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いってらっしゃい(22)

【2016年の世界に戻った里沙子。1982年の記憶はない。ただ、82年にかつてないやりがいを持って働いたことは実感として残っている】

  (3)10月

「吉川ちゃん、急いでリリース最終チェック!若葉は案内を各社に!」
サン・ビバレッジ広報・IR部に沢井の甲高い声が飛ぶ。
ついさきほど、サン・ビバレッジがインドネシアの飲料大手ネシア・フーズを約4000億円で買収することが正式に決まった。サン・ビバレッジ本社を訪れたネシア・フーズ首脳と篠崎サン・ビバレッジ社長が契約書にサインし、握手を交わしたのだ。人口減少で市場が縮小一方の国内だけでは生き残れないと、サン・ビバレッジは海外進出を加速させている。人口が1億を超え、平均年齢が若い東南アジア諸国は魅力的な市場だ。ネシア・フーズは海外勢も含め多くの飲料メーカーが秋波を送っていたが、篠崎自らのトップ交渉でなんとか勝ち取った案件だった。
これを受け、4時間後の午後3時に緊急の記者会見を開くことが決まった。場所は帝国ホテル、出席は両社社長。里沙子はあらかじめ作っておいたリリースの文面の最終チェックに入り、若葉は会見の案内をマスコミ各社に一斉ファックスするとともに、記者に電話連絡を始めた。
今回は情報統制がうまく効き、日経新聞やインドネシアの現地紙を含め、どのメディアにも抜かれなかった。緊急会見の案内を受け取って、各社がひっくり返っているはずだ。むひひ、してやったり、と笑みがこぼれる。さっそく、携帯が鳴り始める。なじみの記者からの問い合わせだ。「吉川さん、聞いてないよ?!」「言うわけないでしょ」「買収額、いくらよ」「発表をお待ちください」。丁々発止のやりとりが、楽しい。あ、いけない、お義母さんに連絡。奈々のお迎えをお願いしなきゃ。遅くなるかもしれないから何か適当に食べさせておいてくださいと。…お義母さんにはまたお礼しなきゃな。奈々と3人で、またどこかに旅行に行こう。こんどは謙治も舅の和夫も、みんな一緒に行けたらいいんだけど。

会見を無事に終え、夜も10時に近づくころには記者からの問い合わせもまばらになった。「軽く、どう」という沢井の一言で、沢井、里沙子、若葉の三人は会社近くの居酒屋で簡単な打ち上げをした。今どき珍しい赤提灯。壁にずらりと並んだお品書きも、時代を感じさせる。
若葉がてきぱきと適当にオーダーし、間もなく中ジョッキ3つとくらげとキュウリの和え物のお通し、枝豆が運ばれてきた。
「では、本日の会見を無事に終えたことに、乾杯」
沢井の発声で、3つのジョッキがやかましくぶつかり合った。3人とも、しばし無言でのどを鳴らす。歴代、広報・IR部の女性は酒が強い。記者と付き合っているうちにそうなったのか、元からそういう素質があるのか。
「ぷはーっ!」
どんどんどん、と音を立ててジョッキがテーブルに置かれる。
「いやー、日経さんにも書かれないなんて、珍しいですよね。完勝、完勝」
若葉がのんきに浮かれた声を出す。
「ネシア・フーズっていう相手のあることだからね。上層部も夜回り受けてもうかつにはしゃべれないよ。変に出ちゃったら、契約が反古になる可能性だってあるし。…まあ、あえて事前にリークする会社もあるけどね。市場にサプライズ与えて株価上昇を狙って。あるいは情報を共有する取引先金融機関が、マスコミに書かせることでなんらかの効果を狙って、なんてケースも」
と、沢井。
「でも、それってインサイダーですよね!犯罪ですよ、犯罪!」
若葉が乗り出す。
「もちろん。でも、うちみたいにそこそこ規模があって話題性のある会社ならこうしてマスコミ各社に書いてもらえるけど、そうじゃない会社は記事になるって結構大変なんだよ。プラス材料になるネタで。普通にリリースしても、どこも取り上げてもらえない。そんなとき、日経に『リークするなら一面で書いてやる』って言われたら、ぐらつくよね。でもそうして記事になっても、長期的に見れば他のマスコミから『あそこは日経にだけリークする』って見られて、軽んじられちゃう。上はどう判断するか分からないけど…我がサン・ビバレッジ広報部は、全社公平に、がモットーです」
若葉が神妙な顔つきで、うなずく。里沙子が続けた。
「そして、愛が必要。ですよね」
「そうそう。がちがちの公平でなくても、可。そこは人間関係。あうんの呼吸は忘れてはだめ。私たちも人間だしね」
沢井は笑ってビールをもう一口飲んだ。若葉がふいにつぶやく。
「でも、こうして里沙子さんとビール飲むなんて、久しぶり!奈々ちゃん、今夜はどうしてるんですか?いつものお姑さん?」
「うん。お迎えやご飯はお義母さんに。そして夫から早く帰れるって連絡があったから、途中で夫にバトンタッチ。彼が寝かしつけまでやるから、今夜は遅くなっても大丈夫。お義母さんだけだったら、やっぱり9時頃までに帰らなきゃなんだけど」
「ふわー、育児しながら働くって、やっぱり大変ですよねー。里沙子さん、尊敬しちゃう。ちゃんと両立してて。うちの会社のロールモデルですね」
里沙子は一瞬、返答に窮する。ロールモデル。褒め言葉と同義で、何度となくいろんな人に言われてきたことだ。説明するのもめんどうなので、「そんなことないよ」とか、「それはみなさんの協力があるから」なとど適当に答えてきたが、今は、ちゃんと答えたい気持ちだった。サン・ビバレッジの将来を担う若き後輩に。
「ほんと言うとね、自分が理想とする働き方とはほど遠いよ。育児だって、奈々ともっと多くの時間を一緒にいたいと思う。でも、全部取ることは無理。体はひとつしかないんだし。ただ、どちらも何かしら我慢してる部分があるとはいえ、私がこうして好きで子どもを育てながら働けていること自体は、周囲に感謝の気持ち。会社、そして家族。肩肘張らずに、自分の置かれた環境にじょうずに甘えること。そして一定の割り切り」
里沙子はいったん言葉を切る。
最近、里沙子はユリ子に頻繁に助けを求めている。残業の時の奈々のお迎え、晩ご飯、奈々が病気した時の預かり。これまでは、食べ物や行儀のことで奈々を甘やかしすぎるきらいのある(と、里沙子が感じる)ユリ子に、奈々を預けるのはあまり気乗りしなかった。フルタイムで働いていても、奈々ひとりくらい自分でちゃんと育てられるというプライドのようなものもあった。ユリ子が、ほとんど何もしてくれない(と、里沙子が感じる)賢治の母であるという点も、里沙子をかたくなにさせた。
しかし、蛇沢温泉から戻ってきてから、そんなことはどうでもよくなっていた。多少、味の濃いものを食べたっていいじゃない。口にものを入れたままおしゃべりしたり、多少行儀が悪くったって、それは大好きなおばあちゃんがいて嬉しいんだから。多少、寝るのが遅くなったって。―自分ひとりで子育てできるなんて、なんて傲慢だったんだろう。すでに保育園には大いに助けてもらっているのに、何を今さら。さしのべられる救いの手にすがって、何が悪いのか。賢治とユリ子は違う人間なのだ。
そう思えたら、とても気持ちが楽になった。すこし遅く帰宅して、ユリ子と奈々が和気あいあいと夕食を取っているところに里沙子も参加する。里沙子さん、お疲れさま、ほら、ビール冷えてるわよ。わあ、ありがとうございます。例の「ア・マ・ザ・ケ」のリニューアル商品の販売が伸びていて、派生商品を出すことになって、その記者向けレクチャーが長引いちゃいました。すみません。いいのよ、思う存分やんなさいね。ありがとうございます。あ、このチキンのハーブ焼き、おいしい。でしょー、成城石井でみつけたのよ。皮がパリッとしてるのよね。ななもこれ、すき!お義母さん、ワインもう一杯いかがですか。ありがとね、いただくわ。ななちゃん、あんよちゃんとまっすぐね。はーい。里沙子さん、お仕事、楽しい?
里沙子はゆっくりとユリ子に視線を合わせる。
―はい。
里沙子は目を細めて答える。ユリ子も笑った。
ユリ子が家にいる時間が、いつの間にか里沙子にとって癒しの時間になっている。きょうあったこと、考えたことを聞いてくれる誰かがいるということは、なんと幸せなことだろう。嬉しかったこと、悔しかったこと、さまざまな感情が整理され、きょうの自分がリセットされていく。今まで何を意固地になっていたんだろうと思う。
そして自分に余裕ができた分、次第に謙治に対しても優しく接することができるようなった。
「…私も最初はなかなか気持ちの落としどころが見つからなかった。働きたくて働いてるだけなのに、子どもがいるっていうだけで周囲にぺこぺこして。子どもがいて働くって、男だったら普通にやってることでしょう?なんで女だからってこんなに卑屈にならなきゃいけないの、って。確かに、育児があるからほかの人たちとまったく同じ条件で働けないというのは事実。結局、限られた時間、限られた労力、限られた救いの手を、どこにどう配分するということなんだよね。それはみんなそれぞれ全く違う。うちの場合は夫があまり戦力にならない分、強力な姑さんがいる。保育園も柔軟に対応してくれる。上司や後輩が私の状況を理解してくれる」
若葉は神妙な顔つきで里沙子を見つめ、沢井は静かにほほえんでいる。
「…あとは、自分。自分が何をやりたいかを明確に持っていれば、道は開ける。1日24時間、1年365日しかない時間を、仕事や育児、趣味、何を優先するか。何がいちばん大事か。…ざっくり言っちゃえば、どう生きたいか。それは人それぞれでしょ。子持ち社員だって同じ。自分の人生のオーナーは自分なんだもん。ロールモデルとか、そういうんじゃなくて。若葉はもっと自由にしたらいい。欲張りでいいんじゃないのかな」
里沙子はそこまで言って、ジョッキを再び口にした。我ながらちょっとしゃべりすぎだと恥じる。自分で自分に言い聞かせている。若葉を聞き役にして、自分を納得させている。でも、これが本音。自分の目指す道。
「吉川ちゃん、たくましくなったよね。…もっと仕事、したい?時間の長さじゃなくて、責任を求められる濃い仕事」
「はい」
沢井の不意の質問に、里沙子は自分でも驚くほど素直に答えた。背筋を伸ばす。
「…時間に制約はあるけど、やる気に制約はかけてません。私、うちの会社がかなり好き。出産してから改めて気付きました。正直なところ、サン・ビバのためなのか、自己実現のためなのか分からないけど、何でもいい、もっといろんな仕事をしたいです。これで終わりたくない」
沢井がにやりと笑った。若葉はちょっと驚いたような表情で里沙子を見ている。
「…里沙子さん」
「うん?」
「かっこいいです!!」
若葉は右手で里沙子のジョッキを持っていない方の手を握った。そして、左手で沢井の手も握る。な、なんだこの子は。
「私、こんなかっこいい先輩たちと一緒に働けて、ほんっと幸せ!あー、私ももっといい仕事したい!結婚してみたい!子どもも産んでみたい!」
最近の若者はストレートすぎて里沙子は赤くなる。沢井はさすがに余裕があるのか、ニヤニヤしながら握られていない方の手で若葉の額に軽くデコピンを食らわせていた。
「私を飛ばすな」
沢井の発言の意味が分からず、里沙子と若葉は一瞬ぽかんとする。飛ばすって、左遷ってことじゃないよね。つまり。お待たせしましたー、と言いながら、店員がモツ焼きと冷や奴とチョレギサラダをテーブルに置いていった。
「予定が、あるんですか?」
さすが若葉、直球。でも、それって仕事の?結婚の?出産の?詰めが甘い。
「…ないよ」
はーっと二つのため息が漏れた。沢井はうふふ、と笑いながら割り箸でモツとニラを一緒につまみ、口に含んだ。この人が食べると、モツ焼きさえ高級料理に見えてしまう。
「私は仕事が楽し過ぎてそのまま突き進んでたら、結婚するの忘れてた」
里沙子は気まずさに襲われた。均等法世代で今、会社の幹部に登用されている女性たちは結婚や子どもを諦めて仕事をしてきた人たちなのではないか。彼女たちが、仕事も結婚も出産も自由にできる自分たちの先遣隊になってくれた。彼女たちが地下足袋を履いてツルハシを振り上げて拓いてくれて道を、ウォーキングシューズで難なく進んできた自分が、若葉に偉そうにアドバイスしたことが恥ずかしくなる。
「っとお、吉川ちゃん、そこで申し訳なさそうな顔するんじゃない」
沢井が少し赤らんだ顔で、デコピンを里沙子に食らわす。
「今まで結婚しなかったこと、悔いてないし。自分で選んだ道だし。…それに彼氏、いるし」
今度こそ、後輩二人は目を丸くする。いや、こんな素敵な女性だもの、彼氏がいても当然。なんだけど。
「どんな人なんですか?!写メ、ないんですか?あるでしょ?!」
ひーみつ、と言って、沢井はわめき立てる若葉を制するべく、手のひらを若葉の顔に向けた。そして続ける。
「私より先人は、いるんだよ。均等法なんてない時代から、一般職という道しかなかった時代から、ばりばりと働いていた伝説の女性社員が」
里沙子と若葉は、全身が耳になった。そんな女性の話は、初めて聞く。
「1980年代。当時の広報室には二人の女性社員がいたの。あんたたちも『ジャパン&アップル』の偽装事件、知ってるでしょ」
それはもちろん知っている。国産リンゴ100%をうたいながら、輸入原料や人工甘味料、香料など別の原料でごまかしていたという事件。当時、大々的に報道され、サン・ビバレッジの信用は地に墜ちた。サン・ビバ史上、最悪の不祥事。忘れてはいけないと社史にまで載っている。でもそれ以上のことは。
「その女性たちが中心となって、その事件を乗り切ったの。最初、会社としては知らぬ存ぜぬで通そうとしていたのを、製造工場のパートさんたちが立ち上がったのをきっかけに、社は全面的に認めて謝罪する方向に転換。その裏には、その女性たちを含めた広報部員の立ち回りもあったらしいわ。もう、詳しいことを知る人はもう社内にごく一部しかいなくなってしまったけれど。ちなみに当時の広報室というのは、室長を除けばその一般職の女性二人と、篠崎さんっていう若手の男性社員」
あ、と里沙子は声を出した。篠崎って、もしかして?沢井はにっこり笑った。
「そうよ。今の社長。今、うちの会社が広報部門を重視しているのは、篠崎さんの意向でもあるのよ。ありがたいことに」
「そうなんだ…。で、一般職の女性二人はその後どうなったんですか」
「当時の会長が彼女たちを大いに買ってね。これからは弊社も女性に活躍してもらわなくてはならない、女性が活躍できない会社に未来はないって、大方針を掲げたの。80年代だよ。今、安倍さんが言ってること、女性活躍推進って40年近く前にうちの会社は取り入れたの」
「…知らなかったです」
里沙子は素直に述べる。
「当時の会長って、柔軟性のある人だったんですねー」
「うちのおじいちゃんもなかなかやるでしょ」
は?
里沙子と若葉は再び鳩豆状態だ。
「そう、サン・ビバレッジの創業家三代目、沢井源一郎。私のおじいちゃん」
「えええーっ!」
「あんたたち、知らないなんて社内事情に疎いわね。広報部員として失格。まあ、知ってる人はそんなにいないけどね。でもね、私はコネなんて使ってないのよ、信じがたいかもしれないけど。普通の筆記試験と面接を通じて入社したし、履歴書にも一切書いていない。おじいちゃんで創業家は経営に口出しするのやめてるし、株もほどんど売っちゃってるし。私の両親はぜんぜん違う業界で働いてる。そもそも、おじいちゃんが私に言ったのよ。当時高校生の私に。これからは女も自分の食い扶持くらい自分で稼げ、仕事なんて面白いことを男だけにやらせることはない、働かにゃ損だ。でも俺の口利きは一切期待するなってね。もちろん、沢井とは関係ない会社に就職することも考えたんだけど、おじいちゃんからその広報の女性二人の話をさんざん聞かされて、一緒に働けたらいいなって」
「へえー、なんだか知らないことばっかり。で、彼女たちと一緒に働けたんですか?」
「残念なことに先輩格の一人は、私が入社したときにはすでに会社にはいなかった。転身先は誰に聞いても分からなかった。でもね、もう一人とは一緒に仕事ができたわ。この広報部で。吉川さんっていうんだけどみんなにヨッシーって呼ばれてた。あ、吉川ちゃんと同じ名前だね。今気付いた。―ヨッシーさんはとても愛嬌があってかわいい人。でも、仕事に手抜きはなく、真摯。広報には愛がなくちゃって、彼女の受け売りなの。彼女は、サン・ビバレッジ初の女性の総合職にして、我が社初の育休取得、そして復帰者。初のワーキングマザーよ」
あ、焼酎頂戴。黒伊佐錦。ロックで、チェイサー付けてね。沢井は通りかかった店員に声を掛け、話を続ける。
「ヨッシーさんがうらやましかったのは、その結婚相手。元々はうちの社員で転職して大学の先生になった人なんだけど、その人が家事、育児の大半をこなしたのよ。育児や家事をやっていたという事実もさることながら、その人が当時において女も働くべき、男も家事をすべきという意識だったってことが何より奇跡だわ。何度も言うけど、それを80年代にやるってすごいことなんだからね」
「素敵ー、そんな男の人、今でもレアですよ、きっと」
若葉が指でつまんだ手羽先をかじりながら言う。里沙子もうんうんとうなずく。
「そのダンナさんはね、篠崎社長の同期なんだって。私が入社したとき篠崎さんは広報室長だったんだけど、あいつが家事をするのも育児をするのも何の不思議もない、自分がこうだと思ったらやるやつだし、ヨッシーにベタぼれだからな、って言ってたの覚えてる。名前だってね、その人、結婚してヨッシーさんの吉川姓になったんだよ。ヨッシーさんが仕事を続けやすいようにって。なんだかいろいろと、いい意味でこだわりのない人」
里沙子は謙治のことを思い出す。
ついさっき、ワーキングマザーとして生きる心得のようなものについて若葉と沢井に持論を披露したが、半分はきれい事だ。本当は諦めきれない部分がある。謙治のことだ。
蛇沢温泉から戻ってから、里沙子が忙しくしているのを見てか、たまに託児所の迎えを買って出てくれるようになった。時間に余裕があれば、洗濯機だって回してくれる。謙治が早く帰れる日には、味付けはやや微妙なものの、夕食がちゃんと用意されて風呂も沸かしてあることもある。
里沙子は謙治の変化が嬉しい。小さな変化だが、変化したということが嬉しい。
しかし一方で、まだぜんぜん足りないという気持ちもくすぶる。それは、里沙子が残業したくて謙治に奈々を迎に行けないか聞くときに、謙治が「無理。その日は予定がある」と、とりつく島もなようないうような言い方をするときだ。どんな予定かと聞けば、言ってもお前には分からない、里沙子が自分もたまにはしっかり仕事をしたいと言えば、最後は必ず「俺も家事や育児、やってるだろ」で終わる。
自分の手が空いているときだけに家事や育児をしても、それが何だって言うの。家事や育児はこちらの都合なんて考えてくれない。どんなに忙しくても、眠たくても、奈々はお腹が減るし、洗濯物はたまるのだ。我が家でこなすべき家事の量が十あるとすれば、謙治がやっている量はたかだか一が三になったにすぎない。なにもしないよりはましと満足すべきなのかもしれないが、できない。なぜ自分がメインで家事と育児をやる役割なのか。女だから?母親だから?
もちろん、奈々はたまらなくかわいい。奈々じゃなければ、こんなに黙って育児や家事をしない。むしろ自分の手で育てたいという気持ちも強い。でも、だからといって。
思考はいつもそこから先に進めない。だから、諦めることにした。謙治に十のうち五、いや、せめて四を担わせることを。いや、仕事量ではなく、自分も家事・育児をする親の一人なんだという意識を持たせることを。できない人なんだと、その代わりにユリ子が助けてくれるのだと。
しかし、たまにこうして「ヨッシーさんの夫」のような男性の話を聞くと、諦めていたはずの気持ちがあふれ出す。男もやればできるんじゃないの。なんで謙治は。家事や育児に対する、賢治との意識の差とでも言うべきものが里沙子は許せない。
もやもやとする気持ちを、若葉の言葉が遮った。
「で、そのヨッシーさんは今何してるんですか?まだうちにいるの?」
「篠崎さんの後任として広報室長を務めてね、そりゃもうすごかったわ、厳しいけど的確。篠崎さんも立派な室長だったけど、ヨッシーさんは、それに加えて母親目線ていうのかな、ごろつきみたいな記者でも手のひらで転がすようなおおらかさがあった。媚びるんじゃなくて、叱ることもあったし。愛があったね、彼女の広報には。ヨッシーさんに励まされたという女性社員や女性記者も多かったよ。でも、室長の仕事を全うした後は、会社を辞めてしまった」
「えっ」
里沙子と若葉の声が重なる。
「…うん、残念なんだけど。今さらだけど息子と過ごす時間を増やしたい。それに、新しいことをやってみたい、ってね。担い手が少なくなっている農業の再興を手伝いたいって。地方の農家を尋ねて回り、埋もれた名産品を食品メーカーや百貨店など小売店に橋渡しする会社を立ち上げたの。これも『ジャパン&アップル』事件のときから国内の農業について考えた結果なんだって。当時はバブル、大量生産・大量消費の時代にそんなこと考えてたなんて、やっぱりすごいわ」
「今もその会社に?」
「ううん、その会社は後進に譲って、今は旅行に行ったりお芝居見たり、食べ歩きしたり、悠々自適だそうよ。孫の面倒を見るのが楽しみなんだって。篠崎さんが、もったいないってつぶやいてたけど、ヨッシーさんは自分が望むように生きているだけなのよ、きっと」
 

吉川ちゃんが言うとおりね、自分が自分の人生のオーナー、と言って沢井は笑った。
時計の短針が12に近づく。そろそろ帰ろうかと、傾斜配分で会計を済ませる。
店を出て、里沙子は満天の星空を見上げた。こんな都会の真ん中でこんな星空が見られるなんて、知らなかった。この時間、いつもなら在宅残業中か、奈々と夢の中、だ。
「きょうは沢井さんにたくさん驚かされたなー」
駅に向かう道すがら、若葉が伸びをしながら言う。
ふふ、と笑った沢井の首元で、きらりと光るものがあった。
「あー、そういえば沢井さんのネックレス、それ何ですか。ときどきつけてますよね。ずっとかわいいって思ってたの」
「若葉は知らないよね、これ。昔はみんなつけてたの。ティファニーのオープンハートってやつ。吉川ちゃんは知ってるんじゃない?バブルの名残」
「知識としては…。彼氏が彼女に贈らなきゃいけないやつでしたっけ」
「贈らなきゃって…まあ間違ってはいないか。でも私のは、おじいちゃんにもらったやつなんだ、高校の時の誕生日プレゼント。大人になった気がして嬉しかったなあ。それまではプレゼントと言えばぬいぐるみばっかりだったから。それで、重要な記者会見とか、勝負の時につけてるの。これつけてたらうまくいく、ジンクス」
「なんだか色気のない話ですね」
「なんだとお」
得意のデコピンの構えで襲いかかる沢井に、若葉がきゃーと身を小さくしながら聞く。里沙子は、デコピンってよく考えたら古いよな、なんて思って笑ってしまった。
「それとは別に彼氏さんからのプレゼントとか、あるんでしょ」
「あるよ、もちろん」
構えた右手を若葉の額に近付けながら答える沢井の表情があまりに幸せにあふれていて、若葉も里沙子もどきりとした。
愛する人がいるということは、力だ。そんなに謙治のことが嫌なのなら離婚すればいいものを、そうもせずいつまでもぐだぐだ文句だけ言い続ける自分は、やはり謙治のことを愛している。それが愛着なのか情けなのか分からない。でも、失いたくはない。
結婚したのに報われない愛ってなんなんだろう。
「結婚は人生の墓場って言いますもんね。沢井さんが正解かも」
「生意気言ってんじゃないわよ」
冗談めかして言う里沙子の額に、沢井はデコピンを食らわせた。(続く)

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