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嘘だろ!?部長でも月5万円の生活?part3

part2の終わりで僕が2億4千万円の仕事を受注した話をすると書きましたので、続きを書いていこうと思います。

その前にpart1はこちら
https://note.com/sakuraishowhey/n/n9c1afaec2254

part2はこちら
https://note.com/sakuraishowhey/n/n44896e97da29

実は、この仕事を頂けるなんて想像もしていませんでした。

まさに、天から降ってきたような感覚でした。

何故なら、僕自身が6年前に挫折&事業撤退を余儀なくされた時に知り合ったクライアントから、、、

ただなんとなく始めた営業職

僕は大学を浪人で入り、5流大学を卒業。

その後、音楽で食っていくことを目指していたので、フリーターへ。

その時に、ネットワークビジネス(MLM)の勧誘を受け、これは音楽の夢を実現させられるのでは?と安易に口車に乗り、当時、音楽留学をしようと貯めていた50万円を支払って、参加しました。

ただ、どんなものか?も全く分からない状況で、参加したので、あなたの想像通り、叩かれまくって、すぐにドロップアウトしてしまいました。

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結果、大学時代にアルバイトで貯めた貯金が果て、アルバイト感覚で始めた仕事が派遣社員としての営業職でした。

店頭キャッチから契約を頂く仕事だったのですが、最初は全く実績を出せずに苦戦。

しかし、負けず嫌いな性格からがむしゃらにやっていると、2ヶ月目から少しづつ実績が出せるようになってきました。

それから数ヶ月して現場のリーダーを任され、社内でトップ争いをするまでになりました。

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その後、大事なポジションを任せていただくことも出来て、実績を出し続け、部署異動になりました。

次は訪問販売。

これはリーダー職のまま10数名を率いて活動していました。

チームとしてもNO.1になり続け、その後にまた部署異動。

その後、20名ほどの組織をまとめていましたが、違和感を感じていました。

なんかつまんねー。

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常にトップに君臨していて、同じようなことを繰り返す日常がつまらなくなっていました。

なんか刺激ねーかな。

そう思っていた時に、会社として西日本事業部を立ち上げるための、福岡転勤の話を頂きます。

天狗になっていた僕が屈辱を味わう

マンネリ化して飽き飽きしていたので、結婚したばかり、子供も生まれたばかりでしたが、即OKを出しました。

訪問販売だったのですが、まあ本気でやれば何とかなるだろう。

そう信じて疑わず、信頼していた部下1名を連れて、福岡へ乗り込みました。

結果、、、僕の営業が全く通用しません。

何をどうやっても、事業を成り立たせるための売り上げをあげることが出来なかったんです。

僕は、僕の力が通用しないなんてことはあり得ないと思っていました。

しかし、事実として全く通用しません。

地域性、方言、地方独特の時代から遅れている状況。

色々な要因はありました。

けれども、それはそれ。

プロとして、営業が通用しない地点で負けです。

出来ることすべてを行いましたが何をやっても事業を成立させるビジョンすら見えない。

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こうなったら、僕は、得意であった飲み営業も駆使していこうと思い、クライアントへ入り込もうとしますが、西日本では誰も知らない会社。

しかも、実績が全く出ていなかった僕を誰も相手にしてくれません。

そんな中、唯一、僕を可愛がってくれた方がクライアントの中にたった1人だけいました。

その方は、実績がなかった僕と月に1度だけ、会食をしてくれていました。

何かを話すわけでもなく、ただ、飲んで遊んでいただけです。

でも、営業状況は変わらず、究極の選択を迫られました。

それは、、、

もういいだろ?撤退しよう。

僕は、営業の現場で通用しないのであれば、せめて人脈を繋げようと、唯一、ラストチャンスとも呼べる役職者とのアポイントへ繋げることが出来ました。

そこには、僕の会社の会長も読んで商談に行きました。

しかし、ほぼ門前払い。。。

悔しかった。本当に悔しかった。

でも、これが結果。

その帰りに会長から、もういいだろ?撤退で。

もう何とも言えない気持ちでしたが、僕が出来ることを全て行い、最後の頼みの綱が門前払い。

心もポッキリ折れた僕は、「はい」とだけ答えました。

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仕事で初めて泣いた

福岡の地に来て、事業拡大し、将来の展望を共に語っていた部下は、単身赴任から夫婦関係の仲が崩れ始めており、撤退が決まってすぐに、嫁がいる東京へ帰すことにしました。

その部下が東京へ戻る日、空港へ見送りに行きました。

「じゃ、またな!」と言った僕に、部下は、

「本当にありがとうございました」と握手を求めてきて、目を見て感謝を伝えてくれました。

部下を見送った直後、涙が止まりませんでした。

帰りの車でも号泣、家に着いてからも涙が止まらない。

自分の無力さ、情けなさ、申し訳なさ。

夢を見て、この地に連れてきたのに、僕は、結果として何もしてあげることが出来なかったんです。

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あれから6年が経ち、、、

携帯電話が鳴りました。

「ちょっと困っていることがあるんだ。東京での仕事なんだけど、助けてくれないかな。」

福岡にいた当時、唯一、僕と月に1度だけお酒を飲んでくれたクライアントからの電話でした。

あれから、僕はそのまま負けのレッテルを貼られたまま、東京に帰れず、たまたま運よく名古屋での仕事を頂き、名古屋でリベンジに成功。

その時には名古屋、大阪で80名ほどの組織を作ってノリに乗っていた時期でした。

すぐに話を伺いに行ったところ、とても大きな仕事のオファーでした。

その額、年間で2億4千万円。

当時4億近い売り上げを持っていたのですが、更に大きなオファーをいただくことが出来ました。

でも、僕はどうしても疑問に思っていたことがありました。

なので、素直に聞きました。

「何で僕に電話をくれて僕に仕事をくれたのですか?」

オファーの経緯は意外なものだった

福岡で一切、結果を残せず、撤退した僕に何故?

その答えは、

「結果は出なかったかもしれないけど、福岡で必死に頑張っていたよな。でも、キミの口からは一切、愚痴は出なかった。あの目と姿勢がすごく印象的で、可能性を感じていた」

こんな感じの返答をいただけたのです!

見てくれている人がいたんだ。と思ったと共に、すごく嬉しかった。

そして、僕はその仕事も受注することが出来て、年商で6億円にもなる部の長となった。

ここまで読んでくれたあなたは、ハッピーエンドと思っていることでしょう。

しかし、0から6億円まで作った僕ですが、あなたもこれを知ったら驚愕することでしょう。

それは、僕の年収推移です。

業界がどんどん右肩下がりになるにつれ、僕の年収も右肩下がりになっていました。

そして、この2億の仕事を受注した、僕の昇給額は、、、

これは次回、また書いていきます。

楽しみにしていてください。

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