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【創作大賞2023】ロータスは救われない 2/2

 奇妙な生活が始まって一週間。彼女は本当に一歩たりとも僕の家を出る事はなかった。着替えは元々どこかに三ヶ月泊まって過ごす予定だったようで、買い足す必要がないのは有難かった。女性ものの下着やらを買いに行くのは目立つので避けたいものでもあったし。
 そして彼女の生活はと言うと、時折テレビを見たりはするが、携帯はずっと電源を切ったまま放置で見向きもしない。僕の為にと料理を作ってくれる事もあるが彼女は、何もせずただぼーっと過ごすだけの時間を、何よりも楽しんでいた。
 俗世から離れてから死にたい。その言葉に噓偽りはなかったらしい。僕の家の中と言う「俗世から隔離された空間」を、彼女は確かに楽しんでいた。

「ルイさんはどうして自殺をしたい人を殺してあげてるんですか?」
 夕飯のビーフシチューにバゲットを浸しながら、彼女は何の前触れもなく僕に問いかける。この一週間で彼女の言動に慣れてきていた僕は驚きもせず、バゲットを齧りながら「この世に死ぬ権利がないから」と返す。彼女はバゲットをビーフシチューの湖に置き去りにして、続きを聞かせろと言わんばかりの興味深々な顔で僕を見た。
「生まれてくる時、生まれる事を拒む権利は僕らにはない。つまり生きる権利は親によって強制的に与えられる。なのに死ぬ権利はこの世のどこにも認められていません」
「確かに。そうですね。生きる事は義務です」
「僕はそれを、おかしいと思っています」
 生きる権利を認めるのであれば、死ぬ権利も認められて然るべきだ。なのに自ら命を絶つ事はよくないと人々は宣う。この世はあまりにも「人間が生きる事」を美化し過ぎている。
「何が苦しいのか何が嫌なのか何がつらいのか。そんなものは主観でしか測れない。楽しい事や幸せな事が生きる糧だと言うのであれば、それらが見出せない場合、死んで苦痛から逃れる事は当然の権利です」
「そう考えると、死ぬ事って私達に与えられた唯一の自由なのかもしれませんね」
 うんうんと頷きながら、ビーフシチューの湖からスプーンでバゲットを救出した彼女はそれを頬張る。「死は唯一の自由」。その言葉は僕の頭の中にすとんと、まるで最初から椅子が用意されていたように納まった。自由。それは権利だ何だと難しい言葉を使うよりも、余程分かりやすく納得のいく言葉だった。
 それが何だか嬉しくて、僕はテーブルの上に置いていた缶ビールをくっと喉に流し込む。彼女の価値観に基づくその言葉は、僕の中で言い表せなかったものを形にしてくれているような気がした。


 消費期限切れの新作のコンビニスイーツを片手に自宅へと帰る。玄関のドアを開けるとレジ袋の音に彼女が反応をした。リビングのソファーから立ち上がり、玄関に駆け寄って来て、「私もコンビニバイトすればよかったです」と笑った彼女は、僕の手から受け取ったレジ袋の中身を早速物色する。
「あっ、これおいしそう! ルイさんも食べましょうよ」
「分かりましたから。そんなに急かさなくてもスイーツは逃げませんよ」
「逃げるかもしれないじゃないですか」
 スイーツが逃げると笑う彼女。おいしそうと即興のリズムに乗せて歌う彼女。大事そうに一口目のスプーンを差し込む彼女。目を閉じ甘みを舌の上で堪能する彼女。
 その姿は至って普通の十九歳なのにと思いながら、僕もスイーツを頬張る。僕には少し甘みが強いそれに思わず手を止めた。そしていつの間にかスイーツを完食し、空になったカップを手にしていた彼女は僕の食べかけのスイーツを見て、すっとスプーンを伸ばした。
「うん。甘くておいしい。でもルイさんにはちょっと甘過ぎますね」
「食べたいなら最初からそう言ってください」
「ふふっ、バレました?」
 悪戯がバレた無邪気な子供のように笑う彼女は、やはり普通の十九歳だった。


 彼女はぼーっとテレビを眺めていた。平日昼間のワイドショー。話題はその日の出来事から地域のイベント事、そして天気まで多岐に渡る。そんな俗世にまみれた番組を眺める彼女を、僕は眺めていた。今日はコンビニのバイトもなく、する事もない。ベッドに寝転び、右から左へと流れていく俗世の話を、彼女の後ろ姿と共に眺めていた。
 すると彼女は僕が見つめていた事を気付いているのか、気付く気付かない以前にそもそも興味がないのか。ふと口を開き、「皆馬鹿みたいで面白いですよね」と呟いた。僕は突然の「馬鹿みたい」と「面白い」の言葉の組み合わせに何を返すべきか頭を回す。
 だが彼女は僕に話しかけているようで、話しかけてはいないのだろう。僕の返答を待たずに「こんな人達もこの世界には必要なんですよ」と続けた。
「皆が真実に気付いたら、この世界は保てないから」
「真実?」
「そう。人間は愚かな生き物だって言う真実です」
 凛とした声は確かに、愚かな生き物を慈しんでいた。テレビは丁度、環境問題の話題へ移ったところだ。海洋プラスチックゴミの話に、やれ自然環境が何だと画面の向こうのコメンテーター達は多額のお金をもらった上で筋書き通りに盛り上がっている。
 それでも彼女は慈しむ声を変えない。
「自分達が便利になる為に作った物で自分達が苦しめられてる。愚かだと思いませんか?」
「まあ、そう言われれば確かに、愚かなのかもしれませんね」
 自身の毛先を指に巻き付けて弄ぶ彼女はまるで聖母のような声で、「愚かですよね」と呟く。
「人間の知識は、人間には早過ぎたんでしょう」
 その声は慈しんでいたと同時に、何かを諦めた声色だった。

 彼女はいつだって、どこか浮世離れしていた。僕は、普通の十九歳らしい彼女と、浮世離れしてどこか達観した彼女のどちらが本当の彼女なのか、分からなくなっていた。

分からないから、知りたくなっていた。

◇◇◇

 それは、彼女との同居生活が一ヶ月を過ぎようとした日の夜の事だった。僕は、僕の上に跨る彼女を見つめ、「何がどうなってこうなった?」と思考する。夕食を取り、片付けをし、風呂に入り、後は寝るだけのはずが、僕の後に風呂に入った彼女はまだ風呂上りの熱を持った体のまま、ベッドに寝転ぶ僕に跨ってきた。
 困惑する僕を見下ろす彼女は相変わらず、化粧を施さずとも整った顔をしている。
「ルイさん。私を抱いてください」
「……どうしてですか? 僕はそんなつもりはありませんよ」
「私、学校がずっと女子高だったんで今まで彼氏が出来た事がないんです」
 パジャマのボタンをひとつひとつ外していく彼女の手を止めなければ。そう頭では分かっている。だが黒い下着が露わになると馬鹿のひとつ覚えのように、息を呑んだ。下着の黒と、彼女の白い肌のコントラストが「そんなつもりはない」と言った僕の理性を「そんなに熱を擡げて」と嘲笑っているようだった。
「別に、恋愛に興味はありません。今更誰かに何かを期待なんてしてませんし。ただ、死ぬ前に処女を卒業してもいいかなって思って」
 脱ぎ捨てられたパジャマの上着はベッドの下へと落ちていく。そしてついに彼女の胸を覆う下着も脱ぎ捨てられ、先に落ちていたパジャマに合流した頃、僕は喉を鳴らして生唾を呑んだ。白く形の整った柔らかそうなその胸に、手を伸ばしたくなった。
「……僕は、別にセックスの上手い男じゃないですよ」
「ふふっ。大丈夫です。ルイさんは優しいから」
 セックスは上手くないと言う最後の砦も、彼女の前では波に浚われる砂と同じ。易々と越えられ、僕の本能は理性を蹴り飛ばした。
 僕に跨っていた彼女の腕を引き、その身を僕に倒れ込ませてから体勢を変え、押し倒す。組み敷いた彼女の黒髪がベッドに広がる様が、嫌に妖艶に感じた。
 彼女が僕を見上げている。柔らかそうにぷっくりとした唇が「ルイさん」と僕を呼ぶ。僕はそのまま、彼女を貪った。
「菜乃花さん、痛くないですか……?」
「んっ……大丈夫、ですっ……」
 初めてを感じさせない程の艶めかしく甘い声が僕の問いかけに答える。だが、どれだけ感じさせずとも、余計な嘘はつかない彼女が初めてである事に変わりはない。僕は彼女のその柔らかな体に丁寧に丁寧に触れ、貪った。
 僕は元々性に対してあまり頓着がないタイプだった。一切の経験がない訳ではないが、経験が豊富な訳でもない。だがそれを別段恥じる気持ちもなければ、経験を増やしたいとも思わなかった。事に及ぶのも終わるのも、なんとなく。それだけで良かったのだ。
 しかし今はどうだろうか。彼女の白く柔らかい肌に触れる度に、全身で興奮を感じる。その肌から手を離す事を名残惜しく思う。舌先で触れれば彼女の全身が桃のように甘い気さえしてくる。僕を受け入れる彼女の狭く熱いそこを、欲望のままに蹂躙したいとさえ思う。
 僕は一体どうしてしまったのだろうか。僕は彼女をどう見ているのだろうか。そんな微かな不安を覚えているくせに、その不安すら興奮に変わり果てる。
 僕は彼女の体を抱き締め、これまでに経験のない程に煮えたぎった欲を吐き出した。


「ルイさんには、わがままばかり聞いてもらってますね」
「気にしてないと言えば嘘になりますが、まあ聞ける範囲でなら構いませんよ」
 汗や体液でべたつく体をシャワーで洗い流し、再度ベッドに寝転ぶと当たり前のように僕の隣に裸で寝転ぶ彼女の顔には先程までの艶めかしさは残っておらず、あどけなさを感じて内心溜め息を吐く。
 何故僕はこうも彼女の「わがまま」を聞いてしまっているのだろうか。
 三ヶ月の猶予を与える事も、その三ヶ月をここで過ごす事も、彼女を抱く事も。全て彼女からの提案で、それは普段なら「わがまま」で終わり、否を突き付けてやり過ごすだけなのに。僕はすでに彼女の提案を「わがまま」だと思わなくなっていた。
 僕は彼女をどうしたいのか、分からなくなっていた。あと二ヶ月後にはここから、この世からいなくなる彼女を、僕はどうしたいと言うのだろうか。
 しかし、そんな僕の思考を遮るように、彼女の綺麗な声が僕の耳をくすぐる。「一番最初に殺したのは誰なんですか?」と言う、その綺麗な声には似つかわしくない物騒な言葉が、僕の耳をくすぐる。
 一番最初に殺した相手。その言葉を頭の中で反芻して思い返して、胸が少しざわついた。
 別に言う必要はない。笑って誤魔化しでもすればいい。
「……父親ですよ。どうしようもない、アル中のクズでした」
 それは僕にとって初めての、殺人の告白だった。どうして彼女の問いかけに素直に答えようと思ったのかは分からない。誤魔化す方法等いくらでもある。それでも口を開いたのは、誰にも告白出来ない思いを死にゆく彼女に吐き出して、楽になりたかっただけなのかもしれない。
 だが一度口を開くと楽になりたくてしょうがないのか、言葉は自らブレーキを壊した。
「酔うと必ず僕か母親を殴るんです。ただ酔いが醒めると、ごめんごめんって謝ってくる。DVの典型とアル中、最悪の組み合わせでした」
「だから殺したんですか?」
 あどけない子供の純粋な興味だけを宿した黒曜石のような綺麗な目が僕を見つめる。僕はその目に見つめられ、何故か嘘をつけないと感じていた。
「母親を救いたかったんです。だから、夜の釣りに行った時に酒を飲ませて、事故を装って海に突き落として殺したんです」
 小学二年生の時、父親の運転で向かった夜の海。こっそりと車に積み込んでおいた酒を「お母さんには内緒にしておくから」と言って父親に飲ませ、足元が覚束なくなった頃合いで、突き落とした。
 幸いにも酒で溺れきった頭はまともな思考がなく、父親は静かな海で少し身をばたつかせた後に動かなくなった。僕はそれをじっと見つめていた。夜の海は辺り一面に墨をひっくり返したように真っ暗で。そう思い返すと、忘れていたあの瞬間の感情を思い出した。
 その真っ暗な海に溺れ、沈んでいく父親を見て、僕は確かに歓喜した。
「母親は父親から解放され、父親も自分から解放された。二人も救ったんだと喜びました」
「それで、終わりですか?」
「……だったら、よかったんですけどね」
 この殺人物語には残念ながらまだ続きがある、と僕は言葉を続ける。
 僕は父親が死にゆくのを見届けてから、悲愴な顔を作り助けを呼びに行った。状況を鑑みた警察は父親を問題なく、事故死で処理した。僕の助けの遅さも、「子供だから気が動転した」で済まされた。これで母親も喜ぶはずだ。僕は確かにそう信じていた。
 幼い子供に、大人の男女の複雑な恋心など理解出来ている訳がなかった。
「父親が死んで、母親はおかしくなりました。父親がDVの典型なら、母親はそのクズから離れられない女の典型だと、後になってようやく気付いたんです」
 毎日のように殴られていても、母親は父親を愛していた。僕にはそれが理解出来なかった。もう父親はいないのだと、あの拳に怯えなくても良いのだと、何度母親に伝えても母親はうわの空だった。父親が死んで、母親の心も死んだのだ。
「救ってあげなきゃ。そう、思いました」
 本音は目障りだっただけなのかもしれない。頭のおかしくなった母親が目障りで、鬱陶しくてしょうがなかっただけなのかもしれない。それでも、あの時の僕は確かに母親を「救ってやろう」と思っていた。
「前後も分からなくなるまで酒で酔わせてから、市販の風邪薬を大量に飲ませて殺しました」
 とどめにガスを出して部屋に放置すれば、母親はいとも容易く息絶えた。両親共に死んでは警察も少し怪しんだが、母親の精神科への通院歴と、ガスを充満させるにはお粗末な酸素の入り放題の部屋、そして僕の「普段の母親の様子」の証言が決定打となり、自殺で処理された。
 口から泡を吹き動かなくなった母親を見て僕は、「母親を救ってあげた」と、やはり歓喜した。その思い出した感情が、僕の口を閉じさせない。
「……それが、忘れられないんです。あの瞬間の歓喜を。だから僕は、死にたがっている人を救ってあげているんです」
 改めて整理し口にすると、「救ってあげている」なんて大それたものではなく、結局のところただの快楽殺人なのかもしれないと思う。僕は酒よりも薬よりももっと危険で、酷く醜く美しい、救われる人間の死に顔の中毒なのだろう。実のところ、父親よりも母親よりも、醜い人間なのだろう。
 だがそんな僕の告白を聞いても、彼女はその黒曜石のような綺麗な目を濁らせる事はなかった。濁る事も揺れる事もなく、ただただ綺麗なまま、そこに存在していた。
「ルイさんのおかげで救われた人がいるのは事実ですから。私はルイさんが、この手を染めていて感謝してますよ」
 優しく握られた両手が温かかった。その体温で、ようやく僕は理解する。普通の十九歳の彼女も浮世離れして達観した彼女も、どちらが本当ではなく、どちらも本当の彼女なのだと。
 彼女はこの世界の枠に囚われない。いつも枠の外から、「この枠の正しさ」を問いかけている。だから、疲れてしまったのだ。枠に囚われないからこそ、周りの色んな人を、僕の殺人告白ですら受け止められる。だがそんな彼女を受け止める用意は、この世界には出来ていないのだ。
 彼女の目には、この世界は何色に映っているのだろうか。その黒曜石のように、真っ黒なのだろうか。

◇◇◇

 あの日以来、僕と彼女は特に変わりなく過ごしている。しいて言うならば、あの日以来彼女とセックスをする事が、何も変わり映えしない日々の中に唯一増えた事だろう。何度彼女を抱いてもあの日と同じ、燃え上がるような熱が体の底から湧き上がってくる。
 あの白く穢れない肌に触れる事は、酷く罪を犯している気分にさせられる。まるで聖母を意のままに犯し、蹂躙し、孕ませた己の子を神の子として民に崇めさせるような。酷く恐ろしい罪を犯しているのに、その罪が重ければ重い程、興奮を覚える。
「ルイさん」
 いつからか僕は彼女に名を呼ばれる事を、快く思っていた。

 だがこれは三ヶ月と言う期限付きの夢物語。終わりが必ずくる事が決定付けられた、夢物語。
 夢はいつか必ず覚める定めだと言う事を、僕は正しく理解出来ていなかった。


「今日で最後ですね。ルイさんと過ごすのも」
 目の前で自身の母の味を完全再現したらしいカレーをスプーンで掬いながら彼女は、まるで最後を感じさせないいつも通りの綺麗な声色で呟く。僕は「そうですね」とだけ返してカレーを口に入れた。みじん切りにされたピーマンの程良い苦味がいい味のアクセントになっていた。
「三ヶ月、長いようであっという間でした」
「ええ。本当に、あっという間でした」
 一口分のカレーが掬われ、乗ったままのスプーンを皿に置き、彼女は烏龍茶のペットボトルを傾けた。グラスの八分目まで注がれた琥珀色の烏龍茶。彼女はそれをゆっくりと喉に流し込む。
 僕はローテーブルの引き出しから睡眠薬が梱包されているシートを四枚取り出し、彼女に差し出した。これで最後だと言うのに、情緒も何もない、いつも通りの空気だった。彼女があまりにもいつも通りだったから、僕も釣られていつも通りに振る舞ってしまった。
 この最後をもっと惜しむべきだったのに。
「今日、寝る前にそれを飲んでください」
「これで私は寝てる間に、楽に死ねるって事ですね」
「そうです。菜乃花さんが寝ている間に、僕が二度と目が覚めないようにします」
「ふふっ。楽しみです」

 睡眠薬を手に取って眺めながら笑う彼女は、やはりいつも通りで、やはり僕の知っている自殺志願者とは違った顔をしていた。
 これが、その顔の意味に気付ける最後のチャンスだった事を、彼女を救う最後のチャンスだった事を、この時の僕は気付けなかった。

 それがどれ程後悔を重ねてもどうしようもない事だと、最後のチャンスを逃して僕はようやく気付くのだ。

◇◇◇

 深夜十二時を回った頃。ベッドの上で深い深い眠りにつく彼女の薄っすらとだけ開いた唇に人さし指を近付ける。指に感じる微かな呼吸は睡眠薬がしっかりと効いている事と、今にも切れそうな糸で彼女の魂がこの世界に結び付けられている事の証明だ。その証明を確認して僕はガムテープで彼女の鼻と口を塞ぐ。彼女の深い深い眠りは、呼吸が出来ずとも覚める事はない。

 彼女に飲ませた睡眠薬は手持ちが減る一方の、短時間から中時間作用型のバルビツール酸系の睡眠薬だ。この睡眠薬は過剰摂取時の致死率が高く、より安全性の高い睡眠薬が開発された近年では精神科でもなかなか扱っていない。仮に精神科で処方されたとしても、扱っている調剤薬局も少ない。
 そんな、僕からすれば「貴重な睡眠薬」を、僕は手持ちの四十錠全てを彼女に飲ませた。彼女は出来るだけ、苦しまずに死なせてあげたかった。
「……もう、話せないんですよね。菜乃花さん」
 自身が呼吸を出来ていない事さえ認識出来ないまま、彼女はこの世界からいなくなる。それは彼女自身が望んだ事だ。僕はそれを助けてあげた。
 この世界の枠に囚われない彼女はその広過ぎる心であらゆるものを受け止めてきた。だがそんな彼女を受け止められない世界から、彼女は解放を願い、僕は彼女を助けてあげた。
 いつも通りの事だ。何ら変わらない。死を望む今までの彼ら彼女らと、何ら変わらない。いつも通りの事のはずなのに。
 僕の胸には、大きな大きな穴が開いていた。
「どうしてですか? 菜乃花さん、貴方は他の人と、一体何が違うんですか?」
 酸素が減っていく彼女の体。少しずつ、だけど確実に死に近付いていく彼女の体。魂が消えていく彼女の体。僕が何を問いかけても、もう二度と彼女の心が垣間見えるような、僕の言葉に出来なかった感情を綺麗に言葉にして名前を付けてくれるような、そんな返事も何も聞けない彼女の体。
 ふと、視界が涙で滲んできた事に気付き驚く。僕は、自分が何故泣いているのかが分からなかった。両親を殺しても、他の自殺志願者を殺しても、涙なんて一滴も出やしなかった。
 きっと僕の感情は涸れ果ててしまったのだろうと思っていた。両親を殺した僕への天罰なのだろうと。だから僕は人を殺しても、その死体を目の前にしても、嬉しい時も怒りが湧いた時も悲しい時も楽しい時幸せな時も不幸な時も、一定以上のラインを超えるような感情など湧かないのだと、そう思っていたのに。
「僕は、どうして菜乃花さんを殺して、泣いてるんですか?」
 彼女の柔らかな胸が上下に動く事を止めた。呼吸が止まった事の合図だ。それを見て僕は涙が更に溢れた。そっと触れた彼女の頬にはまだ三十六度五分の体温が残っていた。人肌の温かさにどこか安堵する。だがその安堵は確かに「よかった、まだ生きている」と言う気持ちからくる安堵で。
 何故安堵した? 彼女が生きていると思って、僕は何故安堵した?
「死ぬ事は、菜乃花さんが望んだ事。生きていれば、菜乃花さんはまた苦しむ。だから菜乃花さんが生きている事を僕は望んではいけない。なのに……」
 何故僕は彼女に、生きていてほしいと望んだ?
 少しずつ下がっていく彼女の体温。それはまるで彼女の魂が抜けていくのを表しているような気がして、僕はその頬から手が離せないでいた。
 彼女の白い肌が青白くなっていくのを、僕は涙を流しながら、ただただ見つめていた。

 完全に体温が失われた彼女の体は死後硬直を始める。僕はそれも見つめながら、彼女との日々を思い返した。そこに、何故僕が涙を流しているのかのヒントがある気がして。

 まず思い出すのは、初めて会ったあの日。あの日僕は彼女を見て、そのアンバランスさに目を惹かれSNSアカウントのIDを書いたメモ用紙をレジ袋に忍ばせた。思惑通り連絡を寄越した彼女は、僕の想像だにしない事ばかりを口にした。
「あの時、断れなかったのはどうしてなんだろうなあっ……」
 三ヶ月の俗世からの隔離生活と言う彼女の提案を、僕は面倒だと思った。足がつくリスクだって格段に上がってしまう。もちろん断ろうと思った。思ったが現実はどうだろう。気付けば僕は彼女の言葉を受け入れ、彼女から五十万円を受け取り、ままごと遊びのような生活が始まった。
 それでも彼女との生活は、僕にとって新しい発見の毎日だった。浮世離れした彼女の性格と、それに基づく価値観は他の自殺志願者にはないもので。いいや、自殺志願者どころか僕の身の周りの誰にもないものだった。言葉に表せない感情に言葉を、名前を与えてくれた。僕は彼女との生活の中で、小さな変化を得た。
 そこまで考えてふと、「では彼女には変化はあったのか?」と思う。初めて会ったあの日から、死に至る今日まで。彼女の姿を頭の中に思い浮かべてみるが、三ヶ月前から三ヶ月後まで、彼女はずっと同じだった。そしてようやく、理解した。
 僕は彼女を、救えなかった、と。
「……そうだろっ……? 最期まで、菜乃花さんは何も変わらなかったっ……」
 問いかけても、冷たくなった彼女は何も返してはくれない。小学三年生に自分の人生の終焉を定めた時から今日の最期まで、彼女には一縷の希望もなかった。
 睡眠薬を飲む時も、瞼を閉じる最後の時も、彼女の顔には他の自殺志願者と同じような、「ようやく死ねる」「ようやく解放される」と言う一縷の希望からくる安堵が、一度たりともなかった。彼女は救われてなどいなかったのだ。
 最期まで、自分を受け入れない世界を愛したまま死んだのだ。
「何でだよ、何でっ……最期まで苦しむんだよっ……」
 世界からの解放を望んでも、世界を愛したまま死んだ彼女の気持ちが分からなくて僕は強く握った拳で自分の太ももを殴った。噛み締めた下唇から不味い血の味がする。死体の処理をしなければ。頭には次にやるべき事が浮かんではいるのに、何も出来なかった。体が動かなかった。
 彼女の側から、動けなかった。


 翌日、彼女の側で一晩を過ごした僕は彼女の鼻と口を塞いでいたガムテープをゆっくりゆっくりと剥がす。その白い肌に少々痕が付いたが彼女の顔は安らかで、殺したのは自分だと言うのに眠っているようだと思った。
「……菜乃花さん、一晩経って分かった。菜乃花さんの何が他の人と違うのか」
 冷静さを取り戻した頭が安らかな菜乃花さんの死に顔を見て、答えを導き出す。至極シンプルな答えだった。僕には縁のないものだと思っていたそれは、やはり何度考えてみても変わらない。彼女の前髪を整えながら、僕は呟く。
「……一目惚れでした。僕は、菜乃花さんに初めて会ったあの日から、ずっと菜乃花さんが好きだったんですよ」
 永遠に届く事のない告白。殺人の告白は出来ても、愛の告白は出来なかった自分に笑いが込み上げてくる。
 僕に変化をもたらした彼女を、僕は愛してしまっていた。まさか自分が誰を好きになるだなんて、愛してしまうだなんて。愛だ恋だなんて自分には一生縁がないものだと思っていたのに。あんな両親を見て育った僕が、誰かを愛する日なんて死んでもこないと思っていたのに。
 僕は僕の本当の名前も知らない彼女を、愛してしまった。
「最後に、せめて僕の名前を言えばよかった。菜乃花さんは優しいから、きっと何の疑いもなく呼んでくれただろうに」
 裕樹さん。頭の中、彼女の声で僕の名前を再生する。もう二度と言葉を紡ぐ事のない彼女の唇。その唇に自分の唇を重ねて、僕は目を閉じる。
「救えなくて、ごめんなさい。菜乃花さん」
 彼女への謝罪の言葉を胸にしながら。

◇◇◇

 レンタカーを借りて、旅行の準備をしているふりをする。大きな黒いスーツケースに彼女を詰めて、他の荷物に紛れるように車に乗せた。そして夜の街を走り抜け、窓を開ければ潮風が心地良い海辺に辿り着く。携帯電話ひとつで何でも出来る便利な世の中だ、人気のない釣りの穴場スポットなんて、探せばいくらでも見つかった。
 周囲を見回して改めて人気がない事を確認し、店員に勧められるがまま適当に買った釣り道具一式と一緒に車からスーツケースを下ろす。釣り道具を片手にスーツケースを押しながら歩き、釣り糸を垂らすに絶好な海へと突き出した冷たいコンクリートまでくると、釣竿を使って水深を確認した。
 釣竿は僕が地面に這いつくばってもかなりの深さまで入る上に底につく事はなかった。それに頷きながら釣竿を引き上げ、僕はスーツケースを一撫でする。
「……見つかったら司法解剖されるから。菜乃花さんだけは、絶対に見つけさせない」
 持ち上げたスーツケース。重みに痙攣する腕を叱咤しながら力を込め、出来るだけ海面ぎりぎりにスーツケースを近付けて、手を離す。着水したスーツケースが辺りに少し音を響かせたが、周囲に怪しまれる事はなかった。
 夜の海に黒いスーツケースが沈んで、見えなくなっていくのを眺めながら、僕は地面に腰を下ろして釣りをするふり。頭の中は、彼女の事だけ。
「……怒るかな。スーツケースは狭いって……」
 彼女ならそんな点で起りかねないなと思いつつ、頬を緩ませる。他の自殺志願者達は皆、屋外で自殺だと断定される形で殺している。日本においては自殺者の司法解剖はほとんど行われないからだ。
 だが彼女は僕の家で殺した。死体の処理をする必要が生じた。でも僕には彼女を切り刻んだりは出来なかった。その体を傷付ける事が出来なかった。だからスーツケースに詰めて、海に沈める事にした。これから何が起きようが、死体が見つからなければ何も起きようがないのだ。
 それに、この世界を愛していた彼女を海に帰してあげたかった。
「菜乃花さんは、蓮でしたよ。泥から生まれても泥に染まらない。蓮のような人でした」
 この世界と言う泥から生まれたのに、この世界に染まらない。誰よりも綺麗な人だった。
「……やっぱり何も釣れないなあ……そりゃそっか」
 僕の呟きを拾ってくれる人は、もうどこにもいない。ただただ、夜の闇に虚しく消えていくだけ。

◇◇◇

「すみません。自首したいんですが、どこの窓口に行けばいいですか?」
 一度目を丸くした警官に同じ言葉を繰り返す。ただし二度目は最後に「殺人なんですが」と付け足すと、警官は慌てた顔を隠しながら僕を窓口へと案内した。

 彼女を海に帰してから一ヶ月。僕は身の周りのものを処分し、バイト先のコンビニも退職してから、最寄りの警察署へと向かった。窓口で「殺人で自首をしに来た」と言えばすぐに受理され、事情聴取が始まる。「任意ですから拒否も出来ます」と言われ、まるでドラマのようだと思いながら僕は安いパイプ椅子に腰かけ、目の前の刑事の質問に答えた。
「名前は、林裕樹さん。二十三歳。職業は無職。で? 一体誰を殺したんですか?」
「たくさんです。見ず知らずの自殺志願者を殺しました。同意殺人って事になりますかね」
 刑事は訝しげな顔で僕を見る。提出した携帯電話は解析が行われているのか、刑事が手にしているのは僕の免許証だけ。少し離れた場所に置いている机では別の刑事が自首調書を作っているのだろう、ノートパソコンでキーボードを叩いている。
目の前の刑事は僕を見て、「具体的な人数を教えてください」と言う。その顔はすでに「犯罪者」を見る顔に変わっていた。
「具体的な人数と言われても、わざわざ数えていた訳ではありませんから、ちょっと思い出せないですね」
「では、被害者達をどうして殺したんですか? その方法は?」
「安楽死を望んでいたので、叶えてあげたんです。方法は大体、睡眠薬を過剰摂取させて眠らせてから、海に突き落としたり首を吊らせたりですね。自殺に見えるように殺しました」
 刑事の質問に答える度にキーボードがリズムを奏でる。僕は刑事の質問に淡々と答えた。犯行動機、殺害方法、被害者達との接触方法、僕の身の上。答える事に恐怖はなかった。
 だが刑事が「何故自首をしようと思ったんですか?」と口にして、僕は一瞬思考を停止する。僕の頭を占拠して玉座に腰かけたのは、殺して、息をしなくなってからようやく気付いた恋心だった。
「好きだったんです。それを、もう取り返しがつかなくなってから、気付いてしまった。僕は彼女がいない世界では生きていけなくなったんです。だから、自首しに来ました」
 刑事は「何を言っているんだ」と言いたげな顔をするが、僕はその刑事に笑ってみせた。その瞬間、別の刑事が取調室のドアを叩く。僕の目の前の刑事が席を立ち、ドアを開けてひそひそと耳打ちで話を聞いている。そんな内緒話をせずとも、携帯電話の解析の話だろう事は想像に容易かった。
「携帯電話から、貴方と被害者と見られる方のSNSでのやり取りが復元されました」
 刑事の言葉に「そうですか」と返して目を閉じる。復元されたのはSNSでの短い、ほとんど具体性のないメッセージのみのはずだ。本命のメッセージアプリは使用の痕跡しか見つからず、やはり復元が不可能だったのだろう。詰まるところ、ただのハッタリだ。
 そう分かっていても、僕はそのハッタリに乗る。SNSのメッセージだって、わざと消して「如何にも怪しい」を装ってから来たのだ。今更ここで逮捕を免れる気など毛頭ない。

 彼女のいない世界では生きていけなくなった。これが僕の正真正銘の、本音なのだから。

◇◇◇

 あれから僕は「証拠隠滅の恐れあり」として、身柄の拘束を受けた。事件の捜査が始まり、彼女以外の被害者で三名分、何とか立件出来そうな証拠を掴んだらしく、裁判所へ逮捕状が請求され、僕の手首には冷たく無機質な手錠がかけられた。
 現代の日本において殺人罪の重さは、ゼロか一で大きく変わるのは言わずもがなだが、一と二でも大きく変わる。殺したのが一人なのか、二人なのかは、死刑になるか否かのボーダーラインだ。
 そして僕はそのボーダーラインを無事、超える事が出来たらしい。

 分厚いアクリル板の向こうで、若い男の弁護士が「死刑か無期懲役か無罪か、どこで争いますか?」と呟いている。争わなければ恐らく死刑は確定なのだろう。弁護士は「無期懲役の方が難しいと思います」と手帳にペンを走らせた。
「では、無罪で争います」
「……相当厳しいですよ。正直言って」
「でしょうね。僕が無罪ではない事は、僕が一番知ってますので」
 弁護士が手を止め、理解が出来ないと言った顔を見せた。僕はその顔を見て軽く笑う。僕は無罪ではない。百%有罪だ。そんな事は僕が一番理解している。
 しかしそれはあくまで「この国の法律に照らし合わせたら」であって、僕は自分のした事を「罪」だとは思っていない。死にしか救いが見出せない人は確かに存在するのだ。
 死と言う絶対的なゴールは、この先の人生を生きていく上での「可能性」を根こそぎ奪うが、揺らぐ事のない「終わり」を与えてくれる。その終わりが、絶対的な「安堵」へと繋がる人は確かに存在するのだ。僕はそんな人達をたくさん、見てきた。
 だが、何をどう言ってもこの国において僕の行為は「殺人」である事も重々承知している。だからこそ見てみたいのだ。こんな僕が、「僕は無罪だ」と主張したら、彼女が愛したこの世界は僕をどう見るのだろうか、と。
「弁護士さんは、奥さんや子供はいますか?」
「……いえ、生憎といませんが」
「そうですか。持つといいですよ、大切な人。世界が変わるんです」
 僕は彼女に変えてもらったんです。そう呟くと弁護士はまた、理解が出来ないと言いたげな顔をした。恐らく警察の捜査でも彼女の事は見つけられなかったのだろう。立件出来たのはたったの三人だけ。しかもその三人は全員男性だった事から、弁護士は「彼女」が誰だかすら分かっていない。
僕は机に肘をつき、体をアクリル板に傾ける。ぎいっと安物のパイプ椅子が音を立てた。
「僕はね、彼女を救ってあげたかったんです。他の皆と同じように」
 目に焼き付いた彼女の最期。安らかな死に顔は、最期まで変わる事はなかった。
「今でも、悔やんでいます。あの三ヶ月で僕は彼女に何をしてあげられたのかと。やり直せるのなら、彼女に出会ったあの日に戻って、彼女を救いたいんです」
 弁護士が面倒臭そうに小さく溜め息を吐いた。だが本人は小さく吐いたつもりでも、この暗く狭い面会室にはよく響いた。弁護士の取り繕ったわざとらしい咳払いに僕は笑って言葉を続ける。
「あれは、半年前。雪が予報されていた寒い日の事でした」
 本当に寒くて、バイトのシフトが入っていた事を恨んで。だけどこの寒い日のシフトでなければ、きっと彼女に出会う事もなかった。
「あの日、彼女に出会えた事を感謝しています」
 それは僕が唯一、この世界に向けて出来る感謝だった。

◇◇◇

「被告、林裕樹を死刑に処す」
 被告人は泣きもせず怒りもせず。俯く事もせず、ただただ前を、自身に死刑を宣告した裁判長をまっすぐに見据えていた。自身の死が確定したと言うのに、その目は濁っていなかった。不安も恐怖も、何も宿していなかった。
「今までお付き合いいただき、ありがとうございました」
「いえ、これが仕事ですから。お力になれず申し訳ございません」
「いいんです。これが、僕の見たかった世界ですから」
 被告人はそう、意味の分からない言葉を呟くと弁護人席から離れ、係員に連れられて行く。裁判は終わった。被告人は控訴をせず、死刑が確定した。
まだまだ駆け出しの弁護士である私は、勤務している法律事務所の指示で国選弁護人として、一切勝ち目のない彼の弁護を引き受けた。のらりくらりと、時折理解が出来ない事を口にするその姿は形容しがたいものであったと、記憶に鮮明に残っている。
だがそんな被告人にも、もう私が会う事はない。連日ワイドショーやSNSを盛り上げた被告人の罪に釣られて、引っ切りなしに訪れていた記者達も、もう被告人に会う事はない。死刑が確定すると言う事は、そう言う事だ。
 これから被告人は、死刑が執行されるその日まで、いつになるかも分からないその日まで、ひとりきりで過ごす事になる。これは、被告人自身が望んだ事だ。

 なのに私は、一体何が引っかかっていると言うのだろうか。
「……彼は、本当に悪なのだろうか……?」
 誰にも拾われない私の呟きは、強い風に吹き飛ばされ、人混みの絶えない東京の街に消えた。

◇◇◇

「長いようで、短い時間でした」

 僕の腰に繋がれたロープを握る刑務官に語りかける。刑務官からの返事はない。僕はそれをお構いなしに、「今までありがとうございました」と呟いた。二人分の足音だけが遠く遠く、延々と響く最上級に無機質な廊下を歩く。午前中だと言うのに廊下は漆黒のように感じた。

 今日、朝食を終えてから刑務官に言い渡された。「午前十時に刑が執行される」と。僕は怒るでも嘆くでもなく、「そうですか」とだけ返した。死刑が確定したその日から、いつか必ずくる日だ、特別驚く事もない。アメリカ等では事前に通達し、最後の晩餐が食べられるらしいが、彼女がいなくなってからと言うもの、僕にとって食事は単なる栄養補給に過ぎない。今更食べたい物などないので、むしろ当日通達の方が有難かった。

 房を出ると手錠をかけられ、腰にロープを結ばれる。そのまま刑務官に連れられ、教誨室へと入った。自由になった手を見つつ、数少ない所持品は処分をお願いし、教誨師と短い会話をした。
「後悔はありませんか?」
「ありますよ。僕は彼女を救えなかった。それだけが唯一の後悔です」
 彼女が誰を指すのか分かりかねた教誨師は一度押し黙る。そのまま僕は「遺書は必要ありません」と呟くと、これ以上ここに用はないと汲み取った刑務官の手で前室へと移される。椅子に腰かけていた男性は、僕が長らく世話になった拘置所の所長。そしてその口から正式な死刑執行通達が告げられた。
 カーテンで仕切られた向こう側が執行室だと説明を受けたのちに、刑務官が僕に再度手錠をかけ、目隠しをする。カーテンの開く音。歩くようにと指示する刑務官の声。足を縺れさせないようにと軽く背を支えられながら所定の位置に立つ。首にロープがかけられ、肌にささくれ立ったそれがちくちくと刺さる感覚。そして刑務官が離れて行く足音。
「種は蒔きました。彼女が愛した世界が、彼女を愛せる世界に変わる事を願います」
 がたんと音がして、床がなくなり落下する感覚。遊園地の遊具に乗っているようなその感覚が一瞬来た後で、首を絞められる感覚がくる。圧迫され、肌にロープが食い込む物理的な苦しみと、呼吸が出来ず体が酸素を失っていく見えない苦しみが僕を襲った。
 体内の酸素が消えていく。意識が朦朧としていく。その中で僕は、自首を選んだ理由を改めて思い返した。
 引っ切りなしに訪れる記者達。「死にたいと願う人を殺すのは罪なのか?」。センセーショナルな見出しに世間は沸き立った。そうだ、それでいい。僕がしてきた「救い」を、いつかどこかで誰かが継いでくれる。そうすればきっと、この世界は少しだけ変われる。
 彼女に愛されながら彼女を愛さなかったこの世界が少しだけ、変われるはずだ。

 言葉にならない「愛してる」が、執行室にただただ響いた。


#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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