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それでも私が走る理由


ランニング中に転んだ。

派手に転倒し、しばらく立ち上がれなかった。

後ろを歩いていた30代とおぼしき男性が、見かねて声をかけてくれた。「派手にいっちゃいましたね。」

歩車分離の道路でなかったため、このまま倒れていたら車に轢かれると思ったものの、体が動かなかった。

男性は、このままだと本当に轢かれると思ったのだろう、私が立ち上がるまで、両手を横に広げて私を車からガードしてくれた。




いい大人が派手に転んだ恥ずかしさよりも、ショックが大きかった。

男性にお礼を言い、よろよろと立ち上がり、自宅に歩いて帰った。



1週間前の出来事である。身体中に貼ったキズパワーパッドがほとんど取れて、昨日からウォーキングを始めた。今朝はゆっくりと、ランニングならぬジョギングが出来た。




ランニング歴は20年以上になった。もともと足は遅い方なので、自分のペースでゆっくり3-5キロ毎朝走るようにしている。

ここ数年でランニング中に転んだのは3回目になる。何度転んで怪我しようとも、私はまた懲りずに走っている。元来、運動は嫌いだったのに、である。

「なぜ私は(転んでも)走るのか」その理由を考えた。





理由はない。

正確には、歯を磨くように、シャワーを浴びるように、「走ること」が私の習慣として生活にとけ込んでいる。頭で考える前に、朝起きて、ランニングウェアに着替えている。

習慣になったのには、理由がある。





走り始めたのは、20代の頃、父が癌で闘病していたときだ。

すでに私は働いていたものの、父の闘病に向き合うには、私も何かをしなければ乗り切れなかった。

その何かが、私には走ることだった。



日に日に弱っていく父に、苦痛に顔を歪める父に向き合うのに、私も「何か」で心をフラットにする必要があった。

ランニングを毎日していたからこそ、私は壊れず、その日々を過ごせていたのかもしれない。



父が他界してからも、ランニングを続けた。亡くなった後の方が、心を穏やかにする「何か」が私には必要だったのかもしれない。

20代、30代、そして40代になっても、私はランニングを続けた。



走り始める前は億劫でも、走り始めると、あるいは走った後は、気分が爽快になることを体で覚えた。

今では時々、マラソンの大会にも出るほどである(出場するのは、いつも5-6キロのコースだけど)。



私の数少ない長く続く、誇れる習慣である。

ランニングが体と心の健康に良いのは言うまでもない。

体力向上、健康維持、美容、快眠、精神の安定などのためにも、シニアになっても走ることを続けたい。




来週の日曜日には、娘と親子ランニングに出場予定だ。その頃には、私の体のキズパワーパッドが全て取れているといい。



転んでも転んでも、立ち上がって走る母の姿を、娘に見せたい。

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