パステルカラーの恋 15
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さくらから退院したという嬉しいお知らせのメールはちゃんと届いていて、わたしは密かに喜びの涙を流した。けれどもそのメールに対しての返信をわたしは打てずにいた。メールでやり取りをすれば、またすぐに会いたくなるのは火を見るよりも明らかだ。メールや電話だけして会わない、なんてそんな器用なまねを、わたしには出来そうもなかった。
無視する訳ではないが連絡だけを受け取り、胸の中で良かったと呟くのみで収めていた。このわたしの行動はわたし自身も辛かったけれども、さくらをもっと辛い目に合わせているだろうと思う。酷い事をしてしまっている後ろめたさが、いつもわたしの心を責め続けた。それはじわじわとわたし自身を苦しめた。何度も何度もこれでいいのかと自問自答したが、堂々巡りの連続で納得行く答えには辿り着けないまま、日々は過ぎて行った。いつか時が解決してくれるのを待っていたのかも知れない。雪解けの日を……。
それ以前にジュリアからもメールが1通届いていた。病院に行ってさくらに会って来たという内容だった。ジュリアがどういう手を使ってさくらの病室へ入れたのかは知らないが、ジュリアによると、さくらの意識は戻ったからもう安心して大丈夫というものだった。
その知らせはさくらの退院する1週間程前の事だった。それとは無関係だと思うが、その日の昼間にちょっとした思いがけない体験があった。
その時わたしはガソリンスタンドの狭い事務所で伝票整理の仕事を、ひとりで行っていた。それは、ほんの一瞬、2,3分程の出来事だと思うが、突然意識を失い、一風変わった夢を見た。
白昼夢とでも言うのか、日中それも仕事の最中にそんなことに襲われるとは思ってもいなかった。このところいろいろな出来事があったので精神的に疲れてしまっていたのかも知れない。
ただ、その白昼夢というのは、衝撃的な内容だった。目を覚ました瞬間、まざまざと脳裏にくっきり残るその映像に思わず「まさか、今の何?!」と、声まであげてしまった程だ。
幸いその時間帯は事務所内にはわたしの他に誰も人がおらず、わたしの居眠りを責める者はいなくて助かった。
しかし、それからその映像は、何度もわたしの頭の中でリフレインして再生された。その夢は一体なにで、わたしに何を与えてくれるのだろう? 何だかひとつの啓示みたいなものを受け取った。そんな気がしてならない。
さて、その頃わたしは、事務の仕事と並行して簿記会計の勉強を進めていた。そうする内にわたしが求めていた仕事はこれだったのではないかという確信めいたものを感じていた。
伝票を整理して仕訳をし、パソコンの財務会計ソフトに金額を入力をして行く。それ以外にも納品書や請求書、領収書などの帳票を管理し銀行や手元現金の支出を管理し記帳する。月末には試算表や出納帳、総勘定元帳などを印刷する。
そう言った一連の作業によって企業のお金の流れや、売上、仕入、損益等と言った経営状況を把握する計算書が作成される。これまで現場で働いていた作業がこの様に営業成績となり数値化される。それらを元に事業の分析をし、次なる経営戦略に反映させる。組織を存続させて行くための指針でもある。その事に面白さを感じた。
わたしは経理の仕事がしたい。
はっきりそう意識して考える様になった。何かわたしの中の意識がぐっとそちらに傾いて行くのを認識した。
その事を叔父である社長に話をすると、大いに喜んでくれた。聞くと商工会議所が主催する簿記検定試験というのがあるらしく、とりあえずわたしは基本的な三級の資格を目指して勉強を開始する事にした。
この試験は三級、二級、一級と進んで行くごとに専門的に難易度が上がるものの、一級を取得すれば、さらにその上、税理士試験の受験資格を得られるらしい事が分かった。現在の時点においてはそんな先の事までは考えられないが、三級の試験を合格めざしてその日から頑張る事に決めた。大きな目標が出来たことでわたしの胸は喜びと希望で溢れた。
それには父も母も大賛成で喜んでくれてはいたが、まずは試験に受かってから喜ぼうとわたしは自分自身を戒めて努力を怠らない事を心に決めた。
思えば不登校の自分がこうして少しでも社会に踏み出し、目標を持てたのだから、女性装として生きる事を決めてから着実にわたしはわたしの人生を歩み出したと思える。きっとそうに違いない。
その日、コンビニの方の仕事を終え、私服に着替えて裏口から外へ出た所で、わたしはその女性と目が合った。どこかで見た事があるのだが、すぐには思いだせなかった。
彼女はわたしを見るとゆっくりと近付いて来て、こう声を掛けた。
「あんた、美和さんでしょ。ちょっと顔貸してくれない」
いきなり現れて顔を貸せとは突然過ぎる物言いだったが、その時になってその女性が誰であるのか思いだした。
「……さくらの、……妹さん?」
「そうよ。覚えてるでしょ」
女性は少女の様なあどけない顔でニヤリと笑った。
香山菫(かやますみれ)、彼女の乗って来た車に乗り込んで、さくらの妹は自分の名を名乗った。そう言えば前回会った時は母親が話をするばかりで彼女は一言も声を発しなかった。やたらと睨まれていたことだけ覚えている。
「それで何か御用ですか?」
「御用? 御用って程のものじゃないけどね」
車は走らせていない。コンビニの駐車場の一角に車を停め、その中で話をしている。
「今、お兄ちゃんがどういう状態でいるか、あんた知ってる?」
「さくら……さん、退院したとは聞きましたけど、その後どうかされました?」
「一旦実家に戻ったんだけどね。ほら、うちの親があんたとこへお金持って行った件がばれちゃってね」
例の手切れ金の話だ。
「え、それで……?」
「大喧嘩になっちゃってね。家を飛び出してアパートの方へ戻ったは良いんだけど、脚がまだ悪い上に興奮したもんだから、熱出しちゃってね。もう一週間近く寝込んでいるわ」
「え、それは全然知らなかった。最近電話もメールも来なくなったのはそういう訳だったのね」
「ま、あんたに責任はないんだけどさ。そう、悪いのはうちの親だよ」
菫はカバンからガムを一枚出して口に入れてクチャクチャと噛み出した。
「あ、いる?」とわたしの方にもガムを一枚差し出す。
いえ結構ですとわたしは断った。だが、この娘、口や態度はあんまり良くないけど、そんなに悪い子じゃ無さそうだ。顔もよく見りゃ可愛い顔してる。
「それで、わたしにどうしろと?」
「それなんだよね~」
菫は顔をしかめて手を振ってみたりして、突然窓のウインドウガラスを下げた。わたしは窓の外に噛んだガムを吐き捨てるのかとひやりとしたが、単に空気を入れ替えただけだった。
「こんなこと、私がお願いするのも、変だけどさ」
「変?」
菫はたっぷりと妙な間合いを取って何か考える素振りをした後、ようやく決心した様にこう続けた。
「…電話か、…メールしてやってよ。お兄ちゃんのところへ」
窓から風がひとつ吹いて、わたしの髪を揺らした。
「わたしが……」
「まあ、気が向いたらでいいんだけどね」
「・・・」
わたしはすぐには返答できずに、暫く黙った。
「そんじゃ、それだけ。ごめんね、足止めさせちゃって」
菫はそう言うと、その場にわたしを下ろして車のエンジンをかけた。
走り去る前に、もう一度窓を開けて、「私が来た事は内諸よ」と、照れた様にちょこっと舌を出して笑う。最後はとても可愛らしい顔を見せた。
それから三日も経つと、もう街はクリスマス一色になりかけていた。まもなく一年も終わるんだなと、この時季になると毎年思う。今年は良い事も良くない事もたくさんあったなとテレビを観ながらそんな事をぼんやりと考えた。
菫に言われてわたしは昨日の夜遅く、さくらに一通のメールを送信した。元気にしていること、簿記会計の勉強を始めたこと、そして最後に怪我の具合と風邪が早く治ります様にと淡々と余計な感情は込めず近況報告という体で送った。特に返事は期待しないでおくことにした。無理だけど。
クリスマスは仕事以外、特に何も予定が無かったから家で家族揃ってクリスマスパーティをしようと父が一人で盛り上がって部屋を飾りつけた。わたしと母で鶏肉を使った料理を作ったり、ケーキを買って来てテーブルに並べて、そこそこに華やいだ雰囲気になった。
後はデリバリーで注文したピザの到着を待つだけだ。クリスマスで1時間待ちの状態だったけれど、もうそろそろ来てもいい頃だ。父はそわそわして玄関の方を見てはウロチョロしている。
と、そこへ玄関のチャイムが鳴った。
「おー、来たか!」
父は喜んで走って玄関に向けてドタドタ音を立てて走って行く。まったくこんな時は大概こどもみたいになる。男という者は大体こんなものだろうか。いやうちの父は特に変わっている。良い方にだけど。
すると、ほんの少し静かになる。
どうしたのかな、と思っていると、
「おい、美和」
と突然父が廊下から顔だけ出し、小さく手招きして、わたしを呼んだ。
「なあに? お父さん、ピザはどうしたの?」と母が訊く。
「いいから、いいから、そうだお前も早く来なさい」と母にも手を振る。
なんだ、なんだ、とか言いながら、親子三人で玄関に続く廊下を縦に並んで進む。こんな場合、大抵わたしが一番ビリになる。
「えっ!!」
先に行った母が声を出す。
父と母の背中越しに背伸びをして、わたしも玄関ドアを覗いて見る。
その瞬間、わたしは驚きのあまり声さえ出せずにいた。
そこにはなんと、片方の腕で杖をついたさくらが、照れた様な笑みを浮かべて立っていたのだ。
手にはピザを持って。
次回『最終話』へ続く
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