マイライフストーリー(自己紹介・プロフィール)
こんにちは。
さーちゃんです(*^_^*)
この記事では自己紹介を兼ねて、私のライフストーリーを書き綴っていきます。
ありがたいことにこれまでの人生の中で、私はいろんな経験をさせていただきました。
小学校の教員として働いていたときもあれば、過疎地域の活性化を図る協力隊として働いた経験もあります。
あっきー(写真左)とともに、「ここいろhiroshima」という団体を立ち上げ、セクシュアルマイノリティの子どもたちの居場所づくりや啓発活動を行ったりもしています。
ここいろhiroshimaの活動では、
など、自分では想像もつかないような貴重な出来事をたくさん経験させていただき、現在もなお色々なご縁に恵まれています。
また、最近の私の人生の大きな出来事として、不思議な力に誘われて壮大な旅に出る(詳しくはこちらの記事をどうぞ)ことがあり、
今まで以上に、ありのままの自分で、自分らしく生きていくことができるようになっています(*^^*)
その一方で、過去には
これらの苦しい経験もたくさんしてきました。
現在の私を知っている方の中には、「そんな一面があったんだ」とびっくりされる方もいると思います。
自分と人との違いに悩み、「自分はひとりぼっちなのではないか」といつも不安でおびえていたこと。
「自分の本音は出してはいけない。」そう感じて、誰にも助けを求められなかったこと。
求められる役割を無意識に演じ、ありのままの自分で自分らしく生きていけず苦しんだこと。
でも、これらの苦い経験こそ私にとっての「宝物・ギフト」であり、自分らしく生きるために必要なものでした。
「自分らしさ」などこれっぽちもなく、長い間もがき苦しんだ時期を経験したからこそ、今の私は私らしく生きていくことができています。
もし、今この記事を読んでいるあなたが、
「自分も自分らしく生きていきたい」
「でも、どうしたらいいのか分からない」
「自分には、どうせ無理だ」
こんな気持ちを抱いているのであれば、ぜひ最後まで読んでみてください。
あなたにはあなただけの「あなたらしさの種」が必ずあります。
その種の力を信じて、育ててあげることで、あなたはあなたらしく生きていくことができます。
そして、その自分の種を信じて育てるときに、必要なのが「自分を信じて、ありのままに受け止めてくれる存在」です。
あなたにもあなたを信じて、ありのままに受け止めてくれる存在が必ずいます。
これは、今の私が声を大にして、あなたに伝えたい言葉です。
でも私は長年、自分のもっている「自分らしさの種」を信じてあげられませんでした。
ないものとして見て見ぬふりをし続けて、自分を苦しめていました。
自分を信じて受け止めてくれる存在なんてどこにもいないと思い、ひとりぼっちを決め込んでいました。
でも私は、自分を信じて、ありのままの私を受け止めてくれる存在とたくさん出逢い、自分の「自分らしさの種」を信じて、育ててあげられるようになりました。
そんな私の半生を、ストーリー形式でお伝えしていきますので、ぜひ最後までお楽しみください(*^^*)
人と違う家庭環境・セクシュアリティで「自分は普通じゃない」と悩み苦しむ幼少~思春期
私は、3人兄弟の末っ子として生まれ、小さいころは家族みんなから可愛がられて育ちました。
外遊び大好き!運動会ではリレー選手!って感じで、体を動かすのが大好きな子。
だけど、内面はめちゃくちゃ恥ずかしがり屋で、泣き虫口ベタ野郎という超小心者(笑)
写真撮られるの大っ嫌い。
かわいい着ぐるみのキャラクターにビビッて大泣き。
人前に立って発表しようものなら、涙が止まらなくなって発表できなくなるような超ナイーブな子でした。
今思えばこの頃から人からの視線に敏感で、不安を強く感じやすかったのだと思います。
小学校の2、3年生ぐらいから、
「人はなんで生きてるんだろう」
「人は死んだらどうなるんだろう」
とかっていう「哲学タイム」が始まって、授業中はほとんど上の空。
というのも、この頃から兄の調子が崩れ始め、家庭の様子も変化していて。
突然、夜中に家を飛び出していなくなる兄。
ふさぎ込んでると思ったら、突然ハイテンションになったり。
兄は、学校でも目立ち始め、同級生から「変わっている」と言われ始めていました。
「お前、○○の妹だよな」
という言葉をかけられるのが嫌で、怖くて、
優しくて大好きな兄なのに、
「なんでうちの兄ちゃんはこんなに変なんだろうか」
「一緒にいるところを見られたくない」
心の奥ではそんな風に思っていましたし、そういう風に思う自分はいけないんだと思ってました。
私の兄は小学生のうちに「双極性障害(躁うつ病)」と診断され、一生付き合わないといけない精神的な波をもっています。
(今は発達障害の傾向があることも分かってきました)
躁状態のときの、人が変わったかのように暴れ狂う兄。
その兄を針金で縛りつけて抑える父。
突然、家中が大災害に巻き込まれたかのように物が壊れ、家はまるで廃墟のように穴だらけ。
何度元に戻しても、また波が来れば一瞬で壊れていく。
鬱状態の兄の自殺未遂の現場を目撃したり。
母と父、祖母が兄のことで言い争ったり、かと思えば、お通夜のようになっていたり。
家にある全ての扉・窓に南京錠がかけられ、警察や知らない大人が家にやってくる。
その中で、息をひそめて寝食する日々。
当時の私は、
「この家は何か変だ、普通じゃない。」
「この家のことを誰かに知られてはいけない。」
「隠さないと。ばれないようにしないと。」
そう感じていました。
同級生の家に遊びに行くと、当たり前に家が整っていて、兄弟と一緒にゲームをして遊んだり、他愛もないやりとりをする光景を目にしていたのですが、
「ここでは安心してゲームができたり、おやつが食べられるんだ」
「兄弟とこんな風にして遊んだりケンカしたりするんだ」
「我が家には、こんな空間や時間はない」
友達の家庭と自分の家庭を比較し、我が家はおかしいんだと気づいたと同時に「自分の家は変で恥ずかしいんだ。これは知られてはいけないんだ。」と思いました。
兄は精神病棟に入退院を繰り返していたのですが、そんなことは友達に言えるわけもなく。
「兄ちゃん?今いないんよ〜」
そんな風にやんわりとごまかすしかありませんでした。
この頃は、授業の内容なんかよりも「自分の生き死に」の方が私には差し迫ったテーマで。
幼い私にとって家庭環境と生死は切っても切れないもの。
今晩は落ち着いてご飯が食べられるのか…
この漠然とした不安感はいつまで続くのか…
どうして自分はこんなに苦しいのか…
どうしてこの家に生まれてきたのか…
無意識にそんなことばかりが頭をよぎる学校生活でした。
また、兄で手一杯な両親を見ていたため、
自分はどうせかまってもらえない
自分まで兄のように振る舞ったら両親がもっと大変になる
自分は『いい子』にしていないといけない
そんな気持ちで、とにかく両親や兄の様子をいつも伺い、『いい子』の仮面をつけて気持ちを抑え込んでいました。
さらに高学年に上がった頃から、自分のセクシュアリティについても「人との違い」が明確になってきます。
私は幼いころから、女の子が気になっていました。
でも、幼いころは特にそういう話をすることもなかったので、自分と周りとの違いを強く意識することもありませんでした。
でも高学年になり、女子と男子に分かれて遊び、恋愛の話が盛んになってきたタイミングで、
「さーちゃんは好きな人いるの?」
「どんな男の子がタイプなの?」
「ねえねえ、教えてよ!」
そんな風に自分の恋愛事情を聞かれることが増えました。
「好きな人いる?」って『男の子』のこと…?
自分は『好きな女の子』がいるんだけど…
好きな男の子のタイプなんてないよ…
「○○ちゃんが好き!」って言ったらどうなるんだろう…
好きな人、教えたくても言えないよ…
ここで周りの女の子と自分の違いをはっきりと感じ始めます。
女の子のグループづきあいのルールもよく分からなかったので、ハブにされたり、いじめられたり。
この頃は、「周りの女の子たちみたいにできない自分がおかしいのかなあ」と思ってました。
中学に上がってからは、小学校のときよりもはっきりと、女の子が気になりだす私。
ただ当時は、『男女の恋愛』が普通だと思っていたので、
これは『友達』としての好き?
それとも『恋愛感情』??
もし『恋愛感情』だったら自分は『おかしい人』なんじゃないか?
この悩みが誰かにばれたらどうしよう…
今のように『LGBT』や『セクシュアルマイノリティ』という言葉もまだ普及していなかったので、女性に恋愛感情をもつことは、変、異常、いけないことだと思い込んでました。
高校生になって、周りの子たちに合わせて男の子と付き合ってみるも、全然ドキドキしないし楽しくない。
それどころか、めちゃくちゃ好きな女の子ができて、「やっぱり自分は女の子が好きなんだ!!」とはっきり自覚する始末。
兄の状態や家庭環境も、年が上がるにつれてどんどん悪化していき、
私は『普通じゃない家庭環境』と『普通じゃないセクシュアリティ』という2つの隠さなければならないものを抱えて、
「自分は人と違うのかもしれない」という思いをどんどん強くしていきました。
中高生時代は、とにかく自分の恋愛事情を聞かれないように、家庭環境の不自然さが漏れ出さないように、『面白くて元気な子』というキャラで乗り切ろうと必死。
いつもお茶らけて、騒いで周りを盛り上げて、恋愛や家庭など込み入った話を振られないように身を守る。
先生たちにも『問題のない普通の生徒』に見えるよう、勉強や部活も問題なくこなしていきました。
「誰かに相談する」という選択肢は自分のことを話す必要があるため、当時の私にとってそれはとんでもなく高いハードル。
家のことも、セクシュアリティのことも、話したらどうなるのか分からない。
きっと今まで通りには、過ごせなくなる。
変な目で見られたり、噂されたり、心配されたりしたくない。
相手に自分のことを分かってもらえるとも思えない。
怖い。言えない。
仲のいい友達や大好きな先生、家族など、今思えば当時も悩みを受け止めてくれる人はたくさんいたのですが、その時の私にはその人たちを信じる勇気がありませんでした。
「自分の本音は出してはいけない。」
とにかく自分のことがバレるのが怖くて、自分1人で必死にその場をしのぎ、いつも切羽詰まっていて。
友達はまんべんなく誰とでも仲良くしていたと思うのですが、
どれだけ楽しく友達と話したり、一緒にばか騒ぎしたりしても、
心の中はいつも不安で、ひとりぼっちのような気持ちでいっぱいでした。
「この世界は危ない場所だ。自分で身を守るしかないんだ。」
そんな風に世界のことをとらえて、家のこともセクシュアリティのことも誰にも言わず、1人で抱え込み続けていました。
危険に満ちていた幼少期から思春期の頃、私の救いになっていたのが『自然』・『本』・『祖母』でした。
小学校から帰ったら、友達と家の近くの山や川に飛び出して、暗くなるまで思いっきり遊ぶ。
秘密基地をつくったり、川の小島に上陸したり、些細なことも当時は大冒険!
中高生になっても、不安が大きくなったときは1人で山・川に行き、ぼーっと景色を眺めて過ごす。
自然の中にいるときは、不思議と普段感じてる不安感や悩みを忘れられ、安心してそこにいられました。
本は自分の知らない世界へたくさん連れていってくれました。
登場人物と一緒に旅をしたり、人生の先輩に自分が知らないことを教えてもらったり、この世界のしくみと不思議を垣間見たり。
本を読んでいる間も、私は日常の不安感を忘れられて、安心して本の世界に没頭できました。
また兄で手一杯な両親に変わって、一緒に暮らしていた祖母がいつも私の事を気にかけてくれていました。
「たくさん遊んできたんじゃね!いいこと!今日は何したの?」
「さくらさんは今どんな本を読んでるの?」
「ばあちゃんは、こう思うよ。さくらさんはどう思う?」
そうやって、私の遊びや本に興味をもって聞いてくれたり、いつも対等に話をしてくれました。
ばあちゃんと一緒にいるときは、私は家でも安心できました。
この『自然』・『本』・『祖母』という心のよりどころに受け止めてもらうことで、何とか私は大学生になるまでやってこれました。
「人と違ってても大丈夫かも」「自分らしく生きていってもいいのかも」と思えた大学生活、でも…
私の両親と祖父は教師、叔母も保育士という教育一家で育った私は、幼いときから「自分も先生になるんだろうな」となんとなく思ってて。
先生の校種の中でも「小学校」に興味がわき、「小学校の先生になろう」と県内の大学に進学が決定。
この大学時代は私の最初の転機になりました。
自分が本当に着たい服・好みの髪型で過ごせる。
「やりたい」と思ったことを応援してくれる友達がいる。
生まれて初めて彼女ができる。
自分に本気でぶつかってくれる人に出会う。
最初は教員免許を取るためだけに来たような大学だったのですが、
「さーちゃんのそういうところ好きだよ」
「あなたはあなたのままでいいんだよ」
と、ありのままの私を受け止めてくれる人間関係に恵まれて、今まで隠していた自分の姿を少しずつ出せるようになりました。
男の子のような服装・髪型をしても、誰も何も言わない。
むしろ「かっこいい!似合ってる!」と言ってくれる。
女性アイドルが好きだったり、恋愛事情を全然を話さなくても、その場にいられる。
大学祭で男装コンテストというイベントがあったんですが、それに出てみたいとドキドキしながら友だちに伝えると、
「いいじゃん!私もでる!」と言ってくれて、一緒に楽しい思い出が作れたり。
すごく些細なことでも「受け止めてもらえた」と感じられた私は、「人と違ってても大丈夫なのかも」と思えるようになり、安心して大学に行けました。
特に、生まれてはじめてできた彼女とアルバイト先の店長は、二人ともまっすぐに私と向き合い、受け止めてくれました。
彼女とケンカしたり、店長に怒られたりしながら、
「自分の本音をだしても大丈夫なんだ」
「本気でぶつかってもらうって嬉しいんだ」
「この人は自分のこと、本当に信じてくれている」
と実感する私。
彼女には自分の過去の恋愛や家庭事情を素直に話せたし、店長から仕事や遊び、人生についてなど色んなことを教えてもらい、私の世界がどんどん広がっていきました。
こんな風にして大学時代は、自分を信じて受け止めてくれる存在にたくさん出逢え、少しずつですが「自分らしさ」や「安心感」を感じることができるように。
でも、心の奥深くでは、
やっぱり人と違うことはいけないんじゃないか…
「普通じゃない自分」は普通には生きられないんじゃないか…
先生という「スタンダードを求められる職」が自分に務まるのか…
この先の自分の人生どうなるんだろうか…
こんな風に悩んでいました。
自分のことを信じて、ありのまま受け止めてくれる人ができた大学時代でさえ、私は「自分の生き方」に関する悩みは誰にも言えず、1人で抱えていました。
信頼していた友人にも、彼女にも、店長や恩師にも言えず、
周りがどんどん就職先や進路を決めていく焦り
「このままの自分でいいんだよ!」「いや、ダメだよ!」という心の中の葛藤
本当に先生になりたいのかも分からなくなって途方に暮れる
モヤモヤした気持ちで胸がいっぱいでした。
でも、私の中で、一番怖かったのは、
「普通」という枠からはみ出してしまう恐怖
でした。
私が大学生の頃は、卒業と同時に就職するのが一般的だったので、当時の私はその流れに乗れないと「普通じゃない人/ダメなやつ」として見られるんじゃないかと恐れてました。
とにかく「普通」の枠の中にいたかった私は、すごく不安な気持ちのまま教員採用試験を受験。
先生になりたいとは思っていたのですが、それ以上に
先生としてうまくやっていけるんだろうか
家庭やセクシュアリティのことがばれたらどうなるんだろう
社会に出るのが怖い
という、不安感と恐怖の方が強く、
無事試験に合格して、なりたかった「小学校の先生」になることが決まった瞬間、
「どうしよう…」
「受かっちゃった…」
「本当に先生になってしまうんだ…」
という本音がこぼれました。
そのまま私はめちゃくちゃ不安な気持ちを抱えて、小学校の先生として社会人デビューをします。
消耗し続け、1人で抱え込み続け、うつになった教員時代
私は、小学校の先生になる前から「教職は多忙で激務」であると聞かされてきて、ある程度の心構えはありました。
ただ、どれだけ多忙で激務でも、
子どもたちの成長に関わりたい。
子どもたちの心と触れ合いたい。
そのために、創意工夫をして授業づくりやクラス運営をしたい。
という想いを持ち続けて、仕事に向き合おうとしていました。
しかし、いざ働いてみると、
想像以上に、窮屈で、余裕のない状況が広がっている現実にぶち当たる私。
毎日、持ち帰り仕事があるのは当たり前。
校務分掌、学校行事の準備や学年の仕事、アンケート調査、その他もろもろ…
大量の仕事に追われ、気が付いたら自分のクラスの丸付けをする間もなく1日が終わる。
学校でも家でも仕事をして、なんとか次の日の仕事が回っていく感じで、「子どもの成長」や「心の触れ合い」、「創意工夫」なんて夢のまた夢のような状態でした。
とにかく目の前のやらなければならない仕事を、ひたすらにこなしていくだけで、毎日が過ぎていき、みるみる消耗していきました。
気が付くと心にも余裕がなくなって、子どもたちと話をしたり、外で遊んだりする気力もない状態に。
「先生ともっと遊びたい」
という子どもの素直な声を聞くたびに、
自分は何のためにここにいるんだ?
子どもたちと思いっきり遊んだり、話をしたりしたかったんじゃないの?
何してんの、自分。
そこには「自分らしさ」のかけらもなく、子どもたちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいの私がいました。
また、教員の働き方や仕事の進め方にも違和感がたくさん出てきて、
なんか学校現場っておかしくないか…
なんでこんなに先生たちに余裕がないんだ…
目の前の子どもたちのことより、他のことを優先してばっかり…
学校って子どもたちを均一にそろえていくための場なの…?
自分が望んでた教育ってこれだったの…?
例を上げればキリがないほど、職場や教育方法に違和感を抱きはじめていました。
毎日こなしきれないほどの業務量で消耗するとともに、仕事に対する違和感が募っていくうちに、
忙しすぎる…
はやく帰りたい…
学校に行きたくない…
もう、無理!!仕事したくない!!
こんなSOSの気持ちが出た時点で、誰か1人にでも相談できていたら良かったのですが、当時の私は「助けて」が言えませんでした。
私は長年「問題のない普通の子」として振る舞ってきたため、
モヤモヤして悩んでいても、
「大丈夫です!」
本当は困っていても、
「大丈夫です!」
喉から手が出るほど助けてほしいのに、
「大丈夫です!」
とにかくいつでも「大丈夫です!」と言って、問題のないふりをして1人でどうにかしてました。
社会人になるまではそれでなんとかなっていましたが、誰にも頼らず先生の仕事ができるわけもなく、周りの先生もたくさん手を差し伸べてくださいました。
それでも私は、「人に頼ってはいけない」「自分でなんとかしないと」「問題がない状態でいないと」という気持ちが拭えず、差し伸べられた手も素直に受けとれないまま1人で抱え込みました。
そんな余裕のない状態でまともにクラス運営もできるわけがなく、クラスはどんどん荒れていき、崩壊寸前。
そんな状態になっても、
これ以上、他の先生たちには迷惑かけられない。
周りの人も同じ条件でやってるんだ。
自分だけ甘えられない。
自分の努力がまだまだ足りないだけだ。やるしかない。
自分にハッパをかけて、一生懸命仕事をし続けました。
でも、何かうまくいかないことがあると、
なんで自分はこんなミスするんだろう…
他の先生たちはみんなすごいできてる…
自分なんて全然ダメだ…
結局ミスする自分がいけないんじゃん…
こんな自分なんていなきゃいいのに…
そんな風に、人と同じようにできない自分を責め続け、存在さえも否定していました。
追い込まれていくほどに、自己否定の究極である「自死」も脳裏にちらつきはじめ。
ベランダから飛び降りようとしたり、通勤中に何度も「事故に合って消えてしまいたい」と願ったり。
消耗し続け、1人で抱え込み続け、自己否定の塊状態になりながらも、必死に働き続ける日々が続き…
小学校の先生になって3年目の秋。
ついに朝ベットから動けなくなり、「休職」を余儀なくされました。
診断名は「適応障害、うつ状態」
当時は、体が常に緊張状態で、文字や人の声が頭に入ってこなくなるといった身体症状と一緒に、
仕事をやらねばならない
周りに合わせねばならない
やらないと、やらないと、やばいやばいやばい…
といった強迫感を常に感じていました。
でも、本心では、
「自分はもうだめだ」
「何もできないし、何もしたくない」
「とにかく休みたい」
とずっと叫んでいました。
ここまでの極限状態になって、私はやっと体と心が出していたSOSに素直に従えるようになります。
そして、この人生の大ピンチだった休職期間こそ、私の人生のターニングポイントになるのです。
人生の転換期「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」
休職に入ってからは、ひたすらに体と心を休めて、自分の中にあった「違和感」・「生きづらさ」と向き合いました。
そのとき出逢った質問ワークの力も借りながら、私は心の中にため込んた気持ちをとにかくノートに書き出し、自分の本音を出し続けました。
そのとき、自分の心の深い部分から出てきたのは、
「両親に自分の気持ちを伝えたい」
「もう自分に嘘ついて生きたくない」
この2つは、私がずっと見て見ぬ振りをし続けてきた心の叫びでした。
普通のふりをし続けて、いい子を演じ続けて、できる先生になろうと必死にもがき続けて。
でも、私が心の奥底で本当に望んでいたのは「普通」や「いい子」や「できる先生」になることではなく、ただ両親にありのままの自分を受け止めてほしい。
それだけでした。
女の子が好きな自分、人と違う部分をもつ自分を受け止めてほしい。
小さい頃からさみしかった、もっと一緒にいたかった気持ちを受け止めてほしい。
「さーちゃん大好きだよ」ってまるごと自分を受け止めてほしい。
でも、私はこの本音をずっと見て見ぬ振りをして、自分に嘘をつき続けていました。
ありのままの自分の姿を見せたら両親から嫌われるんじゃないか…
本音を伝えたら両親が傷つくかもしれない…
そう思って、ずっとありのままの自分や本音を出すことを避けてきました。
でも、それらの恐怖と同じだけ、
自分の本音を出したい。
ありのままの自分で生きたい。
自分に正直に、自分らしい人生を歩みたい。
という本当の願い・想いも私はもっていました。
自分の本当の願い・想いを自覚した私は、両親に今まで隠していた自分の本音を伝えることを決意。
受け止めてもらえるかどうかは、全く分かりませんでした。
でも、どんな結果でも、両親に伝えたい。
私は何が起きるか分からないけど、もう何が起きてもいいと思って、その場を信じて委ねました。
私はありったけの勇気を振り絞り、
まずは、女の子が好きなことをカミングアウト。
心臓が止まるかと思うほど緊張し、涙が勝手に出てきました。
両親は私のカミングアウトを受け止めてくれて、「高校生ぐらいからなんとなく気付いてたよ」と伝えてくれました。
そうなんだ…受け止めてくれてたんだ…
両親の気持ちを知っただけでとても安心したのですが、「さみしかった・一緒にいたかった気持ち」はなかなか言えず。
私の話が終わったのかと思った両親は、休職期間のことや私の今後の仕事のことについて話し、その場から離れようとしました。
違う、まだ終わってない…
仕事の話がしたいんじゃない…
そんな言葉が聞きたいんじゃない…
私の中でぐううううううっと気持ちがこみ上げてきて、飛び出したのが、
「一緒にいてよ!!!!!」
私は小さい子のように泣きながら、叫んでました。
心の奥にずっと隠していた、ひとりぼっちで泣いている自分をさらけ出した私。
その姿を見た瞬間、
両親はぎゅーっと抱きしめてくれて「さーちゃん、ごめんね」と謝って全身で受け止めてくれました。
そして、そのまま親子3人で泣きながら、抱き合いながら、眠りにつきました。
この体験こそ、私の人生の最大の転機。
ああ、私はちゃんと受け止めてもらえた。
両親にずっとしてほしかったことを叶えてもらえた。
やっと「本当の家族」になれた。
自分はもう大丈夫だ。
心の底からそう思えました。
私は、何が起きるか分からない場を信頼し、両親に隠してきた本当の自分をさらけ出したことで、ありのまま丸ごと受け止めてもらえました。
この出来事から、私は心の底から「安心感」を感じ、「自分らしく生きたい」という本音をどんどん解放できるように。
両親へのカミングアウト後、私は人が変わったかのように行動しまくります。
休職中にもかかわらず、芸能事務所のオーディションを受けたり、公にカミングアウトをしたり、東南アジアをバックパック1つで旅をしたり。
今思えばかなりぶっ飛んでいましたが、とにかくそのとき「やってみたい!」と思ったことは全部やりました。
自分の本音を解放していけばいくほど、私はどんどん自分らしく変化し、人生も大きく好転。
休職中に出逢ったあっきーと一緒に「ここいろhiroshima」を立ち上げ、居場所づくりを始めると、信じられないスピードで活動が広がってびっくり!!
講演会、出張授業、メディア取材、ラジオ番組、トークショー…
こんなことを自分たちがやるなんて思ってもみなかったものが、どんどん舞い込みました。
過去の自分たちのように悩んでいる子どもたちともたくさん出逢い、毎月の居場所づくりを楽しみにしてくれる人々とのつながり・絆もできました。
「人と違うところもあなたの魅力なんだよ」
「あなたはひとりじゃないよ、味方が必ずいるよ」
「自分らしく生きていいんだよ」
ここいろの活動を通じて、自分が心から伝えたいことを表現できる喜びを私は噛みしめました。
また休職後、私は教員を退職し「地域おこし協力隊」になりました。
子どもたちが自然の力や体験活動を通じて学べる場が作りたい。
そういう私の想いが実現できそうな地域プロジェクトに携わりながら、子どもたちの自然体験活動を企画したり、放課後の支援を行う日々がスタート。
先生の時と違い、協力隊は自分でプロジェクトを主体的に動かせて、スケジュールも柔軟に決められる働き方で、私の性分にぴったりでした。
「さーちゃん遊ぼう!」
という地域の子どもたちの声にも全力で応えられ、思いっきり遊んでフラットに話ができる関係に。
自分は子どもたちとこういう関わり方がしたかったんだよ…!
対等に、同じ目線で、一緒に楽しむ仲間になれた…!
私は、ここいろでも地域おこし協力隊でも、やりがいを感じ「自分らしい人生」を歩み始められました。
ところが、ここでハッピーエンドにはならないのです…
自分らしく生き始めたはすだったのに、繰り返される「1人で抱え込む症候群」
ここいろも協力隊の活動も充実して、順風満帆に「自分らしい人生」を歩み始めた私。
ただ、ここいろ3年目、協力隊も3年目で任期を満了する時期が迫ってきてから、私に異変が起こり始めます。
というのも、ここいろをスタートした年に協力隊活動もスタートし、同時並行で活動していたのですが、
ここいろの爆速的に広がっていく活動状況と、協力隊として新しい環境・人間関係へ飛び込んで活動する状況が相まって、3年間のうちに私はじわじわとエネルギーを消耗していました。
私の住む神石高原町は広島県でもめちゃくちゃ秘境。
講演会やここいろの活動先に行けば、車で往復4時間以上の移動が常。
人権月間などは、月に10件を超える講演の依頼が入り、かなりのハイペースで移動と講演を繰り返していました。
活動が広がるごとに、周りから求められることも一気増えていきましたが、応えられる限り全ての要望に全力で応えて活動を続けていました。
協力隊の活動は、田舎暮らしや地域の人に慣れることから始まり、信頼関係作りとして、色んな行事の手伝いや集まりに参加。
はじめましての人ばかりの環境で、はじめての活動の連続。
自分の企画するイベントの実施はもちろん、地域の頼まれごともどんどん引き受けて、人間関係を構築していく日々。
なかなか自分の想いややりたいことを地域の人に理解してもらえず、もどかしい想いもしました。
気が付くとスケジュール帳が「ここいろ」と「地域活動」ばかりになっていて、私は知らぬ間にハードワーカーに。
どれだけ楽しいと思ってやっていたことも、一気に大量にやると疲れます。
急激な変化やプレッシャーを感じると、人間はストレスを感じます。
私は、その疲れやストレスに蓋をしたまま、全力で3年間走り続け。
求められたことに全力で応え続け。
その反動が私の心に出始めるようになりました。
それは、ここいろの活動でも地域活動も、自分でも不思議なほど「やらされてる感」が出てきたのです。
依頼されたからやっている。
地域の人が求めているからやっている。
自分は別にやりたくない。
そんな風に感じるようになってました。
そのときの私は「自分がやりたい」と思ってはじめた初心が思い出せないほど体力・気力ともに消耗し、外側から求められる役割をただこなしているような感覚に。
今思えばこの「やらされてる感」は、心が「頑張りすぎだよ」「自分のために休みなよ」とSOSを出してくれていたのだと思います。
でも、当時の私は「頼まれごと」を断れませんでしたし、「自主的に休む」のも下手くそでした。
『ここいろのさーちゃん』
『地域おこし協力隊のさーちゃん』
この2つの肩書き・役割に自分ががんじがらめになって、
人から求められたことをしないといけない
求められたことをしないとここにはいられない
人から求められていないことはやってはいけない
そんな風に「他人から求められている自分」でい続けようとして、受け身で客体性の強い状態にハマり、自分で自分を苦しめていました。
「休まず求められていることに応えている自分」だから、みんな受け入れてくれている。
これをやめたらここにいられなくなる。
無意識レベルで、当時の私は本気でそう思い込んでいました。
子どもの頃に「いい子」、「面白くて元気な子」という役割で無意識に身を守って安心を担保してた癖が、大人になってもついて回り、「役割をやめたら自分の存在がおびやかされる」と無意識に感じてました。
当時の私は、食傷気味でノイローゼ状態になっていたので、ほんの少しの頼まれごとでも、
今の自分にはできないよ…
私にばっかり頼まないで…
もう期待や求められてることに応えるのしんどい…
そんな思考のループにハマって、人に心を配る余裕もなくなりました。
あんなに楽しかったここいろの活動も地域の活動も、やればやるほど消耗感でいっぱいに。
そんな私の様子をみて、ここいろの業務をあっきーが全部引き受けてくれました。
そのあっきーの優しさに触れる度に、
申し訳ない…心配かけてる…情けない…
あっきーに自分はどう思われてるんだろうか…
あきれられてるんじゃないかな…
そうだったらどうしよう、怖い…
そんな風に大好きなあっきーのことさえもまっすぐ見れなくなり、人が自分のことをどう思っているのかが気になって、人と接するのも怖くなりました。
また協力隊は任期が3年と決まっており、任期後の自分の仕事について考えないといけなかったのですが、そんな余力は当時の私はありません。
そんな私を心配した地域の方たちは、
「小学校の先生の免許あるんじゃろ?非常勤講師すればええが!」
「寮母さんに空きがでたらしいで!時給もええぞ!募集してみ!」
「スクールバスの運転手はどうや?話つなげてやるぞ!」
「この仕事内容でこの金額はどうだ?悪い話じゃないぞ!」
優しさからいろんなお仕事の話をもってきてくださるのですが、
「どうしよう…全然興味がもてない…」
「でも、このまま仕事がなかったら、やらないといけなくなるのかも…」
精神的なエネルギー不足から、「お金」がなくなることへの恐怖まで感じるようになり、精神的にも物理的にも追い込まれます。
この時の私には、家族、あっきー、地域の人をはじめ、自分のことを受け止めてくれる人がたくさんいました。
でも、その時の私は、幼い頃からある「1人で抱え込む」というお決まりのパターンで自分の身を守ろうとして、自分の気持ちが出せなくなっていて。
ありのままの自分を受け止めてくれる人とのつながりを感じられなくなり、
この世界自体も信じられなくなり、
「この世界は危ない場所だ。自分で身を守るしかないんだ。」
そう感じて幼い頃と同じよう、無意識にひとりぼっちで戦おうとしていました。
ここに追い打ちをかけるように、そのとき受けていた研修のハードな課題で、極限状態に追い込まれ。
挙げ句の果てには、任期最後の子どもたちに関わる大きなプロジェクトが、私の想いとは違う方向へ進んでいき、大爆発。
残りわずかのエネルギーを振り絞って、地域の方に自分の想いを伝えても「今更言っても変えられん」と言われ、そのままプロジェクトは完遂。
地域の子どもたちは喜んでくれましたが、そのときの私は、
もう無理だ。
とにかく休みたい。
こんな状態じゃ、何もできない。
私は、協力隊任期を終了すると同時に無職になり、人生で2度目の休職期間に入りました。
2度目の休職期間で再び「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」
人生2度目の休職期間。
教員時代の休職もでしたが、私にとって「休む」ということは、人生を変える大きなきっかけをくれます。
今回の休職も人生の大きな転換期に。
↑この記事に休職してた時に起きた出来事を詳しくまとめているので、ぜひ読んでいただきたいのですが、
今回、改めて「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」ことをパワフルさを感じました。
というのも、今回の2か月の休職期間、そして私が人生をかけてやってきたことは、「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」だけなんです。
まずは、自分で自分の本音を出して、それをそのまま受け止める。
「やりたい」と思ったら、何が起こるか分からなくても、その場を信頼して飛び込んでみる。
仲間や家族、地域の人を信じて、自分の本音、ありのままの自分をさらけ出し、それをそのまま受け止めてもらう。
子ども時代の自然や祖母とのやりとり、大学時代の彼女や店長との付き合い、そして休職中の両親へのカミングアウトも、全て「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」でした。
今回の休職期間も、ひたすらそういうことを繰り返していく中で、
こんな風に、短期間の間に自分の想像を超えるような変化が起きました。
あれだけ強く感じていた「やらされてる感」もなくなり、主体的に「自分がどうしたいか」で再び動けるように。
ここいろも地域での活動も「自分が心からやりたいこと」だと思い出した私。
「自分のことを求めてくれる人がいるなら、全力で応えたい。」
休職中に大事な人たちと向き合うことで、主体的に「求められることに応える」ことにも覚悟が決まりました。
私にとって、「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」ということは自分らしく生きていくために必要不可欠な通過儀礼。
不安が募るたびに、
「この世界は危ない」と感じるたびに、
誰ともつながりを感じられず「自分はひとりぼっちだ」と思うたびに、
「信頼して、ありのままの自分をさらけ出し、受け止めてもらう」
そうすることで、私は、
不安が「安心感」に変化し、
「この世界は安全で自分は守られている」と感じられ、
「自分は1人じゃない、たくさんの存在とつながっている」と思える。
そんな風に世界が180°ひっくり返って見えるようになることに気づかされました。
「誰もが安心してその人らしく生きていける世界」をつくるために、私は世界を信頼し、ありのままの自分をさらけ出し続け、受け止める存在になる。
私の中にあるたった1つ願いは、
「その人がよりその人らしくなること」
私は、その人の命がもつ、色、輝き、エネルギーが、表現されたがっているように表現されて「その人の命がほとばしる姿」が見たいんです。
その命に備わっているものが全て出し尽くされ、命を全うする姿。
それはきっと、生きる苦しみとよころびをかみしめながらその人だけの輝きを放つ生き方なのだと思います。
私、「火」が大好きなんですが、火をつくる上で、1番大切なのは火の中心にある「熾火(おきび)」。
この「熾火(おきび)」さえあれば、どれだけ雨が降っても、暴風が吹いても、火を起こすことができます。
そして、全ての命あるものの中心にはこの「熾火(おきび)」があると私は思っていて。
命の熾火は「その命がそのようになろうとする力」、「自分らしい人生を歩む力」そのものであり、どれだけ見えづらくても必ず存在しています。
そして、その命の熾火の力を信じて、育てていくことで、どの命も自分の命のもてる力を出し切ることができ、真の幸福、よろこびを感じられると私は信じています。
私はずっとずっとこの世界のことが信じられなかった。
私はずっとずっとありのままの自分を隠し続けてきた。
私はずっとずっとひとりぼっちだと思い込んで、ありのままを受け止めてもらうことを恐れていた。
そんな私だからこそ、世界を信頼すること、ありのままの自分をさらけ出すこと、ありのままを受け止めてもらうことのパワフルさを知ることができました。
そして、そのパワーは自分や大事な存在の命の熾火を守り育むことのできるものだと知りました。
だから私は、この世界を信頼して、ありのままの自分をさらけ出し続け、受け止める存在になりたい。
そうすることで、自分の命の熾火も、大事な存在の命の熾火も、守りともに育んで、命を全うしたい。
そして、もう1つ。
私の人生にはいつだって受け止めてくれる存在がいました。
その時は全く気づけなかったのですが、振り返るといつだって私には
「あなたはあなたのままでいいんだよ」
「私はあなたの味方だよ」
「あなたはひとりじゃないよ」
そうやってありのままの私を受け止めてくれる存在がいました。
祖母、故郷の野山、本、友人や先生、大学時代の彼女や店長、あっきーやここいろで出会った人たち、地域の人…
両親だって、カミングアウトする前から、私のことを信じてありのままを受け止めてくれてくれていました。
ただ自分が怖がっておびえていたから、そういう存在との「つながり」が感じられなかっただけで、いつだって私は守られていました。
でも、その存在に気づいた瞬間、「受け止めてもらえた」と感じた瞬間から、私の世界は変わりました。
自然と心の奥からエネルギーが溢れ出し、私らしく生きはじめることができました。
「ありのままの私を受け止めてくれた存在のように、私もそういう存在でいたい。」
ありのままの自分を受け止めてもらうことで人生が変わった私だから、強くそう思います。
だから私は、
世界を信頼し、ありのままの自分を自己開示していくことで、人々に勇気と安心感を与えていく。
ありのままの自分を受け止めてもらって人生が変わったように、自分もありのままを受け止める存在になって「その人がその人らしくなること」を後押しする。
ありのままを受け止め合える仲間をどんどん増やして「誰もが安心してその人らしく生きていける世界」を創っていく。
そんな存在として生きていきます。
だから、もし今この記事を読んでいるあなたが、
「自分も自分らしく生きていきたい」
「でも、どうしたらいいのか分からない」
「自分には、どうせ無理だ」
そう感じているのであれば、ほんの少しの勇気を出して、誰かを信頼し、あなた自身の話をして、ありのままのあなたを受け止めてもらってください。
あなたの人生をあなたらしいものにする「あなたらしさの種」は、あなたの心の中に隠されてきた本音の中に宿っています。
それを解放してあげてください。
あなたには、あなたを信じて、ありのままのあなたを受け止めてくれる存在が必ずいます。
私にもいたように、あなたにも必ずいます。
それでも、もしあなたが、
「本音なんか話したってどうせ誰も聞いてくれない」
「ありのままの自分を受け止めてくれる存在なんていない」
そう感じているのであれば、私がいます。
私はあなたのもつ「あなたらしさの種の力」を信じています。
私はどんなあなたのことも、ただありのままに受け止めます。
だから、ほんの少しだけ、勇気を出してみてください。
その勇気ある一歩が、あなたの人生をきっと変えるはずです。
現在の活動&これからやりたいこと
ここまで長い長いストーリーを読んでいただき、本当にありがとうございました!!
最後に今の私の活動とこれからやっていきたいことを書いて終わりにします。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
出逢いに感謝です!
これからもどうぞよろしくお願いします(*^^*)
ホーミタクエオヤシン
2021.7.17 高畑桜
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