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p.2|アラスカの人、日本の人。一緒に鯨を食べる。

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数多くの生き物がいるなかで、なぜ鯨を扱おうと思ったのか。ふりかえると、米国アラスカ州で暮らした頃の体験がきっかけだった。2006年から2010年まで、アラスカ州の大学の芸術科で学んだ。高校生の頃にアラスカの先住民芸術に興味を持ったことから留学しようと決めた。大学の先住民芸術のスタジオでは、教員も学生も先住民の血をひく人がほとんどだった。学期の終わりになると「ポトラック」という持ち寄りの食事会がひらかれ、地方の町や村にルーツを持つ教員や学生は、それぞれの故郷でとれたものや、家族・親族から送られた食べ物を持ち寄った。

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海辺に漂わせたツガの枝葉に産みつけられたニシンの卵を茹でたもの。骨髄が美味しいヘラジカのシチュー。ツンドラで集めたベリーを使ったエスキモー・アイスクリーム。鯨肉を鯨の血につけて発酵させた「ミキアック」という食べ物に、鯨の皮と脂身の「マクタック」。アザラシの脂やフーリガンという魚の油は調味油として好まれる。皆の故郷の土地で昔から食べ継がれてきた料理の数々。広大なアラスカの豊かさをあらわすように、テーブルにはさまざまな食べ物が並んだ。

反捕鯨を主張する米国の中で、アラスカ州の先住民は「先住民生存捕鯨」として鯨猟を続けている。今なお鯨を食べる先住民の人たちにとって、自分たちと同じように鯨を食べる日本人はどこか親近感を持つ存在であったようだ。「日本人なら鯨が好きでしょう?」と、私の皿には山盛りの鯨肉が取り分けられた。その共食の体験は、国同士の主張の違いや生まれ育った文化の違いを超えて、個人と個人のあいだにわかりあえる感覚がめばえるということを気づかせてくれた。その糸口となったのが、鯨だった。大海を回遊する鯨自体には国境という概念も無い。彼らに関わる人間の世界は、陸地の境とさまざまな約束ごとに縛り付けられる。そしてその違いは時に諍いの元となる。

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しかし分断の原因となるものは、逆説的に、世界を異なるかたちで結びつけていくのではないだろうか。

私が表現を続ける根元には、「他者を知りたい」という願望があるのだと思う。その手立てとして、フィールドワークに出かけ作品として発表することを続けてきた。鯨という存在を介せば、海を隔て遠く離れた土地の人たちとも物語を交換することができる。鯨とは、ある種のメディアなのだ。

この文章を書いている、2020年4月の半ば。未知のウイルスという見えない恐怖を、世界中の人たちが同時に体験している。そして知ったのは、「これまで知らなかったこと」の大きさだった。歴史の上にも世界に大きな変化をもたらした病が存在した。でもそのことを、どれだけ理解できていたのだろう。

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現在私は、今年発行予定の『ありふれたくじら』Vol.6に掲載するため、昨年訪ねた米国ニューヨーク州ロングアイランドの先住民シネコック・インディアンの人たちへのインタビューをまとめている。時代とともにめまぐるしく変化してきた、人と鯨の物語を知る人たちだ。ロングアイランドはヨーロッパからの入植者が早くから足を踏み入れた島だ。入植者たちから広まった疫病により、抗体を持たなかった多くの先住民が命を落とした歴史がある。私に話を聞かせてくれたシネコック・インディアンの女性の一人は、入植時代以前の祖先の暮らしを思いながら、「私たちの身体は清らかだった」と語った。

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一年前、ロングアイランドを訪ねた時と今とでは、彼女の言葉をまったく違う気持ちで聞いている。一度広まれば消えない、目に見えない恐怖の存在が身近なものとなり、未知の病は後戻りを許さないということが、今はよくわかる。病だけではない、入植者たちがこの土地に持ち込んだ変化はあまりに大きく、シネコック・インディアンや他の先住民の人たちが文化や伝統とした多くのものが忘れられていった。「それでも〈私たち〉は続いていく」と生きてきたシネコック・インディアンの人たちから、あらためて教わることがあると思う。

海の向こうの誰かと物語をかわすことは、他者のなかに自分と似た何かを見出すことでもある。目に見えない恐怖によって世界が分断されつつある一方で、目に見えない物語の糸を紡ぎつづけていたいと思う。





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