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リーディング小説「美しい子宮~寧々ね~」第二十一話 あなたはまだ、あきらめていない

あなたはまだ、あきらめていない


天正十九年は秀吉にとって、鶴丸様以外にも大切な人達を失った辛い一年でした。
この年の一月、相談相手であり唯一彼に進言できた、弟の秀長が死去しました。彼の死は、わたしにとっても大きなショックでした。
二月は、相談役でもあった茶人千利休を切腹させました。わたしも千利休とは面識があり、何度も秀吉に彼の切腹を止めるように言いましたが、彼は頑として耳を傾けませんでした。そんな彼にわたしは、これまで感じなかった胸騒ぎを覚えました。この違和感の正体はわかりませんが、今までの秀吉とは明らかに違うのです。以前の彼はわたしのに相談し、意見を真摯にとらえてくれました。今回の利休の件は、彼の独断でした。そこにわたしは危うさを感じました。

最近の秀吉は、一回り小さくなったように見えます。鶴丸君や秀長様を失った悲しみで、泣きすぎて身体中の水分が出てしまい、身体がしぼんだようです。目は落ちくぼみ背中は丸くなり、まるで十年分の時間が早巻きされたように、一挙に白髪も増えました。
秀吉は鶴丸様を始め、自分を取り巻いていた人々がこの世を去ることで、あの世の近さを感じたようです。死神が自分のすぐそばにいることに気づいたのです。

跡継ぎを失った秀吉の空虚な思いと死への恐怖から逃げる思いが重なり、彼の眼はとんでもない方向へと向きました。
海の向こうの朝鮮です。
恐れや悲しみを戦で埋めるように、彼の野心は海を越えた朝鮮に手を伸ばしたのです。

戦に気持ちを向けることで、鶴丸様の死を乗り越えようとしたのでしょうか。けれど、わたしにはその姿が痛々しく見えました。
満身創痍の秀吉の目は、どこか狂気を孕んでいるようでした。
煙のように立ち込めた胸騒ぎは、黒い不安の雲になりわたしの胸を覆いました。朝鮮出兵で秀吉が元気になってくれるならそれでいい、とわたしは
その黒雲を飲みこみました。

その年の秋、秀吉から甥の秀次を豊臣の家督相続の養子として迎えようと思う、と相談を受けました。
わたしは一も二もなく賛成しました。
秀次の母は、秀吉の姉です。
秀吉と血のつながりもあります。
これが豊臣の正しい相続かもしれない、と思ったのです。
悲しいことですが、秀吉は一度は自分の願いを叶え豊臣の子を抱けたのです。けれど、本当は秀吉の遺伝子など持っていない子でした。ある意味、いなくなって当然です。
秀吉にはいい夢を見たと、思いあきらめてもらうしかありません。

そしてもう一人、あきらめてもらう方がいます。
わたしはそれを告げる為、淀城に向かいました。
鶴丸様を失い、秀吉も茶々様のところへのお渡りも減っている、と聞いております。
久しぶりにお会いした茶々様も、まだやつれておられました。
わたしは茶々様に告げました。

「茶々様、もう秀吉の子どもを作らなくても大丈夫ですよ。
その必要は、なくなりました」

「えっ?!」

「秀吉は、関白の座を甥の秀次殿に継がせることを決めました。
ですから、もういいのですよ。
あなたはただただ、秀吉のそばにいてやって下さいね」
わたしは精いっぱいの労わりと慈愛を込め、茶々様にお伝えしたつもりでした。
けれど茶々様の顔はみるみる内にこわばり、表情を失いました。まるでわたしは茶々様にひどいことを言ったようで心外でした。茶々様は両手を握り締め、屈辱に耐えているようにお見受けしました。

それでは失礼いたします、と頭を下げ、わたしは早々に淀城を出ました。帰りの輿の中で、わたしは先ほどの茶々様のお顔を思い浮かべました。
鶴丸様を失った茶々様は、豊臣の跡継ぎの生母、という揺るぎない地位を失いました。秀吉には他の側室もおります。
中には茶々様よりも若く健康な女性もいます。
その内の誰かが、茶々様と同じような方法で秀吉の子を孕んだら、茶々様はもう用なしですものね。お気の毒様。
そう思うと、くっくっ、と笑えてきました。わたしはご機嫌で大阪城に帰りました。

やがて秀吉は秀次に関白職を譲り、太閤と呼ばれるようになりました。ただし、秀次に全権を与えたわけではありません。
たとえ身内であろうとも、自分がそのまま実権を握り二元政を行ったのです。もしかしたら秀吉の胸の内に、まだ茶々様や他の側室に子どもができるのかも?というあきらめきれない思いがあったかやもしれません。
けれどわたしは、このまま甥の秀次に豊臣を譲ってほしい、と思いました。
それが豊臣が後の世まで続く穏やかな世代交代だと信じておりました。
やがて茶々様が、秀吉のところにやってきました。
表向きは、秀次の関白就任のお祝いの挨拶、ということでした。
秀吉は茶々様に告げました。
「秀次をわしの養子にした。秀次に豊臣の後を継がせる」

茶々様は秀次の前に正座して、頭を下げて
「秀次殿、まことにおめでとうございます」
とあいさつされました。
茶々様が頭を上げた時、まっすぐ秀次の顔を見て、艶やかに笑顔を向けられました。そしてしばらく秀次の顔を見つめ、頬を赤らめたのです。

この女狐!
わたしは心の中で叫びました。
秀次は秀吉の若く美しい愛人に微笑みかけられ驚いていましたが、まんざらでもない様子でした。
その間、茶々様は一切秀吉の方に顔を向けず無視し続けました。
そして長居をせず、とっとと席退出されました。
去り際にも、秀次の顔をチラリとみて、密やかな意味深の笑みを送りました。秀次は茶々様に見とれていて、義姉にこづかれていました。

天晴れです。さすがです、茶々様。すべては計算ずくですね。
あなたはまだ、あきらめていないのですね。
これから、どんな手を打つおつもりですか?

けれどようやく秀吉が落ち着いたのです。心の平安を取り戻したのです。
どうぞ秀吉だけでなく、豊臣を揺らさずにいて下さい。
わたしは豊臣の母として、豊臣の安泰を望みます。
自分の保身だけを考えているあなたとは、そこが違います。

わたしは自分の視線に思いを込め、茶々様の背中にくぎを刺しました。

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