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黒田鈴尊・尺八独演会を聴いて

 今日は、黒田鈴尊氏による尺八独演会に行った。少し書き連ねる。

 黒田鈴尊氏は1983年福島生まれで、早稲田大学在学中に尺八を始めた。現在、(特に現代音楽の分野において)最も注目すべき尺八奏者である。令和元年度は文化庁文化交流使として海外にも赴き、文字通り国内外で活躍している。

 そんな黒田氏の独演会である。楽しみにやってきた。

 氏はこれまで、独演会ではひとつの公演のなかに古典と現代のどちらをも織り込んで観客が混じるようにしてきたようだが、今回は昼が古典、夜が現代と別れた。わたしは都合により、夜の現代の部だけ聴いたのである。
 わたしにとって、尺八の独演会は初めてだ。会場はサンパール荒川の小ホール。絨毯が敷かれ、シャングリアが光る、結婚式場のような場である。開演前はスピーカーからハイハットで刻まれるビートが聴こえる。尺八の独演会ってこういう感じなの、? と、初めてのことに戸惑いつつ、開演を待つ。

 袴姿の黒田氏が登場すると、横川朋弥《彼岸へ》の日本初演から始まる。90秒ほどの短い作品で、息量の多い「かざいき」と呼ばれる奏法を執拗に繰り返し、作曲者の言葉を借りれば「軽い酸欠状態をつくり、忘我にいたしめること」を導く。声にならない声が絶唱し、それはもはや音を越えて「肉体」の輪郭として立ち上ってくる。門外漢のわたしでさえ何を聴けば良いか迷うことがない。この独演会の持つコンセプトを、文字通り身体を張って伝えているのだろう。

 続くのは、なんとアストル・ピアソラの《タンゴ・エチュード》である。これはフルートあるいはヴァイオリンのために書かれた独奏曲だ。バンドネオンなどで演奏するタンゴを単旋律楽器が独奏するというだけで非常に難しいことなのに、尺八がやるとはどういうことか。しかし、そんな心配は杞憂に終わる。バンドネオンは蛇腹を動かして空気を送り込むことで非常に繊細な音のニュアンスを作ることのできる楽器だが、尺八もまた、息によって作られた音のフォルムが手に取るように分かる楽器である。それぞれの音符は、いわば「からだつき」が明確で、それらが音楽の表現に与し、まったく物足りなさを感じることなくその音楽に惹きつけられる。演奏者本人も語るように「青筋を立てる」ような演奏で、プリミティブな力強ささえ感じられる。

 露木正登の《哀悼歌》とピアソラの小品がまた演奏されると、前半最後に登場したのが藤倉大の《ころころ》だ。本日の白眉と言えるだろう。
 《ころころ》は、同じ作曲者によるホルン独奏曲《ぽよぽよ》や《ゆらゆら》などと同様、なんの楽器だか分からないような、ゆっくり風が吹くような繊細な音色による微動で始まる。現世から離れたような音色に呆気を取られるのも束の間、すぐに奏者の荒い息遣いが見え、その肉体を意識させられる。タイトルの「ころころ」とはおそらく「首振り三年ころ八年」の「ころ」だと思うが、わたしは門外漢ゆえよく分からない。しかし、まるで現実と夢とを「ころころ」と移りゆくように思え、その愉しさに浸った。

 休憩が入り、後半は足立智美《古代中国の実験音楽第5番》から始まる。これも委嘱作品のようだ。舞台上には鉄製のスタンドが置かれ、そこに括り付けられた枯れ木から、何か小さくてカラフルな部品がぶら下がっている。それは神社にある紙垂のような形で、無数のそれがドーナツ状に繋がっている。遠目なのでよく分からなかったが、どうやらこれが楽譜のようだ。黒田氏は三尺以上ある大きな尺八と共に、その楽譜に立ち向かう。楽器から漏れ出る息によってその「楽譜」はひらひらと動き、回転する。音楽上の仕組みは分からないが、偶然性を利用していることは間違いなさそうだ。楽譜が演奏を動かし、演奏が楽譜を動かす。尺八と奏者の肉体がその媒体となる。

 実験的な足達作品のあとには、パルジファルの主題のようなものに始まる木下正道《すぐ傍らのもの》が演奏され、またピアソラが入ると、最後の西村朗《耿》が演奏された。黒田氏は「音と光になれるように」と言う。

 邦人作曲家による現代音楽にピアソラが顔を出すプログラム。これが終了すると、アンコールで古典作品が演奏された。これが実に素晴らしかったのである。
 その本曲がどのようなものなのか、やはりわたしには分からない。しかし、不思議なものだ。こうも尺八の独奏による現代音楽を聴き続けたあとだと、古典がむしろ現代音楽に聴こえる。もちろん、西洋音楽に馴染みのあるわたしにとって、西洋音楽的な語法で書かれた現代音楽のほうが邦楽よりも身近だということはあるだろう。しかし、そうではなくて、本曲が、まるで違うように聴こえたのだ。

 すなわちわたしがこの独演会のなかで聴いていたものは、技を磨くことによって自らを消し去って辿り着くような悟りの果てではなく、眼前に広がる肉体のリアリティだった。わたしはこれまで前者のようなものを尺八の世界に見てその音楽を聴いてきたが、この公演を聴いたあとではそうは聴こえなかったのだ。そこにあるのは「無」だとか「音」だとかではなく、ひとりの音楽家・黒田鈴尊の肉体の軌跡に違いなかった。そしてそれは、心に迫るものだったのだ。

 これは昼の部も聴けたらよかったのにと心底後悔しながら帰路に着いたのである。

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