見出し画像

「インプット/アウトプット」という言いかたがどうしても好きになれない3つの理由(眠りながら考えた(7))

演劇活動の再開の目処がたたないまま、小説ばかり書いている。

幸か不幸か『戯曲の書き方』という本は、あまりない。ところが、小説を書き出したら、世の中『小説の書き方』の指南書だらけだということに気がついた。紙の書籍でも、ウェブ上の記事でも。
それらを読んでみていろいろ気になって、もともと眠れないのにさらに眠れなくなったりしているのだけど、その中でも、とくに気になって眠れないことをもう一度書いて、今夜は寝ようと思う。

それは、「インプット/アウトプット」という言葉遣いについてだ。

あくまで「創作」という観点からなので、ビジネス関連はまた別の話だろうと思う。逆に言えば、ビジネス系の啓発本ならOKでも、同じ用語や発想を、少なくとも創作に関しては私は使いたくないなあという、これはあくまで私個人のひそかなつぶやきだ。

1.「インプット」がじんわり失礼だと思う理由。

例えば、「あなたの小説の質を高めたかったら、まずインプットの質を高めましょう!」なんていうアドバイスが、よくある。

この場合の「インプット」は、ようするに先人たちの創作物を取り入れることだ。小説、映画、詩、音楽や絵画やドキュメンタリーも。
いままで読んで観て聴いてきた、つまりは私にとって神に近い人々を、データとして、私などというちっぽけな箱に投入する、という言いかただ。

これが苦痛。すごく苦痛。

何様だよ自分、と思ってしまう。だってもう彼らの足なめたっていいくらい尊敬しているのだ。残念ながらだいたい故人なので、お墓をあばいてまでなめるわけにいかないけど。

できれば、彼らの放ってくれている光をボールのように受けとめて、投げ返す、というイメージで行きたい。
たとえ私自身は非力すぎて、返球の飛距離が短すぎて、ぽてちんだったとしても。

「インプット」という言葉には、先立つ創作物と創作者への、リスペクトと感謝がない。

2.「アウトプット」もじんわり失礼だと思う理由。

インプットが先達に対して失礼なら、アウトプットは受け手に対して失礼な気がする。

これは私がやっぱり演劇人だからかもしれない。
舞台作品を創るのは、観客の前に何かを吐き出す行為じゃないのだ。
これもキャッチボールだ。お客さまが観てくれて聴いてくれて、はじめて舞台は成立する。そこに、空気の循環が起こる。一方通行ではない。

とくに端的なのが《笑い》かもしれない。
テレビで無観客の落語なんて見ると泣きそうになる。高座の師匠たちがどれほどお辛いだろうと思う。誰もいない客席に向かって噺をするなんて、落語の歴史始まって以来のことだ、まちがいなく。

文章を書いて、読んでもらうということは、そういうパフォーマンスに比べてリアルタイムの循環ではないけれど、でもやっぱり根本は同じだと、私は思っている。
「いま」私が画面に打ち出しているこの文字たちは、数分後か、数時間後か、数日後か数年後に、「いま」読んでくれているあなたに向けて書いている。読んでくれるあなたがいなければ、この文章は存在しないも同然だ。

絶海の無人島で虹が立ったら、それは虹か? という話がある。
虹は、水蒸気と太陽光線がある条件で交わる、だけでは、成立しない。
見る人がいて、はじめて虹になる。

アウトプットという言葉には、その《受けとめてくれる人》に対する、感激と感謝がない。

3.「インプット」と「アウトプット」と合わせて失礼だと思う理由。

先達に失礼、受け手に失礼、じゃあもう一つの失礼は誰に対してかと言うと、自分に対して。
というより、《創る》という行為そのものに対して。

インプットもアウトプットも、けっきょくは電算用語だ。「データ」を「投入」して、「処理」して「排出」する。
このイメージがどうしても生理的に無理だ。

私が書くとき、私がおこなっているのは「処理」という行為なのか。

人間だから生身なんですよ。私に「投入」された何かは、私の中で「分解」され「再組織」されるだけじゃなくて、何かもっと、「発酵」とか「醸造」とか「蒸留」とか、そういうことになっているんだという、これはもう体感としかいいようのない確信があるわけですよ。

人間に機械の比喩をつかうことで、何か根本的に大切なことを軽んじているような気がしてならないわけです。

こんな深夜に、私は、何を書いているんだろう。
この言葉は、どこに、誰に、届くんだろう。

いや――

まさにそこかもしれない。
だって、機械は、誰かに届けたい!と切に願って、言葉を入れたり出したりはしないのだ。

「インプット/アウトプット」という言いかたを、やめてみたらどうだろう。

私たち、自分を機械の箱にたとえるのを、やめてみたらどうだろう。
そしたら、何が起こるだろう。

もし、やめてみたら、
私たちはもう少し、優しく、ていねいになれるんじゃないだろうか?
自分に対しても。
他人に対しても。

「失礼だ」と書いたのは、マナー違反だからやめようという意味ではない。
自分以外のすべてが「データ」「材料」に、自分が「箱」になったら、危ない。孤立する。
いま、コロナ禍で、人と人とのあいだが分断されているから、とくに危うい。ひしひしと感じる。

ふと、ジョン・ダンという詩人の詩を思い出した。シェイクスピアと同時代のイギリスの人だ。
ヘミングウェイに引用されて、さらに村上春樹に引用されたおかげで、少し有名なようだから、ご存知の人も多いかもしれない。

「人間は島ではない。自分だけで完結している人はいない。
誰もが大陸のひとかけら、大きな全体の一部だ。(「瞑想XVII」より)」

もう少し21世紀的なイメージで言うと、私は人間って、ひとりひとりが一つの脳細胞(ニューロン)のようだと感じている。
私たちはおたがいにつながり、信号を、言葉を、送り合っている。その送り合いが途絶えたとき、私たちは死ぬ。少なくとも、言葉は死ぬ。

「つながり」や「きずな」は、良いものばかりではない。中には断ち切りたいつながりも大いにある。でも、それもふくめて、人間だ。
電信的な比喩を使うなら、せめて「受信/発信」まで戻しませんか。
「インプット/アウトプット」は、やめてみませんか。

「書く」という行為に、かならず他者を想うことを、とり戻しませんか。

おまけ。人は島ではない。

ジョン・ダン、翻訳してみます。
「島ではない」という部分の前後まで見ると、たんに「みんな一人じゃないよ、孤独じゃないよ」なんていうレベルではなく、もっと深いことを言ってくれている。
ここに書かれているのは、いま私たちにいちばん必要な考えかたのような気がする。

No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main; if a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if any manor of thy friend's or of thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in mankind; and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee.

人間は島ではない。自分だけで完結している人はいない。誰もが大陸のひとかけら、大きな全体の一部だ。もし海がひとつかみの土くれを洗い流したら、その分ヨーロッパは小さくなる。岬が流されたり、きみの友やきみ自身の領地が流されたりしたら小さくなるだろう、そういうことだ。どんな人の死もぼくの存在を削る、ぼくが人類の一部だからだ。だから、人をやって「誰がために弔鐘は鳴る」などと問うな。あの鐘が鳴るのはきみのためだ。

誰かをいいように利用し、捨て、「それが何か?」という感覚。
誰かが死んでも、「それが何か?」という感覚。
それは、私自身がいいように利用され捨てられ、死んでも、「それが何か?」という世界を造るのに加担してしまっていることになる。

いつかまとめ記事に書いたけれど、やっぱり、誰かのために心を砕くことだけが、自分も生きのびられる道だと思うのだ。




この記事が参加している募集

noteの書き方

私の記事はすべて無料です。サポートも嬉しいですが、励ましのコメントはもっと嬉しいです。他の方にオススメしてくださるともっともっと嬉しいです。また読みにいらしてください。