間違った認識・思い違い

私はこれまでとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。

私はずっと自由になりたいと思ってた。
だけど、私の奥底の認識はそうじゃなくて。

『安定すること』を否定していただけだったのかもしれない。
父が教師で『安定した仕事』と言われるものに就いていて、
それを求められることがすごく嫌だった。

だから、私は『全てにおいての安定』を嫌っていたんだと思う。
安定を強要されると『イラっ』とするくらいに
安定を否定して、親に反発していただけだった。

安定という状態が悪いわけではないのに。
自分の生き方や自由を大切にしたいだけなのに。

そしてまた、『責任』というものからも逃げ切りたかった。
そのせいで、安定の反対が『不安定(=自由)・無茶苦茶・奔放』という
物凄く間違った認識になっていたのかもしれない。

だから、自由なんて手に入るわけもなくて、
ずっと何かがおかしい状態が続いてきた。
元夫にもどこかで憧れていたけど、
でも『何かがおかしい・・・』と思っていて。
それは、まさに『めちゃくちゃ』だったからなのだと思う。


『好きなこと(仕事)をしてても安定はできるでしょ』と言われて。

私の安定という定義のおかしさとこれまでの反発・抵抗。
安定の反対に置いていた『滅茶苦茶』という間違った認識。

それらに気付かされた。


私は、これまでとんでもない勘違いをしていたのだ。

何を安定というのか・・・。
それは、お金のことだけなんかじゃない。
暮らし・心・身体・生き方・状況・・・・・全てにおいての状態のことだし。

安定の反対は、『滅茶苦茶・奔放・自由』ということでもない。
父のような教師の収入の安定を指すならば、拘束時間に伴って与えられる安定収入なわけだから『安定=不自由』という意味が強くなる。
私は、その限定的な安定だけにフォーカスして嫌ってきたから、間違った認識の中で、その反対の『滅茶苦茶』を無意識に目指して生きていたんだと思う。


自分の中にある『良い悪い・善悪・ジャッジ』というものを取り払って、
反発や拒絶をなくしさえすれば、偏った認識を正すことができる。

私の場合は、『安定すること』も自然と自分の中に受け入れることができる。
そうなると、『安定している状態』と『好きなことを自分で選択できる自由』は反対ではなくなって、一緒に存在できるものになる。
そういうことなんだと、ようやく気づいた。




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