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8年越しの卒業証書

12歳だったあの子が、ハタチになった。
乾杯できるほど、時が経ったみたい。

もう10年以上前のこと。
ハタチそこそこだったペーペーのわたしは、ある職場の〝相談室〟で、ひとりの少年に出会った。

もうすぐ12歳になるそうだ。
毎日相談室に通う、細身でシャイな子。
随分と警戒されてしまい、ほんのり心を開いてくれたと感じるまで、3ヶ月かかった。

わたしはただ、そばにいた。
少年を否定することだけはしないように。
そしてその場から去ることもしないように。

毎日朝からずっと、そこにいた。

来る日も来る日も、わたしたちは相談室で過ごした。
打ち解けてきた頃から、いろいろな話をしてくれるようになった。

家族のこと。友だちのこと。先生のこと。
苦しそうに吐き出す少年の話を、ただ何時間も聞いた日もあった。
算数のプリントを一緒にやろうとしたら、どこまでも逃げられて、どこまでも追いかけた日もあった。
手先が器用な少年は、アイロンビーズでキャラクターを作ったり、大人も顔負けなほど手の込んだ折り紙を折った。

カッとなりやすく、そして傷つきやすく、周囲の子どもにも大人にも勘違いされて。
苦しいけれど諦めているような、寂しい顔をする日もあった。

ふとした関わりで指先を切ったわたしを心配し、素直に謝れず、不器用に気にかけてくれる、見えにくい優しさを本質に持っていて。
そんな少年だった。

わたしに何ができたわけでもなく、1年間、わたしたちは相談室にいた。
1年が経つ頃、変わったことと言えば、出会った春は閉めっぱなしだったカーテンを、開けて過ごせるようになったこと。
次の春が来る頃には、相談室で過ごす時間が半分になったこと。

その“相談室”を去ったわたしは、下積みと勉強を積んで保育士になった。

いろいろな現場で数え切れないほどの子どもたちと出会い、約8年が経ち、わたしは保育士を辞めた。

まっとうできたんだろうか。
もっとできたんだろうか。
もう、保育士にはならないんだろうか。

だいすきな子どもたちと離れたどうしようもない寂しさと、これ以上はできないと思えるほど入れ込んだ達成感とでゴチャつく心に、「落ち着け」と言い聞かせながら、最寄駅のホームに降りた、退職日の夜中。

ずっと連絡を取っていなかった”相談室”時代の元同僚から、1枚の写真が届いた。
放心状態でホームに立ち尽くしたまま、「数年ぶりに、何の知らせだろう」とぼんやりした頭でアイフォンを開いた。

そこには、元同僚と元少年のツーショットが写っていた。
”相談室”で過ごした少年が、成人して、一緒に乾杯しているというのだ。

大人っぽくなった。そりゃそうだ。もうハタチだなんて。
だけど何年経っても変わらない細身の少年の、シャイな笑顔。
そして当時よりずっと穏やかで、優しい目をしていた。

あれからどんな思春期を過ごしたんだろう。
辛いときに、一緒に乗り越える仲間はいたんだろうか。
家族との関係はどうだろう。
穏やかに笑える今日までに、どれほど自分と向き合い、踏ん張った日があっただろう。

青年になった元少年を見て、ただ泣けた。
さらに元同僚は、

「大学で教員になる勉強をしているらしいよ。」

と言った。

思えばあれからわたしも、全力で駆け抜けてきた。
今日この瞬間に、この仕事を手放すわたしにとって、あの子の8年越しの笑顔はまるで、自分への卒業証書のようにも思えた。

わたしも次の道へ、胸を張って進んでいけばいい。
アイフォンを握りしめ、改札を出た。

元少年の歩んできた過去と、明るいイマに。
勇気を持って過去を手放した、わたしに。
遠く離れた場所から、全力で乾杯。

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