆音ゾーンに他ならないですが。しきりに「光る」と繰り返されるのも後者的立場なら筋が通る。

すっかり歌詞の解説になってますが、玉田豊夢氏のドラムと両輪を成しておりメロディラインでありながらリズムラインでもある点で分析の価値は十分アリとみています。物は言いよう。デモテープ段階の鼻歌である程度母音の流れだけは決めて、あとはイメージで乗せた歌詞ということもできそう。稿の中盤でなぜか新説をぶっ込む。

B-DASHWHITE ASHが採用している作詞技法ですよね。脈絡ない言葉の羅列、ところが並べてみると意外と前後に関係性が出てくる。不思議にメロディとリズムを兼ねてしまう。実験的でありラフ。ところで「光る/来る」ってどういうことだ?何か隕石的な飛来物がこちらへ向かって来るイメージ。アルマゲドン的世界観?段落ごとに生まれる新説の数々。

「君が望むのならしな」の後にすぐ「それで死ねるのなら」と脅し文句的に締めるところもなにか狂気めいている、この辺りの語感も本当に美しいですよね。字数もバッチリで、詩歌を詠んでいるよう。声に出しながら作詞作曲する様子が浮かびます。あとこれは本当に蛇足ですが「光る砂」+「色はブルー」=「光のブルース」ということだと思います。

安藤裕子/たとえば君に嘘をついた/2008

ドラマーは沼澤尚。今でこそ当たり前となった、いわば逆輸入型ミュージシャンの元祖。ドラム/リズム分析を行っていく上で避けては通れないビッグネームです。文字数が許す限り、この曲が持つ豊富なギミックを紹介。いきなりですがイントロアウトロと間奏に共通する16小節フレーズ。長い音符を用いることで絶妙に4拍子のビート感を消している。

これがAメロに入ると一転ビート感を前に押し出すサウンドに変化、サビに向けさりげなく少しずつ音のパーツを増やしていく。サビは16ビート。温かくウェットなハイハット、スネアの表面を細かく優しく撫でるゴーストノートも見事。トップシンバルを割れんばかりの勢いで叩くキッズ達に教えたい。16小節フレーズに戻り、工程をまたアタマから繰り返す。

サビと16小節フレーズを橋渡ししているのはハイハットオープン1発。たった1発で夢から現実に引き戻される。頬っぺたを叩かれてはっとする。夢と現実を自在に行き来するドラミング、無論それは他パートのサウンドメイクも助かってという話ではありますが。しかし見惚れてしまいます。一筆書きであるいはカメラが長回しされたまま進行していく物語。

おそらくは曲を通しての一発録り、ということになるのだと思います。部分部分での手直しというのは、こと当楽曲に関してはご法度でしょうね。それではあまりに興が削がれてしまうというか、常に曲のトータルバランスを意識して叩かなければ成り立たない世界観、触れるだけですぐに壊れてしまうものであるといえるからです。

「たとえば君に」という氏らしい言い回しが、絶妙な虚無感/空想感を生んでいます。デビュー以来一貫している薄もやがかった音場もこの曲のためにあったのではと感じさせるほど。アルバム名に『chronicle.』と付けた辺りもさすが。取り上げたい楽曲が他にも山ほどあります。参加メンバーも実に豪華ですし。また別の折に。

安藤裕子/さみしがり屋の言葉達/2006

別の折にとは書きましたが別にpart4でとは言ってない、なんだか気分がハイなので続けてしまいましょう。ドラマーは矢部浩志。氏のドラミングも多角的分析が可能です。字数の許す限り徹底的にやってまいりましょう。まずはチューニング。サブスネアとして用いられるようなドスっとした音色。これは打面の張り具合を極限まで緩めることで表現できるもの。

他の太鼓類も全体にローピッチなのが特徴的ですね。これが実に効果的で、金物等の音域と喧嘩することなくきちんと棲み分けされたスマートな音場になっています。抑揚もビートも最小限度に、むしろ他楽器に細かな色付けを任せているようにすら聞こえてくる。それでいてドラムでしか表現できないリズムはしっかりと主張する。この水面下の駆け引きが圧巻。

フィルイン一つ一つにも細かな役割分担が見えますよね、起承転結を予感させる。他パートの完成形がどこまで見えた段階で、ドラムパートの録音となったのかはわかりません。仮に管楽器隊だけ後録りだったとしても驚きですよね。ここまで絶妙に混ざり合うリズムを見越して、ドラムを先に録音していたということですから。

ドラマーが半ばクリエイターの立場として作品に携わっている。短編集を読んでいるような、オムニバス形式のショートショートを観ているような感覚。前述の坂田学沼澤尚両氏とはまた異なったスタイル・アプローチで展開される音世界はまさに三者三様。そのどれもが最適解だといえる仕上がりですよね。

さらにここに茂木欣一波多江健佐野康夫あらきゆうこ伊藤大地と加わっていきます。これはもう圧倒的勝利と言う他ありません。順を追って紹介していくしかないと思っています。仮に当コラムがベース分析と名前を変えたとしても、おそらく似たようなテイストになっていたことでしょう。TOKIE鈴木正人沖山優司。話はまだまだ尽きません。

森広隆/悪魔の提言/2003

ギターは故・松原正樹、ベース伊藤広規、ドラム山木秀夫。バブル期の録音ではありませんよ、21世紀初頭に実現したメンバーになります。アルバム『並立概念』に続くミニアルバムの2曲目。一聴するにおそらくこれも一発録り、しかも比較的ラフなテイクが完成版として採用されているという点に特に注目すべきです。

勿論確証はありませんので、後悔のないよう何度もテイクを積み重ねた結果なのかもしれません。しかし曲中盤の間奏部分、山木氏のフィルインがやや消化不良に終わったせいか二度同じ6連符のフレーズを繰り返すシーンがあります。その後Bメロに戻ったところですかさず左手の松原氏が変則的フレーズでレスポンス。

この流れは経験上、一発録りでしか起こり得ないシチュエーションだと思います。レコーディング中にやっちまったなーなんて声を出すわけにもいきませんから、すべて音で合図。オフレコ的な会話まで演奏の中に取り入れてしまうのですから、これはもう神々の遊びと言う以外にありません。この一連のくだりを聞くだけでも一聴の価値あり。

似たようなテイストの一発録りとしてAl JarreauEasy」を思い出しました。ドラムはSteve Gadd、同じメロパートでも1番と2番で異なるフィール、異なるフレーズを演奏しているものがOKテイクとして採用されています。本当の意味で1テイク録音だったのかもしれないな、というのが主宰目線。「悪魔の提言」も同様かもしれません。

つまり試奏テイクがOKテイクという可能性すら否定できない。松原さんと僕はカッティングで程よく掛け合いましょう、伊藤さんは16分主体で、山木さんはもう好き勝手やっちゃって下さい、ちなみにキメポイントが何箇所かあって〜ざっくりこういう感じのディレクションをイメージしています。自分がもし森氏の立場ならそうしますね。

Prince/Dreamer/2009

part3を締め括る20×3=計60稿目ということになります。入稿時期はちょうど、音楽業界全体が失ったばかりの偉大な才能を思い出す非常に大切な季節です。氏の大きな魅力であるギターサウンドを全面に押し出したアルバム『LOtUSFLOW3R』よりジミヘンへの忠誠心を感じずにはいられない名曲を。

例えば氏がジミヘンに少年のような憧れを抱いたように、D’angeloがギターを肌身離さず握り続けているのには確たる理由があります。大変有名な逸話です。氏の音楽に酔い、業界の門戸を叩いたミュージシャンが数え切れないほどいます。流行り音楽を柔軟に取り入れ、後輩世代を躊躇なく表舞台に引き上げ、それでいて孤高の人を貫き通しました。

彼の変わり果てた姿に最初に直面した人物もまたミュージシャンだったのではという説があります。彼女もまた最近長く伸びた髪をばっさり切り落とし、心身共に再スタートを切ったばかり。それこそゲスの感繰りですが主宰の目にはそうはっきりと映りました。過去とおさらばし、前を向いて歩いて行かなければいけません。人間にはそういう瞬間が付き物です。

とはいえ振り返ってしまうのが人間の悲しい性でもあります。アメリカの某トークバラエティ番組でのゲスト演奏が、主宰目線のベストテイクですので是非ともご一聴下さい。見たことも聞いたこともないギターサウンド、氏の世界観の全貌を堪能することができます。返す返すも、本当に偉大な才能を失いました。

part4の展望。相変わらずのノープラン、相変わらずの長文駄文でお送りする予定です。書き綴るほどに要領を得る感覚がありましたので、完全なる驕りだとは思いますが、しばらくこの一本調子が続くことになろうかと存じます。すなわち外堀からじわりじわりと追い詰めてゆくスタイルのリズム/ドラム分析。誰に頼まれるでもなく。

#音楽 #ドラム #リズム #追悼 #記念日 #コラム #レビュー

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