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いってらっしゃい(6)

【2歳の娘・奈々と、姑のユリ子と3人で石川県は白山麓の秘湯「蛇沢温泉」にやってきた里沙子。仕事や家庭のもやもやを忘れ、癒やしのひとときを送る】

「まいもんあるよ、近江町市場」「きまっし茶屋街」―。
金沢を彩る数々の惹句が目の端々に映るが、本日の目的地は金沢ではない。ここからさらに北陸電鉄という第3セクターの二両編成の電車に乗り、南の終着駅、鶴来駅で下車。蛇沢温泉はそこからさらにバスに小1時間揺られた山の中だ。
いいかげん里沙子も疲れてきたが、ユリ子の元気はいっこうに衰えない。新幹線の中から続くトークは、相変わらずよどみない。今回温泉に行けなくなった友達というのはね、金沢は30年以上前に来たきりで、シウマイ弁当の変わらない味は―。蛇沢温泉行きのバスに揺られながら、半分夢心地で相づちを打つ。鶴来で一緒に乗り込んだ学生らしき男女と老婆はすでに下車したようで、車内は里沙子たち3人だけだ。奈々は里沙子の腕の中で静かな寝息をたてている。
車窓に目をやれば、辺りは背の高い杉の木に囲まれた林道だ。ときどき杉の木の間を縫って、なだらかな山容が目に入る。霊峰・白山。事前に読んだガイドブックによれば、標高は2702メートル、石川、岐阜両県にまたがってそびえる。富士山、立山と並ぶ、日本三霊山のひとつだ。名は「白山」だが、容赦ない9月の太陽の照りつけにより頂上付近は茶色がかり、冬の訪れを待つばかりになっているような寂しさだ。

1時間ほど揺られ、終点の蛇沢温泉に着いた。事前に購入したきっぷを運転席の脇のボックスに入れ、「ありがとう」と言って下車する。いかつい顔をした運転手は一瞬何か言いたげに里沙子を見上げ、里沙子に抱かれたまま眠る奈々に目を移し、そして何も言わず、そのままバスをUターンさせて元来た道を戻っていった。
「着いたわねーッ!遠かった!う、うううーーん!」
ユリ子が大きく伸びをする。
里沙子もやれやれ、と深呼吸を一つする。口と鼻孔から湿った土と木の匂いが入り込み、肺を満たし、懐かしい気持ちに囚われた。生き返る。それにしても、肝心の宿「蛇沢荘」はどこにあるのだろう。ユリ子と2人、しばらく周囲を注意深く見渡すこと数分、間もなくバス停のすぐ脇から延びる獣道(にしか見えない)への入り口に、「おつかれさま 蛇沢荘はこちら」と書かれた看板が立っているのを発見した。矢印は獣道の奥を指している。看板、小さすぎ!広報マインドがすこし顔を出した。
奈々を抱っこからおんぶに切り替え、獣道をゆく。後ろからはユリ子が「どんなところかしらねー、わくわくするわー」とのんきな声を上げながら、里沙子の荷物も持って続く。本当にこんな所に温泉宿があるのか。掘っ立て小屋じゃないの。屋根があるかも怪しい。蛇沢荘への期待がしぼみ、代わって不安が膨らむ。その時、ふっと硫黄のにおいが鼻をかすめた。そして目の前に空間が広がる。
こぢんまりとした茅葺き屋根の民家。しっとりと黒い板塀。傍らを流れる小川では、大きな水車がからからと軽い音を立てて回っている。家の周囲は竹で編まれた低い生け垣が張り巡らされ、その生け垣にはノウゼンカズラやアサガオのツタが絡まる。トンボが一匹飛んできて、生け垣に静かに止まった。生け垣の内側には小さな畑があり、よく耕された畝が並んでいる。あの葉っぱはエンドウ豆だろうか。風景全体が温泉特有のうっすらとした硫黄臭と湯気に包まれ、木々の枝葉をすり抜けて注ぐ太陽の光を浴びてきらきらと光っている。その霞がかるように光る民家への道すがらには、桜の大木が一本立っていた。今は赤や黄に変色し始めた緑の葉をつけるだけだが、この枝振り、春になれば辺りは一面桜吹雪に襲われて桜色に染まってしまうことだろう。
晩夏を映す一葉の絵はがきのような風景に、里沙子の目はちかちかと眩んだ。
「ほら、見えたわよ!もう少し、がんばって!」
ユリ子が突っ立ったままの里沙子の肩をぽんと叩き、先に立って歩き始めた。3歩遅れて里沙子も続く。
「こんにちはー」
ユリ子がそっと手を掛けた引き戸は、からからと滑らかに開いた。手入れが行き届いている。ひんやりと涼しい玄関の上がりかまちには、大振りの花瓶が鎮座し、ススキとオミナエシが大胆に活けられていた。
「はーい」と奥から張りのある声が響き、軽やかな足袋の音とともに出迎えたのは、里沙子とそう年の頃も変わらない女性だった。ひとめ見て、はっと息をのむ美人である。着物にもんぺ姿がやたらスタイリッシュにみえる。
「ご予約の吉川さまですね。ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりました。どうぞお入りになって…あら、寝ちゃったんですね」
寝息をたてる奈々を見て、ふっと笑った女性の目元は、「母」だと里沙子は思った。
「お世話になります。お友達が急に来られなくなっちゃってね、それにしてもいいところね、白山が一望。あなたが女将さんかしら?」
疲れている上にいろいろと新鮮な衝撃を受けて言葉が出にくくなっている里沙子をよそに、ユリ子が親しげに女性と会話する。
「はい、祖母と夫と私の3人でやっております。そのうち2人もごあいさつにうかがいます」
その時、廊下の奥から、「おかあ」とかわいい声が聞こえたかと思うと、奈々と同じ年頃の男の子が指をくわえてよちよちと出てきた。
「あら、龍哉、起きたの」
若女将はそう言って小さな男の子を抱き上げる。
「三人でやっていると申しましたが、すみません、訂正します。この子も一緒に、4人でやっております」
若女将はにっこり笑っていった。「ほら、龍哉、お友だちがお泊まりに来てくれたよ。おっきしたら、一緒に遊べたらいいね」。
風通しのいい和室に通され、里沙子もユリ子も座椅子に腰を下ろし、大きく息をついた。奈々は若女将が敷いてくれた布団でよく寝ている。残暑厳しい東京と違い、ここの風は秋の香ばしさを運んでくる。薄い掛け布団をお腹に載せた奈々の寝顔はすこぶる穏やかだ。ちりん、と風鈴が小さく鳴る。

「いいところだわね、ほんと」
「はい、想像以上に」
里沙子は女将が淹れてくれた茶をすすりながら、心から答えた。古くも手入れが行き届いた家屋に、爽やかでうつくしい若女将。かわいい龍哉くん。涼しくおいしい山の風。温泉宿でこんなに気持ちのよい応対を受けたのは初めてではないか。温泉にさえまだ入っていないのに、早々とこの宿に星5つの評価を下したくなる。そして今夜の宿泊客は里沙子たちだけ。貸し切りだ。
「お風呂もご飯も期待しちゃうわよね」
「ですよね」
2人はうふふと笑い合い、お茶をすすった。
おだやかな気持ちに浸りながら、里沙子とユリ子はとりとめのないおしゃべりで時を過ごす。そのうち、奈々がうーんと大きな伸びとあくびをして目を覚ました。
「あ、奈々ちゃん起きたの」ユリ子が駆け寄る。
「ユッコたん」
そうよー、ユッコちゃんよーと言ってユリ子が奈々を優しく抱き上げる。じゅうぶん寝たからか、奈々もご機嫌だ。さっそく3人で露天風呂に向かった。
風呂は宿の裏手にあった。脱衣所で服を脱ぎ、バスタオルを巻いて外に出る。ひんやりとした空気の向こうに、岩で囲まれた湯があった。湯気がもうもうと空に立ち上る。3人ともいそいそとバスタオルを取ってかけ湯をし、足からゆっくりと身体を湯に浸した。
「…ッ!」里沙子、目をつぶって声にならないうなりを上げる。
「はー、いいお湯ー」ユリ子、手ですくった湯を肩にばしゃばしゃと掛ける。
「あったかいねー」奈々、胸までの深さに驚きつつ、プール、プールとはしゃぐ。
ややぬるめの湯は、とろりと軟らかく身体にまとわりついた。静かに開けた里沙子の目に、太陽を反射した水面の光が飛び込む。手ですくった湯だまりにも光の粒が泳いでいた。湯に包まれた身体が、だんだん軟らかく、軽くなる。湯と一体化してしまいそうだ。両手の拳を天に突き上げ、大きな伸びをした。頭の中が白くなる。
さいこうだあ。
ユリ子と奈々がふざけ合う声がだんだん遠くなる。仕事のことも謙治のことも遠くなる。毎日の炊事や洗濯は遙か彼方だ。里沙子という一人の人間だけが、やさしくなったりすっきりしたり、ぼたりとなったりふんわりしたりと七変化する湯に包まれて、浮かんでいる。間近に見える白山から吹くすこやかな風が、湯の表面を滑って里沙子をなでてゆく。

30分も湯につかっていると、山が西日を照り返す夕暮れ。上がればもう夕食の時間だった。座りっぱなし、食べっぱなしの道中だったからそんなに空腹は感じないと思っていたが、疲労が回復すれば、とたんにお腹の虫が騒ぎ出す。準備された浴衣をまとい、3人で指定された囲炉裏の間に向かった。
囲炉裏を囲む板の間には、脚付き御膳と座布団が三つずつ。御膳の上には、金時草のおひたしや鴨と野菜、麩を炊き合わせた治部煮など、加賀の郷土料理が並んでいた。
「さあ、お座りになって。今、食前酒をお持ちしますね」
若女将が運んできたコケモモ酒と奈々用のコケモモジュースで乾杯。口に含み、こくりと飲み込めば全身にすっきりとした甘さが染み渡る。冷酒もすこしお願いして、まずは治部煮の人参に箸を伸ばした。
おいしい。
「あらっ、いいお味!」そう言ってユリ子も口元を抑える。
つい声を上げてしまうのも無理はないくらい、おいしい。味付けもさることながら、野菜や魚、肉の、本来持つうま味、味の濃さが強烈だ。奈々には少々渋いメニューかとも思ったが、しっかりとスプーンを握って、猛烈な勢いで上手に料理を口に運んでいる。わ、この子、少食だと思ってたのに。悔しいながら里沙子の料理ではこうはいかない。まずいものはまずく、おいしいものはおいしい。子どもは正直だ。
「田舎料理ですが、お口に合いますでしょうか」
そう言いながら、若女将は山菜の天ぷらや鮎の焼き物などを次々に運んでくる。どれも揚げたて焼きたて、外カリ中フワで申し分ない。奈々は鮎が気に入ったようで、もっとー、とだだをこねる。
里沙子とユリ子がさんざん料理を賞賛しているところに、失礼します、と背筋の伸びるような声が響いて、龍哉を抱いた若い男と老婆が入ってきた。「お帰りなさい」と言う若女将の隣に腰を下ろす。
「ごあいさつさせてください」
そう言って、若女将が里沙子たちに向き直る。こちら、祖母のキクです。たくさんお褒めいただいたお料理、すべて祖母が担当ですの。そしてこちらは先ほどもお会いしましたが息子の龍哉と、夫の恭平。夫は近所で農園運営もやっておりまして、きょうはそちらで一日中農作業でした。お料理のお野菜はそこで作ったものです」
「きれいに食べてもろてえ、あんやとさんやあ。あんたもかたい子やねえ」
キクはかおをくしゃくしゃにして笑い、奈々の頭をなでた。
「すいません、風呂も入らんとこんな汚いなりで。有希から、龍哉と同じくらいの年の子が泊まりに来たって嬉しそうに電話あったさけえ、どんな子かと思って。ほったらまんでかわいいし!奈々ちゃんっていうげんてな、龍哉と仲良くしたってや」
真っ黒に日焼けした若い男は白い歯を光らせて快活に笑った。ほんなん言わんでいいげんて、と頬を赤く染めた若女将―有希さんというみたいだ―に膝をつねられつつ。裏表のない、すこやかな感じが有希さんとお似合いだ。龍哉くんももじもじしながら、恭平にほらほらと背中を押され、「ゆっくりちてや」と恥ずかしそうに、でも大きな声で言った。合格。

日が暮れれば、宿を取り巻く林の中は漆黒の洞穴となる。月が白山の稜線のはるか上空に浮かんでいる。無数の星明かりが天然の街灯となって、蛇沢荘を照らしていた。
太陽の匂いを吸い込んだふかふかの布団で、ユリ子と奈々は夕食後すぐに眠りに落ちた。
本当にすてきな宿だ。星明かりの夜をもっと見ていたくて、林にこだまする虫の声をもっと聞きたくて、里沙子は眠ってしまうのがもったいなく思った。
「お義母さん、誘ってくれてありがとうございます」
静かにつぶやいた声は、ユリ子に届いたかどうか。ふっとため息をつき、里沙子はふと、もう一度あの露天風呂に入ろうと思い立った。そうだ、一泊しかしないんだし、満喫しないと。今夜は貸し切りでお風呂も24時間入れるって有希さんが言ってた。自分の思いつきに賞賛を送り、バスタオル一枚持ってそっと部屋を出た。
夜の露天風呂は昼とは違った雰囲気で、視野が効かない分だけ触覚や嗅覚が研ぎ澄まされるのか、湯に包まれて目を閉じると、さらさらと湯が湧く音の奥に、夜露をはらんだ湿った風と小さな動物のささやき、虫の声、月光を浴びる木々の太い幹の沈黙―白山麓の林が身体に溶け込むような感覚に襲われた。
「ア・マ・ザ・ケ」の失態、沢井の優しさ、若葉の若さ、謙治の自分勝手、そして自分のふがいなさ―。仕事にまつわるエトセトラがぷつぷつと泡となって里沙子の脳裏に浮かび、そしてはじけて消えていく。
ああ、とけてしまう。
ずっとここで、こうしていたい。目をつむったまま天を仰ぎ、背後の岩にもたれようと重心を後方に移す。湯けむりを散らすように、一陣の風が吹いた。
あれ。
距離感が狂ったのか、里沙子が思っていた位置に岩はない。あっと思った次の瞬間、ぐらりとバランスを失った。しまった、と思うと同時に、ごぽごぽと湯に沈んでいく自分を感じる。水面の向こうに見える月が、ぐにゃりとゆがんだ。
奈々…。(続)

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