人間が人間である証明
2023年を迎えてはや2ヶ月。
時間が経つのがほんとにあっという間で驚きの毎日です。
先日、好きな映画「ブレードランナー」を久しぶりに見て感慨深くなったので書き留めようと思います。
(つらつら書いてるので読みやすさは考えてません、悪しからず)
タイトルと中身はそこまで関係ないです。
映画「ブレードランナー」(参考リンク)は、人造人間が作られた近未来が舞台で主演は若かりし頃のハリソン・フォード。
人の手によって製造された人造人間(レプリカント)が時間とともに感情が芽生え人間に反旗を翻す事件が起き、安全装置によって設置された寿命があるものの脱走したレプリカントを探し出し抹殺するのが「ブレードランナー」。
いろいろネタバレになるので見てないひとはお気を付けを。
めちゃくちゃ好きなシーンはここ。
同じ人造人間の仲間が次々に殺され、最後の一人となったロイ・バッティのセリフ。
自分を殺しに来たブレードランナー(主人公のハリソンフォード)を助け、雨に打たれながらセリフを語るシーンはなんとも言葉に表しがたい感情になる。
もう一つ好きなセリフは、女性の人造人間であるプリスの言葉。
デカルトが提唱した有名な命題。
デカルトのことを詳しくかけるほど理解はできてないので、わからないけど、”私は感情がある、思考もしている、だから人間だ”というシンプルな訴えなのかなと。
私は、人間とAIがテーマの映画が好きで、ほかにも「イノセンス」「アンドリューNDR114」「攻殻機動隊」あたりはとても良き。
アンドリューNDR114では、家庭用ロボットとして作られたアンドリューが人間として扱ってくれる家族のもとに迎らえ、徐々に個性が生まれ表情を作れるようにアップデートし外見は人と遜色ない姿になっていく。
好きな女性と恋愛をし、愛する人とともに人間として死ぬために、自分を人間と認めるように訴えを起こします。
その時のセリフはとても印象的。
これは映画「イノセンス」でも問われているテーマ。
人が人であることを証明するものって何なのかな。
そもそも証明しょうとしたり定義すること自体が違うかなーとも思ったり。
我思うゆえに我あり、もその「我」が指すものが「人間」であるとは言ってないのかな、どうなんだろう。
ただ”自分はなぜここにいるのか”を考えている自分というものが「存在」しているのは確かなのではないか、という点では人であることを定義づけるものでもない、のかなぁ。
このあたりは考え出すととても大変なことになるので、いったんここまで。
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