シルクの海
キャンドルを焚いた。ゆらめく小さな炎と染み込んだアロマの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
開け放たれた窓から吹き込む優しい風に揺れるハンモックを素通りしてベッドに倒れ込む。
薄暗い部屋はさんざ強い光を浴びた瞳をぼんやりと緩めていく。
柔らかいマットレスに沈み込む。深く、深く。
どこまでも、深く。
夢を見た。変な夢だった。
私は随分と大人になっていて、それで今よりもずっと軽い身体だった。
明け方の道路を、誰よりも速く走っていた。
誰よりも、飛んでいく鳥よりも、駆け抜ける自動車よりも、吹き付ける風よりも、誰よりも、何よりも、私が一番速かった。
駆け抜けた先で、私は一つの辺鄙な本屋に辿り着いた。なんでもそこで本を買うと、手に入れた本の内容が実際に起こるというのだ。
私は訝しげに首を傾げつつ、顔の見えない店主から一冊本を買った。お代は何故か、ホタテの貝殻で支払っていた。
その本は、世界からネコが居なくなるという話だった。けれど、私はネコを知らなかったので、何も起きなかった。ただ、よく挨拶を交わすお隣さんが、家ごとまるっと居なくなっていた。実は最初からそうだったような気もするし、この本のせいな気もした。とにかく私には分からなかった。
帰ろうと思って振り向くと、そこは海原だった。
ラベンダーの匂いがする海は、冷たくなく、どこか暖かくシルクのような肌触りの波だった。
私は泳げども泳げども前に進めず、下にも潜れず、ただ水面でぼんやりと浮かぶ以外のなにも出来なかった。
クラゲが足元にきて何事か言った。
『透明の反対側に青空があるのか、水底の正面にセピアがあるのか、きみはどちらだと思うかい?』
私が答えを考えているうちに、クラゲは波に攫われて消えてしまった。そういえば、家に帰りたかったのだと、私は思い出した。
けれど、思い出した側から、どこにいけばいいのか、どこに家があるのか、そもそも私とはなんだったのか分からなくなった。
誰かに聞こうにも、そういえばこの世界には誰もない。だってさっき、ネコが根こそぎ居なくなってしまったのだから。
私は、二本の足で地面を蹴って前に進んだ。夕焼けの道路を一生懸命駆け抜けた、そのうちに、両手も使って走るともっと速いような気がした。
私の手はいつのまにか前足になって、着ていたはずの服は何も無くなって代わりに獣のような毛が生えていた。
視界はみるみる遠くなって、広くなる。
誰もいない世界を、道路、ただひた走る。
走って、走って、走って、私は気づいた。
自分の姿がネコになっていることを。
私は、ネコも人も誰もいない世界で、たったひとり、唯一のネコになってアスファルトの上を駆け抜けていた。
そういう、夢だった。
気がついた時、カーテンの隙間から差し込むのは闇ではなく眩しい朝日で、アロマキャンドルは途中で火が消えていた。
私は場外、マットレスから落ちて床で寝そべっていた頭の、上では猫がすやすやと丸まって眠っていた。
時計を見れば、起きるにはいささか早すぎる時間帯だった。私は猫を抱き上げベッドに移った。
シルクのシーツとふんわり軽い羽毛布団に包まれて、今度は何も見えない闇に、またふわりと沈んでいった。
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