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EPIC DRUMS 00s~ (part4)

2000年以降の楽曲のみを取り上げ、流行り廃りを超えた多角的なドラム/リズム分析を目指します(アーティスト名/曲名/リリース年、の順に表記)。一応ジャズ研OBという体は最低限守りつつも年代順不同、ジャンル不問。主観全開、批判は楽しく適量で。要するに単なる長文駄文。あえて音源掲載は行いません。気になったものだけコピペ方式で。

Esbjorn Svensson Trio/Tuesday Wonderland/2007

ファンの間でもいまだ映像化熱望の声が強い、2枚組アルバム『e.s.t. Live in Hamburg』より。在学中、後輩世代に口酸っぱく提言していたことですが「ベスト盤よりもライブ盤を」聞くべきではという老婆心。無機質に並べられた人気曲よりはるかに立体的で情報量も段違い。楽しみ方は強制できませんがしかし経験を持って言えること。是非「ライブ盤」を。

以前こちらのサイトでもご紹介したでしょうか。小学生の時分、スガシカオ氏のラジオから流れてきたEW&F『Live In Rio』の衝撃は今でも忘れることができません。時代は1980年、スマッシュヒットを連発し最も勢いづいていた時期。バンドの勢いはテンポにも影響するのでしょうね、明らかにオーバーペースのまま最後まで音楽が鳴り止まない。昔話以上。

収録曲10曲に対し収録時間約2時間。平均10分刻みで連続していくリリシズムな世界。トリオとしての到達感、充実度の高さをうかがわせます。面食らうJAZZアンチも多いはず、しかし冗長さゼロと断言。ミニマルな編成、過不足のない構成の中で展開するソロワーク、曲順の妙。完璧な調合とはこのことか。名手Magnus Ostromのベストテイクが並びます。

ブラシ・ロッドを主体に数え切れないほどの打楽器に囲まれた要塞から、世界観に必要な分だけ丁寧に丁寧に選び取られる音の数々。多点セット特有のアイデアが散らばるような感覚も一切ありません。単に手順を真似るだけでは到底再現できそうにないですね。主宰も故人のスコア集を買っては眺め、バンド企画を持ち出してはそっとしまうを繰り返しています。

スウェディッシュ音楽が日本で広く親しまれる要因は一体何でしょうね。The CardigansやBONNIE PINKそしてe.s.t.、近年ではクラムボンが「Goldwrap」のカバーを披露し話題に上がる場面もありました。懐古的でありながら革新的、常に再評価が繰り返されるジャンル。また別の稿で詳しく触れてみたいと思います。種蒔き以上。

Ben Wendel/Song Song/2016

古くはAhmad Jamal Trio「Poinciana」から始まった由緒正しい歴史あるドラムパターン。20世紀末にJack DeJohnetteが棚からひとつかみしライブ前のサウンドチェックで披露、Keith Jarrettがそれに呼応する形で本編セットリストに加えられリリースされたのが2000年の名盤『Whisper Not』です。

そして21世紀にバトンリレー。世代を超え楽器を超えてテナー奏者が思い出の余韻に浸りながらも新しい風を吹き込んでいます。ピアノGerald Clayton、ベースJoe Sanders、ドラムHenly Cole。JAZZ界の歌心を結集させた鮮やかなメンバー構成で、主旋律や対旋律といった概念の先にいよいよ辿り着いてしまった感。曲名を身体全体で表現し切っています。

10年あるいは20年という周期で必ずと言ってよいほど登場してくる、理論体系化のためのまとめ役的プレーヤー。古くはDexter Gordon、Chris PotterやMark TurnerあるいはJoshua Redmanなどもそうでしょうか。新たな解釈、新たな楽しみ方を我々に提示してくれる存在があってこそ発展を続けてきたジャンルといえるJAZZ。

コンテンポラリーに代表される、息が詰まるような近代的リズム/スケールの応酬。しかしそれは裏を返せば、時に特有の窒息感や拘束感を生み出すという矛盾を抱えているともいえます。コンテンポラリーであるからこそかっこ良いのだ、かっこ良さの根底に流れているものそれは既存概念のコンテンポラリー的解釈なのだというトートロジー。

ゆとりある悠々自適な音楽が都会の喧騒から逃れられる憩いのオアシスへと変わる、氏の音楽性がその何よりの動かぬ証拠となっています。ライフサイクルの変化によっても時に音楽の聞こえ方は180度変わってしまうもの。そんな中にあって感情の起伏を緩やかにそして穏やかにしてくれる楽曲が「Song Song」なのだと思っています。

Julian Lage/Nocturne/2016

時を同じくしてリリースされたアルバム『Arclight』。11曲収録に対して演奏時間わずか36分。ロックアルバムの間違いなのでは?いやはや正統派のJAZZギターアルバムです。飽和状態にあるシーンに一石を投じる意義深い1枚。冗長なソロは本当に必要か?5分10分と演奏時間を重ねなければ実現できないような必然性ある音楽性なのか?そもそもJAZZとは?

これだけ味わい深い楽曲でありながら、わずか3分半で終わってしまう。おもわずアタマから聞き直し、時計に目をやると既に膨大な時間が過ぎている。実にプリミティブな音楽体験ともいえますね。感覚派と技巧派が同居している。天使と悪魔。ジキルとハイド。大胆不敵なサウンドチェンジも助かってさほど時間を要さずとも曲が前進して行く。

つくづく身に詰まされる感覚。コーラス数だとかソロ順だとか、そういう小賢しい発想はもう必要ない。伝えたいことは一言で言い切る、ただそれだけのことだったのかもしれません。伝えたいことがどんどん増えていくのではなく、探しながら伝えてしまっているせいなのだという裏返し。コンセプトをあらかじめ明確にした上で、すべてを始めること。

偶然の産物に頼りっきりになってきたツケがここへきて。とはいえ悪態ついてばかりいても仕方ありませんので、ドラマーKenny Wollesenの解説に移行。時計の針がチクタク鳴るような4ビート。氏のサウンドチェンジにしがみつき離れまいとする様子、でも不思議と操り人形に終始している感はない。執着心と静かにこくりと頷くジェントルな聞き役的立ち回り。

冒頭ロックアルバム?と揶揄した通り、どこかそれに似た礼儀作法やヴァイブスを感じる。その中心にKennyのドラミングがどっしり構えているような感覚を味わうことができます。この手の順序付けは些か野暮ったいですが、10年代の頂点に立つJAZZ盤だとあえて断言しておきます。片道36分の物語、通勤通学のお供に是非。

ねごと/サイダーの海/2011

打って変わってJ-POP、主宰イチオシのドラマーをご紹介します。惜しまれつつも昨年解散してしまったバンド、ねごとの2ndアルバムから1曲。先日入籍報告があったばかりの澤村小夜子氏を取り上げ存分に凄み良さみをわかりみ全開で書き連ねてまいります。悔やまれるのは解散だけでなく、当楽曲が有名サイダー飲料のタイアップを得られなかったこと。

以前Adam Nimmoをピックアップした際言及した内容とも重複しますが、大変重要なことですので何回でも繰り返します。つまり名ドラマーの系譜、金物類は突っ込み太鼓類は仰け反るというアレです。奇遇にも主宰と同級生の1990年夏生まれ。中学時代の担当楽器はマリンバ、高校生の時分にドラムに転向したとの記録が残されています。

セッティングを一望するとなるほど氏が吹奏楽部出身であること、また聞いてきた音楽がどういったジャンル/分野のものかも手に取るようにわかる。強烈な前ノリと後ノリが、伝統と青さが共存していると言い換えて然るべきかもしれません。女性ドラマー云々という物言いは当然時代に馴染まないため割愛しますが、本当に素晴らしい。

パワフルでありながらフレキシブル。後に続く「ループ」「メルシールー」を契機として4つ打ちフィールが強まっていくバンド模様についても字数の都合割愛せざるを得ませんが。バンドサウンドと打ち込みサウンドが程よくグラデーションになっているこの時期の楽曲、「カロン」「サイダーの海」は特に文化的/資料的価値が高い。端的に、面白い。

「ハイファイに聞かせてはいるが実はものすごくローファイ」というところが、10年代のバンドムーブメントが持つ共通点だったのかなという印象。ねごとはまさにその先駆け的バンドであったと言い切れます。氏の幸せをただただ願うばかりですが、また何かの折にドラムサウンドを響かせてほしい。本当にお気に入りの音なんです。

Omarion/Touch/2005

左右に振られたスネア、ダビングされたクラップ、強弱2つのキック。リズムトラックはわずかこれだけです。ここにギターとシンセが加わってもなお音がスッカスカ。洋楽の音場は時に大胆不敵。本当にこれで大丈夫なのかと心配になるほどですが、本国ではなかなかのヒットを飛ばした1曲ですので心配無用ということでしょう。

主宰自身相当疎いジャンルではありましたが、このアルバム『O』は高校生の時分何の躊躇もなく即買いしましたね。結果としては個人的にグッとくるトラックだけ、つまりこの1曲を集中的にリピート再生する運びとなりました。同時代にはJustin Timberlakeが、近年ではBeyonceの妹Solangeの最新作でこうしたテイストが見られたでしょうか。

特に後者Solangeのインタビューより要約すると、歌の質感や歌詞の世界観にフォーカスさせるため意図的に音数を減らした、特にリズムトラックにはこだわり制作に数時間数日間単位の時間を要したとあります。つまり歌い手/表現者の立場にすれば、ちょっとした音でもノイズになり得るのだということ。『When I Get Home』は驚愕するほどの音の薄さです。

氏は歌手としては勿論のこと、ダンサーとしても大変な権威があります。都合「周辺事情」と大変失礼な書き方をしますが、しかし音楽が様々なファクターで成り立っていること、いかに総合芸術であるかを思い知らされた次第です。歌って踊れることは決して当たり前のことではない。時と場合に応じて必要条件にも十分条件にもなる。

上記内容を踏まえ今一度、当楽曲の頭出し再生をお願い申し上げます。やっぱりどう考えても音がスッカスカですね。つい書きそびれたことですが、スネアを左右に振っているのはおそらく何かダンスに通じる縦軸あるいは横軸の動きが投影されているのでしょう。曲の理解を深めるためにはダンスの見識を深める必要もあるのだというお勉強。

Chon/No Signal/2017

カリフォルニアのマスロックバンドのアルバム『Homey』よりお待ちかね、頭の体操のお時間です。どう見ても4拍子には見えない、ところがどっこいずっと4拍子。以前の話だとスネアが3拍目アタマに来ているかどうかで見分けるのがメジャーなんだよな、あれアタマに来てねえや。つまり教科書の端っこ、参考書の補足欄に載っているタイプの音楽です。

とはいえ2小節計8拍ごとに切り離して考えてみましょう。16分音符で言えば16×2小節=32個分。特徴的な揺らぎのあるギターリフを16分単位で要素分解すると5+4+5+4+5+4+5の周期で回っていくことがわかります。つまり合計すると32。一見変拍子に見える独特のパルスも、4拍子を巧みに軸ずらしすることで表現されたものであることがわかります。

1拍5連符+1拍4連符+…とも捉えられそうですが、8拍ごとに計算していますのでちょうど1拍分足りません。つまり拍を跨ぐリズムパターンになっている。さらっと書いていますが、この2つのノリを聞き分けるには相当の時間を要します。問題文(Aメロ)→解答(Aメロ’)の順で構成されている曲ですので、焦らず繰り返し聞いてマスターしましょう。

一口にアメリカ西海岸の音楽と単純化しても差し支えなさそうな、いわゆるサーフ音楽の流れを汲んだテイストであることがよくわかります。大波小波を表現するための5+4+…ということなのでしょう。しかしながらChonの活動としては至って平常運転、このレベルのテクニカルな楽曲がわんさかあります。本当に末恐ろしいバンドです。

テクニカルでありながら、非常にポップなサウンドとしてアウトプットされている。変わり者のようでいて、海っぺりの人間からしてみれば見慣れた景色が広がっているだけのいつもと変わらぬライフサイズな音楽。また一味違った楽しみ方を持っている楽曲といえます。以上、頭の体操のお時間でした。

Moonchild/Now and Then/2017

現代JAZZシーンの代名詞となったこれもカリフォルニアの3人組。全員が音大器楽科卒のユーティリティプレーヤーという異色のバンド。ブラスセクションまで自分達だけで完結できるという、ある意味ラップトップ音楽の完成形が堂々提示されてしまった形です。和声的にもリズム的にも宝の山と言えるこちらの楽曲から。

ズバリ何拍子に聞こえるでしょうか?3拍子、4拍子、6拍子。なるほどなるほど。実はそのどれもが正解です。スネアに着目すれば3拍子、シンセベースに着目すれば4拍子、キーボードに着目すれば6拍子とも取れる。ハイハットはやや中間択的ポジション。つまりどういうことか。つまりそういうことです。それ以上でもそれ以下でもありません。

タイトル「Now and Then」というのもなかなか言い得て妙、というのも途中複数ギミックの存在をサブリミナル的にチラ見せするモチーフがあちこちに隠されている。こういうタイプのかくれんぼもあるんですね。MVが制作されたリード曲ばかりについ目が行きがちですが、アルバム後半のこうしたトラックもなかなかに味がありますよ。

彼らのライブ風景も実に異様。3人それぞれの前にキーボードが置かれ、各人が管楽器を背負った状態でパフォーマンスが行われる。当楽曲のライブ映像を目にしたことがないので、是非探してみたいところですね。少なく見積もっても3種類のパルスが存在していますから、首振りのリズムも三者三様ということになろうかと思います。さぞかしファンシー。

こう書くとものすごく珍しい音楽のような気がしてきますが。以前こちらにも書いたように、打楽器は音階楽器を兼ねるという側面があり、またメロディや歌詞といった要素ですらリズムセクションを内包しているということも何度となくご紹介してきたつもりです。そう驚くことでもなかろうもんということ。

Erykah Badu/Window Seat/2010

長回しのMV、白昼堂々全裸になるシーンで終わるという衝撃を残した楽曲。このタイミングで取り上げた理由は様々。第一にMoonchildのヴォーカルAmber Navranの歌い回しに氏の影響を強く感じること。肌の色で音楽が決まらないことは自明、とはいえ白人が奏でる黒人音楽としては一級品な理由。これは彼女のビブラートを聞けばおわかりいただけるはず。

第二に先見の明。これはサビまで聞き進めることで明らかになりますが、積み重ねたリズムをだるま落とし的に取っ払うあのEDM的手法ともオーバーラップしてくる。ドラマーはQuestlove。アンダーグラウンドでは着実に波が来始めていた時期ですから、当然両氏の目に留まる音楽であったことは容易に想像が付きます。

という前提でもう一度曲のアタマから。スネアイントロには、音ムラと一言で片づけるにはあまりに勿体ないほど何か特徴的メッセージがあります。なだらかな坂を上り下りするゴーストノートのダイナミクス、細かな音数の増減。存在感というよりはむしろ「気配」勝負のドラミングといったところでしょうか、後ろから着実に忍び寄って来る。

この「気配」がするところにドラムの面白さがあります。小道具的にSE的にあるいはスモークマシンのように。全貌を見せるのかチラ見せするのかあるいは薄いベールを纏うのか。正義のヒーロー的にあるいは悪の組織的に。あくまで一例にすぎませんが、主観的とはいえここまで考察が落とせるわけですから。あとは曲にマッチするものを選ぶだけ。

当然ミスマッチを良しとするケースもあるという含意。ハイハット主体のサウンドがライドシンバル主体に変わることで、有機的な響きが打ち込み的響きになんてことも考えられたはずです。百戦錬磨のQuestloveにとっての最適解、このくらいハードルを上げてしまっても笑って許してくれるでしょう。アフロ頭からキャンディを差し出してくるかもしれません。

ナンバーガール/Tombo the electric bloodred/2002

ドラムにおける「音抜け」についての考察。録音技術の発達もあり語弊を承知で書けば「音抜け」の良さすら表現できる世の中になってしまった。化学調味料の味なのか本来の味なのかが判別できないという現実。そもそもつまびらかにする必要があるのかという疑問はいったん脇に置いて、やはり良い音で聞きたい叩きたいという欲望にまずは忠実に。

前置きが長くなりましたが、そういった部分でもアヒトイナザワ氏は自他共に認める「音抜け」の良さがあるドラマーです。主宰目線、2002年出演のRock In Japan Fes.が好例。フェスならではの反響音も相まって「音抜け」を一層際立たせている。その要因はどこかを探るというのが今回のコラムの趣旨になります。

ズバリ「水面下の動き」あるいは「スティックを振り切る」意識。ご存じのように膜楽器には表裏二箇所にヘッドが張られています。表面を叩き裏面でその振動を受け止めるイメージ。アヒト氏の場合は裏面まで叩いている、つまり「スティックを振り切る」ことができているということ。どうしてそんなのわかるんですか。

実際、部活動の先輩にご指導賜った経験を持つからです。つまり打面を平面的に捉えるだけでは180度までしかカバーできない。「スティックを振り切る」ことで打面を立体的に捉えることが可能となり、水面下つまり181度以上の角度をカバーできるようになる。こうすることにより音がどう変化するか、つまり冒頭の「音抜け」に直結してくるという理屈です。

下方向へのイメージ。「音抜け」といえば元来、スティックの跳ね返りに着目する場面が多かった印象。しかしそれでは180度未満の角度をカバーするに留まり、むしろ音が詰まったり些か乱暴な音色に変わってしまう危険性もある。アヒト氏の映像をご覧下さい、バウンドを意識しつつもしっかりと振り抜いているのが見て取れます。

Mark Turner Quartet/Lathe Of Heaven/2014

「スティックコントロール」についての考察。取り上げるドラマーはMarcus Gilmore。主宰目線、現存する打楽器奏者のピラミッドの頂点に位置する名手。特に類稀な「スティックコントロール」が持ち味だと考えています。例えばチップの形状、グリップ位置、細かな奏法に至るまでありとあらゆる角度から分析が可能です。

シグネイチャーモデルはいわゆる逆涙型チップを採用。室内楽で用いられるケースはほとんど見たことがありません。むしろマーチングスティックとしてポピュラーな印象。さらにそのグリップ位置にも注目すると、かなりスティックの際を持っていることがわかります。一般的にグリップポイントとされるのは一番バウンドが返る場所。しかしあえての先端部。

ダブルストローク、トリプルストローク、あるいはバズロール。幾つもの音符を自在に操り細かく細かくフレーズを生成していく。あるいはチューニングによるものなのか、倍音の有無や比率も計算し尽くされフレーズとして並べている感すらある。単に手順をコピーするだけでは到底この音色にならない、主宰も経験があります。

あるいはスティックと指、手のひらとの接地面積によっても出音は微細に変化するものですから。一概に握り込み過ぎるから悪いというわけでもなく、また気を抜くとスティックが飛んでいくぐらいが丁度いいというわけでもない。正解/不正解というレベルではかれるほど氏のドラミングは甘くありません。出口の見えないトンネル。

リニア/ノンリニアフレーズの使い分けも見事。オスティナートを得意とする面も実に特徴的です。バップスタイルからコンテンポラリーまで幅広い分野から声がかかるのには、やはりそれだけの理由があるということです。親の七光りなどというものもまた存在していない。気が付けばpart1のような瑞々しいコラムに。自分で言うな。

サニーデイ・サービス/心に雲を持つ少年/2020

最新作『いいね!』のオープニングを飾るこの楽曲は長年バンドを支えながら一昨年亡くなった丸山晴茂氏への哀悼の意、あるいは懐古の情、そして新ドラマー大工原幹雄を迎えた新生サニーデイ・サービスの確固たる決意表明が鳴らされたまさに名曲といえるでしょう。やや番外編的に解説してまいります。

大方ファンの読みとしてはThe Smiths「The Boy with the Thorn in His Side(心に茨を持つ少年)」のオマージュであるとする説が濃厚。「茨」が指すのは劇中主人公の内面的要因かあるいは外部的要因かについても解釈は分かれるところです。主宰も一切否定はしません。ただもう少し奥へ踏み込みましょう。

ジャケ写に描かれたバスドラム。狙いすましたように1曲目を飾っているという点。作中の「少年」が指すのは紛れもなく丸山氏本人なのではと考えます。心に影を持つ、あるいは闇を抱えたではなく「雲を持つ」としている点も実に多義的。旧友だからこそ表現できる氏のパーソナリティということにもなるのでしょうか。

「ぼくがひとりで作った歌をみんなが聴けるカラフルな音楽にしてくれたのは晴茂くんです。いつもぼくの家族を心配してくれたこと、あなたのはにかんだような笑顔、あなたの冗談、あなたのやさしさ、ひたむきさ、自由さ。」と綴った曾我部氏の追悼文。あるいは氏を蝕んだアルコール依存とその戦いの歴史。

断片的な記憶を繋ぎ合わせることしかできませんが、辿り着いた先にあった「心に雲を」という一節。浮かんでは消え、時に遅々として時に早々と。澄み切った青空ではなく「雲」に焦点を当てる類稀な色彩感覚と心象風景の具象化。新生サニーデイは変わらずサニーデイのまま、それでいて着実に一歩歩み出したのでした。

Amber Mark/Love Is Stronger Than Pride/2018

ドラムにおける「カバー/リアレンジ」についてざっくり考えます。Sadeのオリジナル盤リリースからちょうど30年という節目に、繊細ながらもモダンに大胆な編曲を施したバージョンとしてリリースされました。R&B期待の新人・Amber Markは主宰目線、相当濃ゆい推しメンとなっております。とはいえまずは予備知識的に業界ざっと見のコーナーから。

つまり現代R&Bシーンの源流はSadeにあるといえる。ポジティブ/ネガティブを超えた色彩感、メジャー/マイナーを超えた無調感、アナログとデジタルの融合感。伸びやかにしなやかに。力強く優しく。そんな中Amberに新機軸を感じざるを得ない点。お世辞にも伸びやかとは言えないしゃがれ声、絶妙な音域の狭さ。少なくとも00年代にはいなかった存在。

実にライフサイズで個性的。原曲の大枠は保ちつつも程よく構成を簡略化、さすが流行の中心地マンハッタンに生まれた逸材と頷けるスポーティーな新解釈の応酬。いわゆるタム回し中心のリズムながらも流動的なノリの原曲とは対照的に、電子ビートと多重コーラスを前面に押し出した完成形に「リアレンジ」の本質を見る。クラシカルとモダンの共鳴。

「原曲超え」「オリジナルには敵わない」云々といった水掛け論は、最近こそあまり聞かれなくなりましたが。たしかに一理ある。要するに必然性を感じるか否かにかかってくるのだと推察しますね。セールストークでもリップサービスでもない、心から湧き出た「表現したい」という気持ちの延長線上にある曲だったかどうか。

パッと見の印象や流し読み感覚では決して追い切れない細かな演出やディテールにまで氏のリアレンジはとことん踏み込み、またとことん取捨選択された感がある。30年前の作品を敢えて今取り上げる意義。オリジナルではなく「カバー」することを選んだ理由。弱冠26歳にしてこの貫禄あり。まあ推しメンですからこのくらい書いても。

Billie Eilish/bad guy/2019

有吉弘行氏に言わせれば「おしょんこぽんぽん」、有線で初めて耳にした主宰のオカンに言わせれば「ラジオの故障かと」。しかしながら中身はデパート並みの品揃え。リズム的ギミックがこれでもかと凝縮されています。こういう角度からグラミー受賞曲を取り上げた文献はなぜか少ないように見受けられますので、ここは一つ気合を入れて。

冒頭、バスドラムの4つ打ちに絡み合うヴォーカル。この時点ですでに仕掛けは始まっています。つまり輪唱の状態になっている。オフビート的あるいはハーフタイム的。つまり単なる流行り音楽ではなく、古くは1940年代R&Bまで遡るリズムの歴史がしっかりと刻まれた楽曲であるという点。ここは絶対外してはならないポイントです。

指パッチン、クラップ、ハイハット。浮遊感ある上ネタやベースラインに細かく目をやっても徹底的に「裏打ち」で掛け合いされていることがわかる。「おしょんこぽんぽん」の由来ともいえる「よく聞こえない」不明瞭な音像にかき消されつい正体を見失う。ある意味、煙に巻かれた格好というわけですね。これは技あり。

2ステップの特集回の内容とも重複してきますが、複層的なリズムつまり段構造になった楽曲であるといえる。パートが進むにつれて音数を増やし、また細分化されたリズムを挟み込むことで、サビのないモーダルな進行の中にも細かな起伏を設けていく。縦ノリ的でありながらうねうねとした不思議な横揺れをも生み出す独特な音場。すべてが計算されています。

全米のティーンが狂喜乱舞した2019年の代表曲。しかしながらここまで無調の世界観が評価される時代になったというのは驚くべきことかもしれません。余談ですが、長年通い詰めている某レコード店の売り場レイアウトにも大変化。ジャズコーナーとダンスミュージックコーナーの規模感がここ10年ほどでひっくり返ってしまいました。

Foorin/パプリカ/2018

ならばこちらの楽曲も抱き合わせ販売的に取り上げざるを得ない。米津玄師。スーパーマーケットで流れるやいなや、そこらじゅうのキッズが皆歌い出すというかつてない社会現象化。こちらも同様に無調な、それでいてエスニック色が前面に押し出された楽曲。新鮮でどこか心地良い違和感をくれる要因はどこか。主観全開で考察してまいります。

結論から申し上げます、当楽曲の元ネタになっているのは久保田早紀「異邦人」です。印象的なイントロと共に強烈なマイナー進行で幕開け、中盤「空と大地が触れ合う」のフレーズを皮切りに突如メジャー進行に転じる。希望の光が見え始めた展開にすかさず「あなたに」の一節で釘を刺す。やはりマイナー進行が一番落ち着くのよねーとでも言わんばかり。

「パプリカ」の楽曲構成も同様。メジャー進行で始まった楽曲が「雨が降る風が吹く」を体現するかのようにマイナー進行に悪天候化、サビで再び晴れ間が差し込んでくる。ここから明らかだと言えそうなのは、エスニックであることと無調的であることは表裏の関係にある点。お作法的にはダンスミュージックと位置付けることもできなくはなさそうです。

強引にリズム分析の観点に繋げるならば、リズムマシーン的あるいは宅録的。あくまで楽曲の色付けは歌と上モノ主体としたところに妙があると感じます。円グラフ化した場合にリズムが占める割合はどの程度か、といったようなトータルバランス的思考がカギを握る楽曲だったと言い換えることもできそう。ややこじつけが過ぎるでしょうか。

「bad guy」と対比すれば、Billieは「リズムを複層化する」ということに大きな比重を置いた。その結果、生まれたのがあのバランス感だった。反面「パプリカ」は「メロディアスな無調感」にとことんメーターを振り切った。なにかと共通項の多い2曲ですが、決定的に違う点はおそらくここ。並べて聞くことで文脈が出てくる面白い楽曲だと思います。

Jeremy Pelt/Backroad/2010

バンドアンサンブルにおける「主導権」のあり方。マイルス「黄金クインテット」の再来とも言わしめたJeremy Peltのアルバム『Men Of Honor』1曲目を取り上げ、正解のない疑問について考えてまいります。論より証拠まずは曲を通し聞きしてみて下さい。ズバリ「主導権」を握る楽器/プレーヤーは誰だとお感じになりましたでしょうか。

主宰目線、ベーシスト故・Dwayne Burnoの空間支配力に終始圧倒されます。単に2フィールと4フィールの入れ替えに留まらず、常に先手先手を打ちながら曲が進行されていく様子がわかります。ドラマーGerald Cleaverはフリージャズの名手で、バップ色を絶妙に薄めつつDwayneのジャブにもさらりと応戦。ローピッチシンバルで推進力あるサウンドを形成。

フロント2名も曲の明暗を程よくグラデーションにするプレーが随所に。要所要所を締めるDanny Grissettのサイドマンシップにもおもわず脱帽です。特に印象的なのは、冒頭メロ2コーラス目で見せるDwayneのリズムチェンジを、Dannyがソロ中に伏線回収しテーマに戻るところでしょうか。ここもベースきっかけで構成が作り上げられており大変興味深い。

何を隠そう氏は「Backroad」の作曲者。曲の解釈/文脈に最も精通した人物であり、すべて彼のイメージの中に帰ってくる。コード楽器でありながらリズム楽器であることがひしひしと伝わる演奏スタイル。引くところは引き、チャンスと見るや一気に前に出る潔さ。他プレーヤーが氏の主戦場に引きずり込まれる様を克明に記録したテイクとも言えそうです。

同じくトランぺット奏者のRoy Hargrove「Devil Eyes」も氏の手掛けた作品ですが、やはりイニシアチブはベースにあり。自己顕示欲を満たすだけがJAZZではない、しかし周りに合わせ過ぎると個性が輝きを失う。その狭間で揺れながら堂々ど真ん中を行くこと。氏が示す「主導権」のあり方は例えばこんな風だったのかもしれません。

Mike Dirubbo/Bloomdido/2014

Charlie Parker不朽の名曲が現代に蘇る。ドラマーは主宰イチオシのRudy Royston、氏の多角的分析が可能な資料的価値抜群のアルバム『Threshold』の大トリを飾るこちらの楽曲から。ピアノはBrian Charlette、ベースはUgonna Okegwo。終始スペーシーながらも緊迫感ある音場で、JAZZの持つ音楽的魅力がふんだんに味わえます。

トラッシーな大口径シンバルをシバくことで生み出されるレガート、これだけでもう白飯何杯でもかき込めてしまうほど。強烈なドライブ感と見せつけるような2/4拍目の強調。ビートの強いそれでいてバンドアンサンブルの余白をキチンと残している、大胆さの中にどこか繊細さが垣間見えるドラミング。多分に漏れず名ドラマーの系譜、ヒョロ長メガネ。

以前書いた内容と重複するやも。タム回しやリムショット主体のリズムパターンというのは一見、ビート出しに主眼アリと捉えられがちですが実はその逆で。ビート感を消す/薄めるために用いられるケースも少なからずある。今回のケースがまさにそれです。ビート出しに見せておいて、その後のシンバルレガートが更なるビート感を纏って襲い来る。この緩急。

氏の前傾姿勢にUgonna Okegwoのオンタイム~やや後ノリの4ビートが絡み合い、推進力は維持しつつもスルスルと流れていってしまわない独特なフックの効いたサウンドに仕上がっている。少し触れるだけで崩れてしまいそうな絶妙な均衡の保ち方。AI全盛の時代、人間にしか出せないグルーヴがあることをこれでもかと証明してみせたテイクと言えます。

バンドサウンドを考える上でのあらゆる指標となり得る1曲。異なるタイム感が混ざり合うことでリズムをふくよかにできる余地があること。音をどこまで敷き詰めあるいは点在させたまま残すのかというさじ加減を知ること。先入観を捨て、あらゆる可能性を排除しない姿勢が求められていること。音楽は知れば知るほど奥が深いんだなあと。

東京ザヴィヌルバッハ/”Naked” session #1 /2006

リリース当時は菊地成孔、坪口昌恭2名体制のユニット。自動変奏シーケンスソフト「M」が生み出す予測不能なリズムに両氏の応戦、人力と打ち込みが共存するワンアンドオンリーな音場が魅力です。ゲストドラマーは当コラム二度目の登場となるHoracio Hernandez。ONKIO HAUSでの録音は、氏本来の音色をそのまま収録しており会心の出来。

収録時間、2曲40分強。アルバム『Vogue America』のセッションテープを無編集のままリリースするという手法は、往年のマイルスへの敬意を強く感じるところですね。一体どこまでが筋書き通りで、一体どこからがフリーハンドの領域なのか。素人目にはもはや判別のしようがありません。本編と聞き比べるとさらに驚きが増幅されることだと思います。

それもそのはず、セッションテープを素材の味を生かしたままスタジオ盤へと仕立て上げた過程がはっきりと見て取れます。音楽はしばしばコミュニケーションに例えられますが、まさしくその通りですね。お互いが言いたい放題ぶつけ合う場面、コールアンドレスポンスする場面、着地点を模索する場面。そのすべてが40分強の中にパッケージングされている。

主導権争いも終始熾烈、という印象。世界三大〇〇、三位一体、三段オチといった調子に絶妙なバランス感を持つ「3」人編成の妙が詰まっています。本に栞を挟み込んでいくように、曲の切れ目が随所に垣間見える様子も実に生々しく面白いところですね。限られた時間内でのセッション感というものを残しつつも、鳥の目で見る姿勢も忘れない。

ドラマー必聴盤、といったような野暮ったい論調はできるだけ避けたい所存ですが。どうしてもこのアルバムばかりは推さずにいられません。起承転結。大局観。しなやかにダイナミックに。アフロキューバンの名手が紡いだドラム解体新書とでも言い換えておきましょう。それにしてもこういうセッションテープ、いろんなドラマーで聞いてみたいものですよね。

Date Course Pentagon Royal Garden/構造Ⅰ- 現代呪術の構造/2003

菊地成孔氏繋がりでもう1曲。以前Sam Croweを取り上げた際にご紹介した「1拍5連符」あるいは5拍子と4拍子の「ポリリズム」。これらがメインストリームになるはるか前、00年代初頭に採用されていたという事実はあまりに衝撃的です。以下にバッチリ解説してまいります。ドラマーは主宰の大先輩にあたる芳垣安洋氏と、藤井信雄氏の2人。

冒頭のバスドラムに着目すればすぐに5拍子であることに気付くはず、問題は4拍子です。栗コーダーカルテットでも知られるベース栗原氏のリズムは一見するとシンコペーション巧みに奏でられた5拍子ですが。4つ塊のフレーズ毎に進行していく様子からもわかるように、つまり4拍子と捉えることもできます。なるほどよくわからん。

そもそも5拍子と4拍子が両立できるのはなぜか。お馴染みの数学的思考で紐解きましょう。一言でいえば5÷4も4÷5も「割り切れる」からです。この「割り切れる」という感覚が「ポリリズム」の理解を深化させる上では主宰目線、非常に重要だと考えています。「割り切れる」=「ポリリズム」化できると簡略化しても一応は差し支えなさそう。

発展版として、他えば7拍子と5拍子の組み合わせが挙げられます。すなわち5÷7は割り切れませんが7÷5は「割り切れる」。片一方が「割り切れる」なら主宰目線は「ポリリズム」成立とみています。あるいは7と5の「最小公倍数で割り切れる」という発想も成り立つかもしれません。拍子を小節跨ぎで大別化していく。なるほどますますわからん。

超発展版として後段を流し読みして下さい。つまり「〇拍▽連符」≒「▽拍子」ということもできる。栗原氏のベースラインは終始「5拍子」なのだという観点も、それはそれでなくはない。複層的なリズムであるがゆえ、当然ながら意味段落分けの方法というのも複数解存在しているだろうという仮説が成り立つわけです。解説になってるんだかいないんだか。

Fayray/Tiny Dancer/2005

Elton John不朽の名曲をダークにあるいはアンニュイに再構築した逸作。惜しくも日本での音楽活動は事実上の休止状態にある彼女ですが、持ち前の語学力と音楽的包容力を生かし単身アメリカに渡ってからも別名義での活動を続けておられるそうです。些か不謹慎ながらもはや消息不明のレベルでしたから長年のファンとしては一安心。

氏の内省的ながらも血の通った温かな音楽性が明確に打ち出され始めたのは2004年リリースのアルバム『HOURGLASS』あたりから。NYの気鋭ミュージシャン達を集め収録された『COVERS』は前作『光と影』からの地続きとなっている作品と言えそうです。特に当楽曲の大胆不敵なアレンジメントは、オリジナルではと見紛うほどの完成度。

スネアのクリスピーなサウンドが光る4ビート。隙間を絶妙に縫って来るベースラインとの対比。プリプロダクションの段階から得た手応えそのままレコーディングに臨んだかのような新鮮度があります。こうした「生鮮食品」的な観点というのが主宰目線、音楽には非常に重要なファクターとなり得るケースがあるのではと実感しておるところです。

テイクを重ねれば確かに完成度は高まりますが、しかし着実に鮮度が落ちてしまう。いつしか手垢のついた音楽に変わりファーストインプレッションを見失う。「ワイン」的な音楽、つまり寝かしておくことで味が出るケースもあるでしょうね。ミュージシャンがしきりに口にする「曲の基本形は数年前既に出来上がっていた」というホンマかいなというアレです。

氏がどのような基準で選曲し『COVERS』として最終形に落ち着いたのかは定かではありませんが。こと当楽曲に関してはアルバムを通して一際セッション色が強く、洗練されたラフさを感じます。「生鮮食品」的かあるいは「ワイン」的か。重要なのはその曲に適したラインをいかに見極めるのかというバイヤー的目線なのかもしれません。

Laurent Coulondre/Absolutely Not/2017

80稿目までなんとか漕ぎ着けました。part4の締め括りはフランスJAZZ界の若きホープ、アルバムタイトル『Gravity Zero』を体現した目にも留まらぬスピード感で進行する衝撃の1曲。さて何拍子でしょうか?これまでの経験則を元に分析してみましょう。拍感が釈然としない場合はどうするんでしたっけ?そう、スネアの打点に着目するんでしたよね。

するとバスドラム→スネア→バスドラム…と交互に鳴るリズムにある一定の周期があると気が付く。いわゆる「1拍5連符」的パルス。ところが一本調子で数えていると途中、尻切れトンボになる箇所あり。なるほどここが「フィルイン」の役割を果たしていると同時に意味段落の切れ目、つまりここまでで一塊のフレーズなのだと判別が付きます。

主宰目線の譜割りをまとめます。すなわち1拍5連符×8+1拍4連符の計9拍間をワンセットとしてAパート→Bパート…となだらかに進行。途中大胆な休符やシンコペーションの位置を細かく微調整することで拍感をずらしています。微積分を用いたイスラエル的アプローチ。大きなアンサンブルに見せて実はデュオ編成である点もまた衝撃的です。

強い否定や拒絶のニュアンスを持つ「absolutely not」の真意とは。考え始めるとキリがありませんが、やはりアイロニーを感じる異質な存在「1拍4連符」との相関関係を疑わずにはいられませんよね。どこか釘を刺している感覚。スルスルと流れていくだけではない、一筋縄ではいかぬ示唆的な音形変化。それを表現する絶妙なワードなのかもしれません。

part5のざっくりした展望。とはいえ入稿時はまだまだ流行り病の真っ只中。日々刻々と変化している国内情勢にも鑑み、当コラムも相応の充電期間/準備期間を頂戴したく存じます。part5を締め括ればめでたく大台に乗ることになりますが、とはいえ焦りは禁物。急いては事をし損ずる。ただ知っている単語を並べただけですが、要するにそういうことです。


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