心配(疑い)は不安を生み、安心(信頼)は自信を生む

こんにちは。
街の看護師『machikan』のKOUです。

今日は、こころの話をしたいなと思います。
私の勤めていた整形外科病棟には、
定期的に自殺を試みたことによる外傷で
入院される患者さんがいました。
まだまだ若い患者さんで、
『仕事が続けられないと思った』
『どうしたらいいのかもう分からなかった』
とボソボソと少しづつ話してくれることもありました。

当時は私自身も20代前半で、仕事にも悩んでいたし、
辞めたいのに辞められないと思い込んでいたから、
共感できる部分が少しはあったのかもしれません。
だけど、『死のうと思って実行する勇気があるのに、
なぜ他に使えなかったのだろう』という疑問は持っていました。

今現在の私は、仕事を辞めたり転職したり、
出産・育児期間があり、結婚と離婚がありと、
自分なりに人生のいろんな段階で自分にとって
重要な場面を経験してきました。

その中で思うのは…、
『親に言えない・人に言えない』という現象は、
自分が感じている以上に、自分自身に対して、
物凄く負担を与えているのだということです。


人に言えない不安があるのではなく、
ただ言えないという辛さ

人に言えないというのは、不安なんですよね。
自信がないんです。
相手が受け入れてくれないかもしれない不安と
自分が思っていること感じたこと自体に対して、
間違っているんじゃないかという不安…。
自分が感じたことを正当に受け取ってもらえない
ということへの恐怖があるんです。

他人から『否定』されるって、すごく辛いんです。
それが自分の親であると、それは物凄く辛くて、
トラウマからきていることもあります。
そういう『言えない辛さ』を持っている人は、
結構多いのかもしれません。

自殺を試みた方のご家族には、
子供に対して無関心な方もいました。
その逆に、子供に対してたくさんの
『心配』を与えているご家族もいました。

当時は『親の心配は当然のこと』と受け止めて、
対応させて頂いていました。
だけど、後々振り返ってみると、私の家族自体も
『心配』というカタチの愛情で私をみていたのだ
と感じます。

だからこそ、その心配を『当然のこと・愛情なんだ』
と以前の私は捉えたのです。

だけど、今はその愛情の示し方は『間違っている』
とはっきり分かっていて。
そのせいで、子供は自信を失い、人に言葉にして
自分の気持ちを伝えることさえできないくらいの
恐怖を抱えているのだと感じるのです。

私もずっとそういう子供で、自信のないまま
大人になっていった人でした。
そんな私が一番自信があったときは、病院に
就職して働いていた時期です。
就職してすぐは本当に辛いことばかりでしたが、
仕事に慣れてくると徐々に自信がついてきました。

その私の持っていた自信というのは、
『親の認めている職業に就いて、その中で
働いていられるようになったから』です。
結局、あの頃の自信は親の許可の元に成り立っていました。

だから、両親は私が『看護師を辞めたい』
という素直な気持ちには全力で反対して、
『看護師を続けられるように』と自分たちの
意向で全力で応援してくれました。

それは、一見良い家族のようにも見えます。
だけど、空気を読んだり、親の顔色を伺って
生きてきた子供にとっては、『我慢の蓄積』
でしかないのです。


人の話に耳を傾けること

私たちは、
他人の選択を大切にできているでしょうか?
子供の選択を大切にできているでしょうか?
自分以外の人の意見に、しっかりと耳を傾けられて
いるでしょうか?

人はとても脆い部分も持っています。
自分の気持ちを押し殺してでも、
頑張り続ける力も持っているけれど、
何かの拍子に、ちょっとしたきっかけで、
溜め込んできた我慢の山が
崩れ落ちてしまうこともあるんです。


だから、誰かの意見に耳を傾けられることは
本当に重要なことで。
それが出来るかどうかは、自分の意見を大切に
してもらえた経験が自分の中にあるかないかで
決まると思います。

私は自分の意見を大切にしてもらえたという経験が
ありませんでした。
だから、言葉にして『こうしたい』と親に話したことは
ほぼありません。
自分の選択を『いいね』と言ってくれそうな人を探して、
挑戦してみて、途中で不安になって諦めるー。
そういう繰り返しをしてきていました。

なぜそんなことが起きているのか
ずっと分かっていませんでした。
どうしたら親にも大切な人にも、
自分の大切にしている想いを伝えたり、
説得出来るのかが分からず悩んできました。

人と話し合う方法

『私はこうしたい・あなたはそうしたい…』、
選択は色々あって、違っていいのです。
そんな選択の一つ一つを『こうしなさい・ああしなさい』
と決めてくるのは、相手が間違っているのであって、
自分の感じていることを我慢する必要はありません。

ただ、自分の意見が変わることってありますよね。
それは、相手の選択がどういう理由で決まった
ものなのかを知って、同意できた時じゃないでしょうか。
それが、納得できると言う状態で、
我慢が生まれることがなくお互いに進める状態のこと。

お互いが納得できるように、選択するときの判断基準が
どこにあるのかを話し合うんです。
子供に話す時も同じで、
『小さくて(子供で)判断できないから』とか、
『準備する親が楽なように・簡単に出来る範囲で』
といった親基準だけで判断して納得させるのは
やはり間違っています。
ちゃんと選択肢があって、それぞれのメリットと
デメリットを伝えたうえで、自分と子供が何を
選択したいのかを話し合うべきだし。

『こうしてみたい』が生まれたときには、
『危ないんじゃないか…、
(漠然と)やめた方がいいんじゃないか…』
といった不安で見るのではなくて、
『本来なら出来そうなことか・まだ無理があるのか』
を年齢や体力などによる客観的な内容を考慮し判断して、
一緒に考えて決めること。
そして、客観的に出来そうだと分かったなら、
『それ以上の個人的な不安』は取り払うことが重要です。

必要以上の不安や心配は、愛情ではなくて、
人の成長を止めてしまう厄介な障害になってしまいます。
その不安を抱くのは、自分の問題であって、
相手側には何の非も問題ありません。


『信頼』という愛情で築く、人との関係性

私は信頼できる人から頂いた何気ない言葉に、
すごく感動したことがあります。

『あなたなら出来るでしょう』
という言葉です。

私はいつもいつも『大丈夫?出来そう?』って、
気にかけてもらうことばかりでした。
その不安げな他人からの『大丈夫?』に優しさや
愛情を感じていました。
まだまだ自分では不安があるような時期で、
練習して・出来るかも…という感覚はるけど、
大丈夫なのかな…と感じている。
そんな状況の時に、この『出来るでしょう』
って言葉を言われたことが、すごく嬉しかったのです。

言われた瞬間は自分自身に『不安』でした。
でも、実際にやってみて出来た時に、
『あなたなら出来るでしょう』という言葉に隠されていた
『疑いではい信頼』の気持ちを感じることが出来て
すごく嬉しかったし、自分自身から湧いてくる
『失敗させない・出来るんだ』という信頼された
自分への自信を感じることができたのです。

その時から、私も人に対して信頼で
繋がりあっていたいと強く思うようになりました。
あのときの気持ちを忘れずに、人の声に耳を傾けて
話しあえる自分になれているかを自問しながら、
お一人おひとりと大切に接することを心がけています。



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