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いってらっしゃい(10)

【1982年の世界にすっかりなじみ、サン・ビバレッジのお局社員として活躍する里沙子。ある晩、後輩の篠崎が切羽詰まった様子で電話を寄越してくる】

(2―1)7月15日 月曜日

梅雨明け間近の蒸し暑さが部屋中に充満する。
飲料メーカーのかき入れ時である7月。相変わらず恋人のひとりもいない里沙子は一日の仕事をそつなく終わらせ、クーラーのないアパートの自室で扇風機の風量を最大にし、ビールを飲みながらテレビドラマ「噂の刑事トミーとマツ」を観、大笑いしていた。
普段は気の弱い刑事、トミーが、同僚のマツに「男女(おとこおんな)のトミコ」と呼ばれると、ぶち切れて無敵の凶暴刑事に変身し、犯人をなぎ倒し、難事件を解決していく。一件落着すれば、変身が解けて普段の優男に戻るトミー。松崎しげる演じる「マツ」が濃すぎる。国広富之の「トミー」の変身ぶりが、ありえない。怒濤の展開の爆笑コメディである。優男、トミーの存在がどうにも愛おしい。この時代にはこんな破天荒なドラマがあったんだと感心する。でも「男女(おとこおんな)」という台詞はアウトだなあ。2016年だったら、性的マイノリティへの配慮不足ってことで放映できないだろうな。
ドラマがいつものパターンで一件落着し、里沙子は今夜も笑わせてもらったわいとテレビを消した。風呂に入ってさっぱりしようと風呂の蛇口をひねると、電話が鳴った。はいはいはい、と言いながら部屋に戻り、受話器を取る。おばさんである。
「西村さん」
篠崎だった。声の雰囲気がいつもと違い、切羽詰まっていた。
「篠崎くん?どした?」
「相談したいことがあります。これからそちらに向かいますので、少し出てきてもらえませんか」
ドラマとビールでいい感じになっていた気持ちが一気に醒めるような勢いだった。里沙子は分かった、と言い、最寄り駅前の深夜まで営業しているバーを指定した。

30分もかからず、篠崎は店にやってきた。駅前商店街の古びた商業ビル地下1階にあるバー「さなぎ」は、男性マスターが一人で切り盛りしている小さな店だ。里沙子はときどき一人でふらりと立ち寄っている。女性の「おひとりさま」を受け入れてくれる、この時代においては貴重な店だ。ふだんならカウンターに座るところだが、篠崎が誰にも聞かれたくないと言っていたことを思い出し、奥のテーブル席に座って待った。薄暗い店内に客はまばらだ。
「すみません、急に呼び出して」
スエット姿の里沙子に対し、篠崎はまだスーツ姿だった。
「まあ、座んなよ。先に飲んじゃってるけど。何にする」
水とおしぼりを持ってきたマスターに、篠崎は里沙子と同じジントニックを注文した。
篠崎は喉が渇いていたのか、先に水を一杯飲み干してからジントニックに口を付け、小さくため息をついた後、前置きもなく静かに話し始めた。
「うちに、『ジャパン&アップル・ストレート100』っていう商品あるでしょう。混ぜもの一切ナシの、国産りんごストレート果汁だけを使った160グラム缶のヤツ」
すぐに思い当たる。品質の高さが評判の、お中元にもよく登場するうちの看板商品の一つだ。2016年においても根強い人気を誇るロングセラー。
「西村さんやヨッシーの耳には入ってないと思うんだけど、この2週間、お客さま相談窓口に、味がいつもと違うっていうクレームが20件以上寄せられているんです」
相談は委託先の専門会社がいったん受け、相談内容に応じてサン・ビバレッジの関係部署に回される。相談内容やそれに対する回答、相談者の情報などは、まとめて広報室長の岩本に報告される仕組みだ。総合職である篠崎もその情報を共有していた。
「生産ラインに不備があって異物が入ったんじゃないかってことで、工場を点検したけど異常はなし。相談者にはこういう商品はリンゴをそのまま使っているから、その年の作柄でけっこう味が変わるものだって説明して納得してもらってるらしいんです」
でも、2週間で20件は多い。
「君は飲んでみたの?」
「はい。でも、普段あまり飲んだことないから、違いはよく分かりませんでした。ちゃんとおいしかったッス」
篠崎はグラスに口を付けて唇を濡らした。
「聞いてもらいたいのはここからなんです。…そのジャパン&アップル作ってる高崎工場に、俺の同期がいるんです。そいつがおとといの土曜に本社に出張ってきてて、夜、一緒に飲んだんです」
篠崎はとんでもない告白をしようとしている。里沙子は直感でそう思い、身を乗り出した。

その晩は、会社の同僚と鉢合わせすることの多い赤提灯の店は避け、最近オープンした西麻布の話題のイタリアンレストラン、ラ・ボエムまで足を伸ばした。土曜の夜とあって、道は解放感に包まれた人たちであふれている。
「やっぱ東京は都会だなあ。高崎とはえらい違いだよ」
ほぼ一カ月ぶりに顔を合わせた同期の池田は180センチ以上ある体をちぢこめ、辺りをきょろきょろと見渡しながら篠崎の横を歩いていた。長身の割に細見の体が、相変わらずスーツに着られているという感じ。ネクタイもへろへろで、アイロンくらいあてろよと言いつつやっぱ池田らしいと、篠崎はほほえましく思う。2人は篠崎が法学部、池田が理学部と学部こそ違え、同じ大学の出身だった縁もあり、サン・ビバレッジの同期入社組42人の中でも仲がよかった。学生時代は、カニ族(2016年でいうバックパッカーだ)として世界を放浪していた池田。少し浮世離れしたというか、ヒッピー臭い池田の風体は、確かにしゃれた麻布の町からはすこし浮いていて、すこし笑えた。
「そうだな、特にこの辺りは急にしゃれた店が増えてきた。深夜までやってる店も多いし、会社のグチしか言わないしみったれたおっさんサラリーマンもいないから、いいぞ。まあ、おっさんたちにイタメシなんつってもよく分かんねえみたいだけどな」
壁一面がガラス張りで天井の高い店内は、モノトーンでまとめられてシックな雰囲気だ。薄暗い照明の中は若者たちのざわめきと熱気がこもり、えもいわれぬ隠微な香りがする。2人は小さなテーブル席に着いた。小股が切れ上がった美人の店員に、とりあえずビールと、二人ともその正体はよく分からないもののカプレーゼ、ヤリイカのフリットとやらを注文する。ここでも池田は篠崎の耳に顔を寄せ、「やっぱ東京は違う」と感心しきりで目を輝かせていた。間もなく美しく泡の立ったビールグラスが二つ運ばれてきた。
「お疲れ」
「久しぶり。乾杯」
蒸し暑い中を歩いてきた二人は、一気に3分の2を飲み干した。盛大なため息が漏れる。
「お前、今何してんの。広報室だっけ。社内報でも作ってんの?」
池田が口元をぬぐいながら聞く。まあ、フツウの社員の広報への認識など、これくらいが普通だ。当の篠崎だって、広報室に異動が決まったと聞かされたときは、ぽかんと口を開けたものだ。
「それもあるけど、新商品の発表とか、社長の記者会見とか、対外的な仕事も多いな。うちの会社、こんなことやってますよー、って」
「へえ、記者会見とかやるんだ。テレビとか新聞に出ちゃうわけ。なんかかっこいいじゃん」
「俺が出る訳じゃないよ」
通りかかった美人店員に二杯目のビールとピッツァ・マルゲリータを頼み、互いの近況報告を続けた。池田は果汁飲料や炭酸飲料を生産している高崎工場で、生産管理を担当している。商品の販売計画や売れ行きに応じ、いかに効率的に生産ラインを動かすか。原料調達のタイミング。在庫管理。いずれ商品開発に携わりたいと考えている池田にとっては、一里塚だった。
「高崎の寮で一人暮らしかあ、冴えねえなあ」
「そうでもねえよ。休みの日は車で山をすっ飛ばしたらまじですっきりするし。ときどき温泉行ったりさ。自然が多くて空気もきれいで、パートのおばちゃんたちは優しいし、なかなかいいところだぜ。お前もたまには遊びに来いよ。でもまあ、こういうナウい店はまずないけどな。あんなマブい店員もいないし。おっきりこみのうまい店に気っぷのいいおばちゃんはいるけどな。そういうお前こそ、彼女いないんだろ。こうして花の土曜に俺の相手してるってことは」
「今晩空けとけっつったのお前だろ。…でもまあ、認める。彼女いません。出会いがないわ」
「会社にいるだろうよ、若い女。工場と違ってさ」
「いやあ…」
篠崎はヨッシーと里沙子の顔を思い浮かべながら、首をかいた。
「広報の女は、むちゃくちゃ強くってさ」
「なんだそれ」
笑いながらも、二人の食事の手は休まることを知らない。ビールをワインに変え、カルボナーラや二枚目のピッツァを次々と胃に放り込む。二人とも健康な20代男子。食べ盛りだ。
「で、池田。今夜は何か話があるんじゃないのか」
篠崎はかなり赤くなった池田の顔を見て言った。いつもなら、出張してきた当日にふらりと篠崎の部署に寄り、「今夜、空いてたら行こうぜ」と声を掛けてくるのが常。それが今回は、出張が決まった時点でわざわざ篠崎の自宅に電話を掛け、当日の夜は空けておけと厳命したのだ。池田は口の中に放り込んだばかりのピザを敢えてゆっくり咀嚼しているようにみえた。そしてやっと飲み込んだ後、トマトソースのついた右の親指をぺろりとなめてからゆっくりと口を開いた。
「…最近、ジャパン&アップル、クレーム来てるだろ」
「あ、ああ。そうか、あれって高崎で作ってるんだよな。味が違うのはリンゴの作柄のせいで品質には問題ないって聞いたけど」
「あれな、」
池田はいったん口元に運んだワイングラスを再びテーブルに置き、声を潜めた。
「リンゴ果汁、半分も使ってないんだ」
「はあ?」
篠崎は眉をひそめ、思いっきり間抜けな声を出した。
「ばか、声がでかい」
「どういうことだ?」
「…果汁が足りない分は、人工甘味料と香料でごまかしている。さらに、果汁も輸入の濃縮還元と国産ストレートの混合だ。ほとんどが濃縮還元だと言っていい」
篠崎は言葉が見つからず、池田の顔を見つめたまま動けない。
「ははっ、果汁ゼロパーセントのリンゴ風味炭酸飲料とか作ってるうちの香料技術、なめんなよ、ってか」
そう言って池田は乾いた声で笑いながら、天井を仰いた。篠崎は徐々に池田の言っていることの意味を理解する。酔いが醒めていく。詰めていた息を鼻から静かに、長く出した。
「まじか…。国産100%じゃないってことか…。それって、…それって、やったらダメなことだろう、絶対」
篠崎は声を絞り出した。
「ああ、ダメだ。絶対に。こんなのは厳然たる偽装だ。うちは、消費者をだましている」
「それじゃ、なんで」
「もともと原価率の高い、つまりもうけの薄い商品だ。同じ果汁100%でも、輸入の濃縮還元で作れば、売値に対し原価は1割程度で済む。ジャパン&アップルは、5割以上。ぜいたくな商品だ。そしてここにきて、昨年の東北地方の冷害。ジュースに回すリンゴが、ほとんど確保できなかった。でも、中元商戦には欠かせない商品だ。作れませんでしたじゃ済まない。6月から、製法を今のものに変えた。俺も試飲してみたけど、本物とあまり遜色がない。さすが技術力のサン・ビバレッジだよ。でも、常連客には分かるんだよなあ。すげえよ、ファンは」
「お前、知ってて…」
自嘲気味に話す池田に、猛然と怒りがわく。
「知ってて放置してんのかよ!」
篠崎は腰を椅子から浮かし、池田の胸ぐらを掴んだ。池田は一瞬ひるんだが、すぐに篠崎をにらみ返し、篠崎の腕を払いのけた。
「俺だってやりたくてやってんじゃねえよ!」
周囲の視線が自分たちに集まっていることに気付き、篠崎は静かに腰を下ろした。池田はため息をつき、頬杖をついて遠くを見つめた。周囲のざわめきが、戻ってくる。
「…俺が気付いたのは一週間前だ。元々生産量の多い商品じゃない、俺の管轄外のラインでほそぼそと生産している。でも、ラインの工程が変わっていることに気付いたんだ。一見しただけじゃ分からないが、よく見たらこれまでになかったパイプとかタンクがさりげなく接続されている。素人目には分からないな、あれは。知っていたのは、工場長とそのラインの担当、原料調達の3人だけだ。1カ月以上もラインの変化に気付かなかった俺もまぬけだが」
「…止めたのか」
「当たり前だ。なぜ工程が変わっているのか工場長に聞いたが、最初は何も教えてくれなかった。でも、運ばれる原料や帳簿、気をつけてみればいくらでも証拠はある。工場長もすぐに口を割ったよ。で、さっき俺がしたような説明をした。卸や小売りからの発注をさばけないとなると、次の発注はない。だから仕方ないんだと。でも、俺はそれは違うと言った。できないのなら作るべきではない、数合わせのために違うものを作ることは、偽装工作だ。消費者を裏切ることだ。ジャパン&アップルっていう商品が死んでしまうと」
「それで。…それで工場長は」
「若造一人がわめいたところで、何も変わらねえよ。『仕方ない』の繰り返しだ。『俺たちだってやりたくてやってるわけじゃない』と。完全に、会社の中の歯車のひとつになってしまってる。そもそも、そんなに悪いことだと自覚していない節さえある」
池田はグラスに残ったワインを一口で飲み干し、うつむいた。
「…どうするんだ」
篠崎は聞いた。
「…どうしたらいいと思う」
池田は顔を上げ、すがるような目で篠崎を見つめた。
篠崎は、池田を怒鳴りつけたことを悔いた。池田はさんざん悩んだはずだ。できる限りの抵抗をして、おそらく工場には味方もいないのだろう、一人で苦しんだはずだ。そして、俺に相談してきた。俺なら同じように怒りを感じてくれるだろうと信じて。実際、俺もそんなことは絶対にすべきでないと思う。俺が池田の立場だったら、同じことをしているだろう。これは会社の危機だ。作戦を練らなくては。他に味方を見つけなくては。池田は工場で、池田なりにやれることをやった。俺にできることは何か。
その夜、都内のホテルに泊まるという池田に対し、篠崎は「東京でできることを考える。絶対にまた連絡する」と約束し、固く手を握って別れた。

結局、篠崎には上司に相談してみるということしか思いつかなかった。週明け月曜の夜、つまり里沙子に電話する数時間前、篠崎は岩本室長を飲みに誘った。相談があると。
結論から言えば、岩本に相談したのは失敗だった。岩本は、高崎工場の偽装工作を知っていたのだ。知っていて、「国内のリンゴの生産が元に戻れば、そして中元商戦が終われば、元の製法に戻す。それまでの一時しのぎだ、気にするな。たいしたことじゃない。毒を入れてるわけじゃない」と。そう言って岩本はタバコの煙を口から吐き、篠崎の肩をぽんと叩いた。そしてタバコをアルミの灰皿にねじり付けて消すと、タバコと酒の臭いが入り交じった口を篠崎の顔に近づけ、「誰から吹き込まれたか知らねえが…誰にも言うんじゃねえぞ。言ったら…分かってんな」と低い声でささやいたのだった。
上へのご機嫌伺いばかりに精を出している岩本の普段の態度をみていれば、こういう可能性が充分あったと分かったはずなのに。篠崎は自分の甘さを悔いた。池田の名前を出さなかったことだけが救いだ。岩本が知っているということは、本社の上層部もすでに把握している可能性が大きい。つまり、会社ぐるみの偽装工作かもしれなということだ。
篠崎は混乱していた。これが組織ってやつか。きらきらしいCMで消費者に商品のいい面ばかりをアピールしながら、その裏でニセモノを飲ませる。もしかしたら、ほかの商品でも、ほかの会社でもこういうニセモノは出回っているのか。俺は騙されているのか。
自分も支払うというのを制止され、岩本に全額支払わせてしまった。その居酒屋には一時間もおらず、自分はほとんど何も飲み食いしなかったため額も知れているが、「敵」に借りを作ってしまったようで気分が悪い。篠崎は財布を出す気力もなく、半ば呆然としながら岩本と別れた。

帰り道、篠崎の疑心暗鬼は加速した。社内の人間は全て「敵」なのではないか。自分と池田以外は、皆この事実を知っているのではないか。おかしいのは自分と池田だけで―。
弱気になった気持ちの隙を突くように、ついさっきまで隣でタバコをふかしていた憎々しい顔が脳裏によみがえる。その顔が、バカだなお前、と哄笑する。篠崎は往来の脇に逸れ、しゃがみ込んだ。ちくしょう、どうすりゃいいんだ。と、次の瞬間、その憎々しい顔に盾突く新しい顔が光のように脳裏に現れた。『岩本室長、女性に失礼な質問をしないでください。不快です』。腕組みをして、すっと伸ばした背筋。まっすぐな視線。よどみのない口調。―いた、こんな近くに。
篠崎は腕時計を見た。9時を少々回っていたが、ためらわず近くの電話ボックスに駆け込んだ。(続)

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