その夏のこと
【教室】
開け放たれた窓から蝉の鳴き声が聞こえる。じわりと吹き出す汗でシャツが濡れて素肌に纏わり付く。パタパタと下敷きで煽ぐ者もいる。スマホに夢中になっている者、一生懸命ノートに板書きを写す者、ただぼーっとして時の過ぎるのを待つだけの者、様々だ。
ここで繰り返される毎日が将来何かの役に立つのだろうか、ふとそんな事を思う。一番後ろの席からみんなの横顔や後頭部そして背中を見ていると、一人一人同じ様でいてどこか違う。それを個性というのだろうか?
そんな時、僕はよくノートの端に見ているものをイラスト書きしては楽しんでいた。その時見たものを描き写す事で脳裏に刻み込んでおく。その行為に何の意味があるかは分からないが、一瞬を切り取るという作業に何かしら心を奪われていた。
その中でもとりわけ数多く描いていたのが、窓際に座る彼女の横顔だった。凪という名前のイメージ通り、彼女の周囲だけ空気が違って見えた。そこだけ風が凪いだ状態、一種のエアポケットに迷い込んだみたいに何故か僕の目は釘付けにされてしまうのだった。
そのノートに描いたイラストは誰にも見せる事は無かったが、一度だけ悠也に見られてしまった。そして、彼は僕の唯一と思える親友だった。
【電車】
帰り道は大体いつも悠也と同じだった。部活は別だったものの帰る方角が一緒で、同じ時間帯になる事が多く、電車を待っていると彼が現れる。
爽やかな笑顔で人懐っこい彼は友達も多く、女子にも人気があった。
そんな悠也と僕は何故か気が合い、互いの家にも行き来するそんな間柄だった。
その帰りの電車ではたまに凪の姿も見かけた。彼女はいつも一人でドアの辺りに佇み、窓外の流れる景色に目を向けていた。
そんな彼女の姿もまた僕は心の中に刻み込み、後からそれをイラスト描きしたものだった。
ある時、ほんの不注意で僕は電車の車内に走り込んで来たサラリーマンとぶつかり、床に倒れてしまった。幸い大したケガもなく、一時の恥ずかしさに耐えて、立ち上がったのだが、鞄の中の物が床に散乱した。
直ぐにそれを拾い集め、失うものは無かったのだが、開いたノートのページから凪の姿がいくつか他人目に晒されてしまった。
それを事もなげに拾って手渡してくれたのが悠也だった。
直ぐに礼を言い、慌ててそれを鞄に仕舞い込んだ。もしも、それを凪に見られていたら、僕はどうしていただろう。
【街角】
その当時僕は週末、表参道のファーストフード店でバイトをしていた。パステルカラーのエプロンと帽子を被り午前中から夕方までソフトクリームやアイス、シャーベットなどの販売をした。
店に来る客は殆ど中学生くらいのグループか観光客、たまに外国人なども混ざったが、いつも同じ様な顔の知らない人達ばかり。
ところがある日、思い掛けない出来事があった。
いつもの様にソフトクリームをコーンの上に要領よく巻いて、接客用のスマイルで「お待たせしました」と明るい声を出して客に手渡した。
そこで見たのは、笑顔の凪だった。
一瞬、僕の思考はそこで停止し、ストップモーションに切り替わった。
何故、彼女がここにいるのか、自分が何をしていたのか、それでいて商品を手渡す時に触れ合った指先だけが妙にリアルで、そのシーンばかりが何度も頭の中にフラッシュバックした。
声を出す間もなく、凪は人混みに消えた。
それから先の記憶は曖昧で、その日どうやってバイトを終わらせ、家まで帰った来たのか。
あんなに真正面から自分に向けられた凪の笑顔を見るのは初めてだった。
彼女は何故そこにいたのか、ショッピングのついでだろうか。
バイトをしている僕に気付いてくれたのだろうか。あの笑顔は、ショップの店員にではなく、クラスメイトの僕に送られたものであるに違いない。そうであって欲しい。
【海岸】
夏休みの間中、僕はずっと凪への想いを募らせていた。いっそのこと当たって砕けろとばかり告白してしまおうかとも考えた。
だが、今の段階でそれはあまりにも無謀だと思い止まった。何せ僕はまだ凪と親しく言葉さえ交わしてもいない。友達でもない、ただのクラスメイトにしか過ぎない。
どうしたら自然な形で彼女に近付けるのか。想いは胸の中でもやもやと燻った。
そんな折、ふいに悠也から連絡があり、海を見に行かないかと誘われた。そうだ、海を見ながら悠也と話してみたい。突然、そんな気持ちが舞い降りて来た。
僕らは一緒に海岸へと出掛けた。
その時の僕は恋愛についての相談相手を探していたのかも知れない。それには親友の悠也はうってつけの相手だった。
夏も終わりに近付いた夕暮れの海岸で、僕らはほんの少し秋が混ざった潮風に吹かれていた。
けれど、悠也もまた恋愛について悩む人だった。
恋愛相談を聞いてもらおうと思っていた僕の思惑は外れ、逆の立場に立たされてしまった。
悠也の恋は辛いものだった。好きな相手が別の誰かに恋してる、それを知ってしまったという。
それでも笑顔を見せる彼に、僕は何も言えずにいた。ただ、いつもの様に悠也の事を羨ましく思うばかりだった。
爽やかなイケメンという見た目の事だけではない、誰とでも気軽に話が出来、人から愛される存在。
もし僕が彼だったら、もっと凪との距離を上手く縮められていたのだろうと思う。
そんな自分だったから、いつまでたっても、悠也の想いに気付かずにいた。
ただ寄せては返す波をいつまでも一緒に眺めては、夏の終わりの風に吹かれるばかりだった。
おわり
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