率直に言うと、オモロく生きていきたいよ

誕生祝いにヨギボーをゲットした。使用感はめちゃくちゃよく、気に入って毎日のようにそのワインレッドの塊の中にモスッと座り、パソコンで課題をやっている。長時間座っていると身体がクッションの中にすっかり沈みこんでしまうために、起き上がる時はひとりでわー!! ぎゃ〜!! などと言いながらゲラゲラ笑って、10秒くらいかけて頑張って起き上がる。購入前にヨギボーの購入者評価を読んでいたら、一度座ると起き上がりにくいといった内容のレビューで低評価が押されているのがあったのを思い出す。ヨギボーを手に入れる前は、あーなるほどビーズクッションてそういう短所があるのかと納得していたが、起き上がる楽しさを知った今となっては、お前らみたいなのがいるせいで世の中から戦争がなくならねえんだよと思う。


私が最も責任を持つところは、私自身の生命や幸福感である。だから誕生日というものは自分自身が昨年の誕生日以来まる一年間生き延びて、さらに自分にプレゼントを買ってやろうという健康的な精神状態でいられることを盛大に祝う日だ。それと同時に、母親に感謝する日でもある。この日、二十年前、世界で一番頑張っていたのは母親だから。


地球デビューしてから二十年。なんとか行き続けてきた。惰性ではないのかと問われると、…それはそうかもしれない。旧友が「人生とは緩やかな自殺である」と言っていたが、それは受験期マジックということで、目を瞑ろう。生きているということは死んでいないということであり、人は生を望むのではなく、死にたくないので生きているに過ぎないのではないか、と思うことがある。どうせ死ぬから生きていてもしょうがないというのは、どうせ汚れるので掃除しないと言うのと似ている。つかの間の気休めでも、人は掃除をする。どうせ汚れるけど掃除する。掃除したいわけじゃない。汚れているのが嫌だから、掃除する。目的と手段の混同は時に人をも殺すかもしれない。偉い人の言うことは聞いておくものだ。


自分で進んで選びとった道について、責任を取るのは当たり前だ。そこでの責任放棄が許されてしまえば、人は個々人でわがまま放題生きて良いということになり、公共の福祉の理念に大きく反する結果をもたらすだろう。誰もが責任を持ち、時に抑圧されてもそこに正統性を見い出せるからこそ、この国で生きていくことができる。平和のための洗脳ではないかと言われると、非常に難しいところである。人は自然と規律を守る。いいえ、タブラ・ラサ。規律を守るように言われ、それに迎合していく。ジョン・スチュアート・ミル曰く、人は人に迷惑をかけなければ好き勝手に行動していい。この文言に限っては、後半の結論よりも前半の仮定の部分に重心が置かれているのは言うまでもない。共同体が成立するためには間違いなく必要不可欠な考え方だ。


私は、私自身が年齢を重ねることに、同意をした覚えはない。この世の最も根本的な不条理は時の流れであると思う。鎌倉時代にも誰かが言ったように、諸々の事物は常に繁栄してはおれず、驕れる者の行く末もそう久しくない。時間の流れのみがただ平等に我々全人類を棒のように貫き、離れてはくれない。時の流れを残酷なもののように感じる所以は、やはりそれが有限に与えられたものであることと、長期スパンで考えれば「若いうち」こそが華という思想があるからだろうか。「適齢期」とか、もうこの歳なんだからとか、年相応の、とか… まだ言われたことは一度としてないが。生殖能力などは除き、きっと時代遅れの概念となっていくことだろう。


精神年齢が高いと言われたことがある。低いと言われたことはない。盛大な勘違いだと思う。私はただ、大人っぽく聞こえるような知識をいくつか保持していて、それを適宜切り売りして披露しているだけだ。そう、精神年齢が高そうに見える知識や言葉、考えのメカニズムを持っていると思われただけ。言葉をなぞり、理解し、人に説明ができたとしても、それを実践しようと思うような「精神」を私が持っているとは限らないと、なぜ疑わないのだろう。正しく聞こえるようなことを言う人、理解する人がいたとして、その正しく聞こえるようなことを、その人が実際にやるとは限らないのだ。


歳を重ねていく中で、不必要な知識も増えた。使いたくもないような「社会を生き抜く術」とか。「身につけるべき資格や学問」とか。どうでも良かった。知っていたとしても、どうしても使う気・選び取る気にはなれない。こういう場合、普通そうするでしょ。こうしとけば上手くいくのに。効率がいいのに。どうでも良い。大抵こういった趣旨のことを言う輩は、自分は頑張って社会を生き抜こうとしているのになぜこいつはこうも自由なのだと、妬みや嫉妬を抱いているだけだと勝手に割り切るようにしている。仮にそうでなくて、本当に私のことを思って言ってくるのだとしても。はっきり言ってうるさいからだ。彼らのことが心配だからだ。自分のことだけ考えて生きていて欲しいからだ。


最近頓に、何故、私を含め皆、あれは間違いだったとか、あの時こうすれば良かったとか、人生において簡単に後悔するのだろうと考えるようになった。正解というものの定義は非常に難しいが、少なくともそれは不正解の対極にあるべきものだ。つまりは、正解も知らないうちにそれを不正解と言い切るのは如何なものか、と。生きていく上での選択において「間違えました! 後悔してます!」と声高に叫ぶことが許されるのは、パラレルワールド・トラベラーのみではなかろうか。


個人的に、私が知っている歴史上人物・死に際の豪胆さランキングを作ったことがあり、セネカは見事2位にランクインしている。セネカは「人生の短さについて」の中で、「唯一誰にも侵害されない時間。それは過去だ」と語った。過去を省みる時間、「内省」を大切にすることをセネカは力強く説き、内省する時間もないような人生を送ることは悲しいことだと言った。裏を返せばそれは「過去」というものはどんな客体にも影響されることのない、主体だけの宝物であって、その過去をどのような視点から見つめるかで、主体の心持ちは大きく変わってしまう。


この世に事実というものは存在せず、常に解釈しかない、という考え方がある。この考えに沿えば、過去という圧倒的かつ強固な「事実」なるものが音を立てて崩れ去り、考え次第で様々に変形可能な「解釈」というものが新たに屹立する。過去を岩石の如き不可変な事実の塊と思い込み、何かを後悔すること自体、ナンセンスなことなのだろう。人生における選択は、すべて正しい。こう全肯定出来る日も、きっと近い。永劫回帰の鎖の中にあったとしても、それでも私は。

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