見出し画像

苦しくなったときのアウトプット。そして循環

みずゆきです。

生きているととにかくつらくなって苦しくなる時もあるでしょう。

いろんなことを抱えながらも生きていかなければいけない苦しさを自覚した時は沼に足をつかまれたように身体が重く、心には不快感と焦りとさらに深くまで沈んでしまうのではないかという恐怖感を器満杯まで注ぎ込まれます。

淀んだ池は透析するようにフィルターを使うか、水を抜いて水を入れ替えるしかきれいになる方法はなくて、そのままでは更に淀みを深めるしかない。

ところで池の水全部抜くだかなんだか番組やってますけど、あれものすごく大変そうですよね。

だから苦しさや焦りや恐怖のような自分の淀みを自覚したら、なるべく早くその淀みにそっと触れて出すかなんかしないといけないのです。


思うに、自分で自分の淀みをセルフ浄化できる人っていなくて(いますけど、やっぱり外部からフィルターを輸入してますよね)やはり他者、外部の力を借りて浄化せねばいけないのだと思います。


浄化するんで、まず出しますよね。何でもいいと思うのです。

お金を出すでも、汗を出すでも、こうやって文字を出すでも。

こういうことって、生産的なことって言いますけど、私個人的は、料理はやめたほうがいい。料理、自分でつくって、自分の中にまた取り入れるから。ほかの人にあげるならいいと思いますけどね。

分かりやすいのは、お金ですよね。買い物とか、お金を出して、それが別のものになって、第三者から手渡される。

何か、自分の感覚で、何か巡ったなと思えればよいのだと思うのです。

苦しさの根源は取り除かれないでしょうけど、ちょっと池の水増えたり、一部循環してきれいになってたり、するかもしれないです。


まあただちょっとした淀みはあってよいのだと思います。

淀んだように見える池のほうがいろんな生命が宿っていたりするのと同じで。

ただ外来種には気を付けないといけないよ。本当に。


ところで、幸せとか、つらさは、質量保存の法則が成り立たないと思うのですが、どうでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?