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ハロー・ダークネス・マイ・オールド・フレンド 3 後編

3 後編

何も答えが纏まらないまま一週間が瞬く間に過ぎた。高城はまだ逡巡していた。
高城はふと思い出す。
あの日、家族を死に追いやった大企業の会長を刺そうとして失敗した。
警察に逮捕される前に自死を選び、ある薬品を口に含んだ時、高城の前に現れたのが山根と老婦人だった。
高城を匿い、一般の病院では手の施し用のない状態から蘇生させたのは老婦人が持つ秘密組織であった。
それから高城の暗殺者としての人生が始まり、その最初の仕事として未遂に終わった復讐をそこで高城は暗殺者として果たした。だから二重の意味で老婦人には恩がある。

闇の仕事は長く続けるものではない。
いつか老婦人が高城に呟いた言葉である。
老婦人はそれを自分の命と引き換えに終わらせようとしているのか。
そう思うと、この仕事をやり遂げる事が高城に出来るただ一つの恩返しの様にも思えて来る。
いずれにしても命令に逆らう事は出来ない。両手の拳をぐっと握り締める。
時間が来た。
山根が迎えに来ている筈だ。
高城は心を無にして、使命を全うする事だけを考えた。
感傷に浸ったり、感情に流される事がこの仕事をする上で一番良くない。
拳銃を内ポケットにしまい、表通りに出て、山根の車に乗り込む。
ドアを開けて乗り込む瞬間、誰かの視線を感じた気がして高城は辺りに目をやった。
「どうかしたか?」
山根が訊く。
「いや、気のせいだ」
高城の返事に山根は自分の感じていた違和感を重ね合わせた。
洋館を出た時から、誰かにつけられている、そんな気がしていたのだ。
何度も迂回路を周り、誰が追跡しようと撒いてしまえるルートを走って来た。
それでも高城の言葉を聞いた瞬間、山根の脳裏に不穏なものを感じた。
念の為、またも別ルートを周りどんな追跡もさせないように現場に向かった。
現場とは、もと来た場所、一本道の先、丘の上の洋館、その裏にある温室であった。
いつか高城が老婦人と会談した場所。
そこで老婦人はただ一人その時を静かに待っているはずだ。

高城にとって今度の仕事は、仕事としてはこれまでの中で一番容易い仕事であった。
何しろ相手は何の警戒もせず、それを待っている状態なのだから、本来なら隠れる必要もなく、近寄ってバンと一発決めれば良いだけの話だ。
邪魔する者もいない。
たったひとつ大きな邪魔をするものは自分自身の感情であった。
老婦人をこの目で見た時、高城は引き金を弾けるのか。それこそ心を無にしなければ出来そうにもない。
非常に簡単でかつ一番難しい任務となった。
これが最後の仕事なのだ。
やるしかない。
山根もそれを分かっている様だった。
口数が少ないのはいつもの事だが、どこか妙に緊張感が張り詰めている。
そんな気がした。

随分遠回りをした後、車は洋館に辿り着いた。
車を出て建物裏の温室に向かう。
山根を温室の前に残し、高城一人が中に入る。
何百とある熱帯植物の影から老婦人の姿を確認する。
以前見た時と同じ、背筋を伸ばして優雅に紅茶を飲んでいる。
左手でソーサーを持ち右手でティーカップを持つその姿は病魔に侵され余命幾許もない人間とは到底思えぬ気品に溢れていた。
また死を待つ者の姿にも見えなかった。
危うく高城は余計な感傷に浸ってしまう所だった。
相手を人間と思うな。
ターゲットとしてものを見る。
暗殺指導者Xの教えを思い出す。
最後の仕事をやり遂げるしかない。
それも老婦人のためだ。
そう思う事にした。
高城は内ポケットから拳銃を取り出し、ターゲットに狙いを定めた。


山根は背後に忍び寄る人間の存在に気付いた。
それは高城を迎えに行く前、いや、実際はもっと以前から、ここ数日、常に誰かに監視されていることを感じていた。今それが確信に変わった。
誰かが山根の行動を見張っていた事は確かだ。
その人間はじりじりと山根との距離を詰めようとしている。
突然、山根は振り返り身を屈めて拳銃を構え、
「誰だ!」と声を発した。
その瞬間、山根の足先で弾丸が弾けた。
咄嗟に山根は温室のドアを開け、内側に入り込んで、植物の陰に身を隠した。


老婦人が持っていたティーカップが地面に落ちて粉々に砕け散った。
高城は植物の影から姿を現し、ターゲットを確認する。
椅子に座ったまま、老婦人は事切れていた。
それは眠っている様にも見えたが、もうこの世の人ではなかった。
一瞬の事だから痛みを感じる暇も無かっただろう。
仕事を終わらせた高城は、静かに手を合わせた後、深々と頭を下げた。
そして温室の出口に向かう。
その刹那、銃声を耳にした。
温室のドアが開き、山根が転がり込む様に中に入って来て植物の陰に身を横たえた。
「何があった?」
高城は山根の元へ駆け寄った。
「足先を撃たれた。どうやら狙いはお前の方らしい。相手はプロだ。気を付けろ」
高城はそれがあのSPの仕業である事を咄嗟に感じた。
「済まない。俺のせいだ」
「そんな事はどうでもいい。使命は完了したか?」
「ああ、そちらは間違いない」
「よし、分かった。この温室には裏側に秘密の出口がある。そこから逃げろ。その向こうに漆黒の闇が広がる。その中を走って行けば、やがて隣町に出る。携帯は持ってるな」
「ああ」と高城は頷く。
「また連絡する。俺の事は心配するな。行け」
高城は多少迷ったが、ここは山根の指示に従う。

井上は温室の前に来て中の様子を伺った。
下手に飛び込むと自分がやられる。
手で触れてみて気が付いた、この温室は全て防弾ガラスで、囲われている。
つまり、外から撃っても中から撃ってもこのガラスを撃ち破る事は出来ない。
追跡していた男の脚を撃った。追い詰める事は出来そうだったが、標的はその男ではない。あくまで暗殺者の方だ。
井上は温室の周囲を注意深く見て回った。
すると微かだが、温室の裏で物音がした。
足音を殺してそちらに向かって走る。
温室の裏手にボイラー装置の様な機械が添えつけてあるのだが、その下辺りの地面に蓋があり、そこから誰かが逃げ出した形跡がある。
見ると裏に広がる漆黒の森の様な闇の中に走り去る後ろ姿を見た。
あいつだ!
間違いない。あの日、雑木林で見た暗殺者が走る後ろ姿。
井上は躊躇なく後を追って闇の中に走り込んだ。右手にはしっかり拳銃を握っている。

そこは思った以上に暗闇だった。
所々に木立があるが、あの時の雑木林程には行く手を遮る物はない。ただ闇が深く、普通の人間ではまず立ち入れないだろう。自然が作り出した闇だろうか? それとも人為的な何か……。
しかし、こういう場所での切り抜け方を高城は充分に訓練されて来た。指導者Xからは銃の手捌きだけでなくいろんな事を教わった。その中でも暗闇の移動には特に時間を割いて訓練を重ねた。それはこの日のためのものだったのか。
いや、もっと以前、高城は自分の人生そのものが暗闇を走り通して来たものだと感じていた。
子供の頃、家は貧しく常に誰かから隠れる様にひっそりと暮らしていた。
借金取りから隠れるために電気も点けずに暗い中でご飯を食べたことがある。
夜中に戸を叩き追い立てる声から逃げるため、押し入れの中に閉じこもったりした。
夜逃げの経験も一度や二度ではない。
両親を亡くした後、昼間働いて夜学に通った。しかし、そこでも悪の道が待ち受けていた。
一度足を踏み外してしまうと、悪の道への誘惑から逃れられなくなる。全ては金のせいだった。
それは成人した今も変わらないと思った。
老婦人と出会い、命を救われ、闇の世界で生きる手立てを見つけたのは幸いだったと言えるが、表社会からは程遠い場所にいる事に変わりはない。
やはり高城にとっての人生は、暗闇の中を走り続ける運命なのだ。
だが、高城は暗闇を愛していた。
暗闇こそたったひとつの古い友達の様な存在である。そこに安住を求めていたのだ。
おそらく追って来るのはあのSPの男。
だからこそ、ここで負ける訳には行かない。
しかし、あの男の執念にも恐れ入る。
何故、そこまで追い詰めようとするのか、ひとつ間違えれば命の危険に晒されるというのに。
そんな思いを抱えながら高城は暗闇の中をひたすらに走り続けた。

井上はこんな場面も想定してペンライトを持参していた。時々それで周囲を照らして辺りの状況を伺い、相手の行方を追う。
あまり長くライトを点けたままだと、相手に自分の居場所を教えてしまう事になるので、点けて周囲を確認したらすぐ消し、その場を離れる。
この闇の広がりがどこまで続くのか分からないが、方角から考えて、隣町まで後数キロという距離か。町に出てしまうと逃げられる可能性が高くなる。
出来たらこの暗闇の中で相手を捉えたいが、少し距離を離された事は否めない。
勝負は隣町に出る手前の少し明かりが見えた所にあると井上は踏んでいた。
頭の中でこの地域の地図を広げて、辿り着きそうな場所に予測を付け、最短距離で移動する。少しでも男の姿を確認出来たら、一気に拳銃を引き抜く。

高城の目の前に隣町の明かりがチラチラと見え始めた。
どうする? 一気に暗闇を抜け出して町に出るか、暗闇でこのまま息を潜めて相手をやり過ごすという選択肢もある。
山根が撃たれた事を思うと敵は相当、腕のある男だ。
町に出るより暗闇にいた方が有利かも知れない。
それも夜が明けるまでの間だけれど、どうする。
高城は立ち止まった。明かりが差し込む場所は本能的に危険だと感じたからだ。
もしも、敵と向き合った場合、勝ち目があるとしたら、暗闇の中でしかない、と高城は考えた。
ここで追って来る敵を撃つ。
それを決心した。

井上の目にも隣町の明かりがチラチラ見え始めた。
追っている暗殺者の姿は見えない。
もしかしたら待ち伏せして隠れている可能性がある。
井上はペンライトを胸ポケットにしまい、拳銃を両手で固定していつでも発砲出来る態勢を取りながら進んだ。
カサリと葉っぱを踏む音を立ててしまった。パンと音がして、井上の頬の辺りを光の矢の様な弾丸が掠めて行った。
男との距離は10メートルか20メートル、そんな所だろうか。
井上は木の陰に身を隠した。
相手は気配を殺している。
このままでは打つ手がない。
ここまで走って来た息苦しさもあり、息を殺すこともままならない。
考えた末、一か八かの作戦に出る
「おい、聞こえるか」
突然井上は声を上げた。
相手からの返事はない。
「ここまで来たからにはお互い名を名乗ろう。どうせどちらかはここで死ぬ運命だ。俺は井上だ。以前永野のSPをしていた。知ってるな」
相手の返事を待ったが、放った声は闇に吸い込まれるばかりで、返事は返って来ない。
そこで井上は手の内を晒す様に告白をした。
「お前の事は以前から知っている。とある大企業の会長のSPをしていた時だ。あの時会長を撃ったのもお前だったな。もう5年も前の話だ。お前の名前は、城山高広だな」


突然の声掛けに高城は戸惑った。
永野の暗殺前から井上と名乗る男が自分を知っていたというのは驚きだ。
しかも高城の本名まで知っている。
これが最後の勝負かと肝を据えた。
「よく覚えていたな」
高城は返事をした。
ややあって、
「あれは俺の失敗だったからな」
井上はそう答えた。
「永野の時に気が付いたのか?」
「ああ、あの雑木林の先にあるコンクリートの上にお前の顔を見た時、一瞬で気が付いたよ」
「失敗の仇討ちをしたいのか?」
「仇? 笑わせるな。取り逃した害虫を始末しようとしてるだけだ」
漆黒の闇の中で2人の声が空気を震撼させる。
「俺から言わせれば、あの大企業や政治家を守ろうとしているお前らの方がよっぽど害虫だ」
ほんの少しの間。沈黙。
「いずれにしても、ここで決着を付ける」
闇の中から井上の声。
高城は黙った。

辺りを再び静寂と闇がしっとりと包んだ。
2人の男の静かな呼吸の音だけが辺りに響いた。
井上が一歩踏み出す。
すかさず銃声が轟き足下を掠める。
高城はすぐ側にある木の裏側に移動しようとした。発砲した事で自分の位置が相手に知られる。
その瞬間井上は拳銃の引き金を弾く。
バシッと音が通常より大きく聞こえた。
高城はその場に倒れる。
撃たれたのは左脚の太腿あたりか、擦り傷だが、焼けつく様に熱い。
井上がまた一歩踏み出す。
倒れたまま高城が引き金を弾く。
パン!乾いた銃声。
井上の左腕から血飛沫が飛び散る。
蹲る井上。
高城は狙いを定める。
暗闇の中なので勘に頼るしかないが、方向に間違いはない。

「なあ、ひとつ訊いていいか」
今度は高城から再び声を掛けた。
「何だ」
「何故、俺達は殺し合わなければいけないんだ」
井上はほんの少し、言い淀んだ。

「そういう宿命なんだよ」
「宿命……?」
「こういう生き方を選んだんだ」

「お互い、別の立場で出会いたかったものだな」
「それはつまらぬ感傷というものだ」

「こういう人生もあると言う事か」
「俺が終わらせてやるよ」
「それはどうかな?」

高城は暗闇の中、相手の姿を捉えて手を伸ばして拳銃を構えた。これで決める。
その時、一瞬の光に包まれた。
それが高城の虚をついた。
井上の拳銃から弾き出された弾丸が、高城の右手を拳銃ごと吹き飛ばした。
バシッ!
「うっ!」高城は思わず唸り声をあげて、仰反る様に倒れる。
井上はペンライトを点けて口に咥え、狙いを定めていた。

高城の拳銃が弾き飛んだのを見届けるとペンライトを向けながら井上が立ち上がり高城の元へ近付いた。
ペンライトの明かりの先に横たわる高城の姿が見える。
右手は血だらけになり、左手は弱々しく掌をこちらに向けている。
顔を歪ませたまま井上を睨むしか出来ない。
「残念だったな。これで終わりだ」
と倒れている高城に銃口を向ける。
井上は引き金にかけた指先に力を込める。
高城はぎゅっと目を瞑った。

暗闇の中で銃声が響き渡った。






ドサリと音がして倒れたのは、

井上であった。


倒れた井上の向こう側に
山根が佇んでいた。
差し出した手には拳銃が握られている。

井上は即死していた。

山根は倒れている高城の側までやって来た。井上に撃たれた右足をやや引き摺っている。
無表情で高城を見る。

「行くぞ」

高城は立ち上がって、飛ばされた拳銃を拾う。
その動作を見ていた山根は、ふと思いついて尋ねる。

「ワザとだったのか?」
「まさか」

「まあいい」
山根は少し表情を変えた。

洋館の方に向かって並んで歩き出す。
2人の暗殺者の後ろ姿が、再び闇の中に消えて行った。

長い長い夜はもうすぐ空けようとしている。



それからの事をいくつか話しておく。
老婦人は死んだ。
その処理は組織の手により秘密裏に行使され、全ては闇に消え去った。
井上の死体もまたしかりである。
身寄りのない無職の井上には、ただの失踪者として取り扱われ捜索する者はいなかった。
洋館は山根が所有する建物となったが、山根の所在は誰も知らない。
組織の存在もまた誰も知らない。
高城は、莫大な遺産を受け取り、南の方の島に移住して静かに暮らしているという。
もう高城でもなく、城山高広でもなかった。
彼の新しい名前は……、


それは、
言わないでおこう。
全ての出来事は暗闇の中に置いて来たのだから……。


暗闇を怖れる事はない。
暗闇は友達だから。
そう古い古い友人なのだ、


《終》

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