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私が富士登山をリベンジした意味Part4

寝息が聞こえる静かな空間、疲れているし眠いのに、グルグル目が回るような気持ち悪さで眠れない。


気持ち悪さの波も大きく揺れては、頂上に行ける希望が見えたり、見えなくなったりしながら、「ふぅ〜」と息を吐きながら、寝袋の中で呼吸を整える。


起床時間より15分早く身体を起こすと、あれ?なんだか少し気分の悪さが減ってる。


(「行ける。大丈夫だ!行ける。行こう!」)ゆっくり準備をしながら集合場所へ。


ガイドさんにも、昨日よりも顔色が良いと言ってもらい、行ってみないと分からないけれど、頂上まで一時間、気合で登ろう。


そう決心してヘッドライトを付けて頂上を目指します。動き出すと、やはり体力が奪われては苦しくなり気分が悪くなる。


昨日とは違い、道はご来光を見るための登山客で渋滞が起きていて、なかなか前には進まない。休めるけれど、進みだすと一気に登るので、それもまたキツさが増す。


もう心の中で、前向きな言葉を感じる事もできないほどの限界が近づくと、岩場に咲いている小さな小さな白い花が目に入りました。

(「なんて美しいんだろう。」)小さな小さなお花に力をもらい、最後の鳥居が見えてきました。


胸を張って堂々としなさい。そんな言葉を感じては、(「よし!最後だ!胸を張ってゴールしよう!」)


胸を張ると気持ち悪くなっていた私が、ゴール直前には胸を張って呼吸ができるようになっていました。


「みなさん、あの鳥居が頂上の入口です!あと5分です!頑張りましょう!」ガイドさんの言葉に最後の力で進みます。


鳥居をくぐり、ガイドさんとハイタッチして進むと、どこまでも広がる雲の世界が広がっていました。山の厳しさを感じさせないほどの美しい空の色。

やがて滲み出るような太陽の頭が顔を覗かせ、神々しい太陽がまたたく間に一面を照らし始めました。

富士山頂でのご来光。この世よりも、あの世に近いような。目に見える世界よりも、見えない世界に近いような。

私は、この景色が見たかった。山小屋でリタイヤへの選択に気持ちが傾いた時に思い出したのは、十数年前にリタイヤした時の事でした。


山小屋で見たご来光も素晴らしかったけれど、山頂に行かれた他のツアー参加者の皆が帰ってきた時に感じた清々しさ、


あの時と同じように、また自分だけ体験できない、あの感覚を体験するのかと思うと、山頂に行きたいという思いが底から湧いてきました。


お鉢めぐりには参加するのは諦め、頂上の山小屋でお味噌汁を頂いて、お弁当は食べれぬまま、ひたすら下山、下山、下山。



降りれば降りるほど、体調が戻り水が飲めるようになり、お水の美味しさに感動しながら、お腹も空いてきます。


富士登山しながら断食をしていたかのようなキツさも振り返ると、もう富士山に登ることはないなぁと、下山しながら感じていましたが、


バスに乗り温泉に向かう途中には、体力を付けて、深い呼吸ができる肉体、精神の自分で登って、高山病にならないでお鉢巡りできる位になりたいなぁ〜。


甘ったれた自分を叱咤するために鍛えるためにも毎年、富士山に登るのもありだなぁ〜なんて、感じているのですから困ったものです。


でも、また行ったら、なんで来ちゃったんだろう?って感じるんでしょうけど。日本一の富士山というお山の偉大さを改めて感じています。


私たちは、富士山という壮大なエネルギーを内側に宿しながら、目には見えない楽しい山登りという人生を歩んでいる。


この世に生まれ生きている自分という存在、何ができても、何ができなくても、あるがままの存在の素晴らしさ、


肩の力を抜いて胸を張って大地に立ち、ゆったり深い呼吸と共に、色んな景色を楽しみながら進もう。


最後までお付き合い下さり、ありがとうございます。愛と感謝を込めて。


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