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約束の時間

僕達は黙ったまま歩き続けた。他に人も車も通らない周りを木立に囲まれた静かな長い一本道だ。僕は道の右端を彼女は道の左端を歩く。その距離はおそらく2メートルと少し、お互いが手を伸ばせば指先が届くか届かないかの距離だ。本当は彼女の顔を見た瞬間から駆け寄って直ぐにでも抱きしめキスをしたかった。でも出来なかった。今はそれを人がしてはいけない事になっている。例えばそれが命令だったら僕はそんなものクソ食らえとばかりに心の思うまま衝動に身を任せ今すぐ彼女と抱擁と接吻を繰り返していたはずだ。なのにそれが出来なかったのは、それが「お願い」だったからなのだ。その人は言った。「どうかあなたやあなたの周りの大切な人の命をお守りください。あなたの行動がこの危機を立ち直らせ世界に再び平安をもたらす事が出来るのです。今こそ頑張ってこの困難に打ち勝ちましょう」その言葉に間違いはないと思うが果たして1人の人間が出来る事なんてどの程度の物事だろうか?確かに自分1人が何をしたところで世界が大きく変わる事なんて有りはしないだろう。だから何度も何度も頭の中で自問自答を繰り返した。今すぐ彼女の元に駆け寄って全てを忘れ本能に身を任せたい。そうしよう、そうしよう、そうするべきだ。胸の内から湧き上がる何かに耐えきれず身体や足が痙攣する。けれど、その度にそれで良いのか?それで良いのか?ともう1人の自分が心に問いかける。

今僕達は神に試されてるのかも知れない。

こんな事がこれまでにあっただろうか?いつでも僕らは自由のはずだった。愛する事が一番大切だとジョンレノンも言ってたはずだ。それが今は、愛してるのに愛する行為が出来ない。人と人が触れ合えない、そんなもどかしさで歯痒いばかりだ。今までこんな辛く惨い事があったか?僕は殆ど涙に滲んだ瞳で隣を歩く彼女を見る。彼女も僕と同じ様にマスクをして目にいっぱい涙を溜めている。その瞳は何かを僕に訴えかけているみたいで、その哀しげな表情を見ると僕はまるで誰かに心臓をギュッと掴まれたみたいに身悶え息苦しくなる。手を伸ばせば触れ合える距離にいながら何も出来ないなんてそれだけで気が狂いそうだ。どうすればいいのか…、心の中で静かに激しくもがき苦しむだけで何も答えが出ない。一言も言葉を交わさぬまま僕達はひたすら歩き続ける。道の両側は深い木立に遮られて街の騒音はここまで届いて来ない。そこで暮らす人達の声も聞こえない。今僕達は不安で悲しくやるせない毎日を過ごしているが、世の中にはおそらくもっと絶望に苛まれてる人々がいるだろう。何も僕達の苦しみはそれよりも軽いものだとは言わないが、人にはそれぞれ違う悲しみや苦しみ、そして絶望があるのだろう。しかしそれと同時に希望は捨てられないものとして心に残されているはずだ。疑う事は簡単で信じる事は難しい。今僕は自身の無力感しか感じられないが、彼女に触れない事が彼女のためになるのなら、ものすごい努力がそこに必要だけど、今出来る事はそれしかないなら、ひたすら耐えるしかない。それしかないんだ。他に何も出来ない。ごめん。仕方がないんだ。僕は君を見つめる。君も同じ気持ちでいてくれるだろうか?

やがて道は終わりを迎える。約束の時間はここまでだ。改めて僕達は向かい合う。彼女は優しく微笑み小さく手を振る。同じ様に僕も掌を見せる。明日も会えるよね。暗くなり始めた空を見上げて僕は静かに祈りを捧げた。

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