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#52.記憶の香水

“メモワール・ド・パルファム”
この店を見つけたのは偶然だった。

記憶の香り

そんなような意味合いらしい。

そう、ここは記憶を香りとして再現してくれる香水の店だった。

落ち着いた雰囲気の、少し薄暗い、けれども怪しくはなく洒落た装いの店は、香水店のイメージとは程遠くさまざまな匂いで目が回るようなことはなかった。

記憶の香水はそのまま、その人にとって思い出深い記憶の匂いを再現してくれるそうなのだ。

たとえば

名も色も忘れた、けれども確かに記憶に残っている道端に咲いた野の花の匂い

たとえば

遠い故郷の森林奥深くにある湖の匂い

たとえば

生まれてすぐに抱きしめられた暖かな人肌の匂い

あげればキリがないが、とにかくそれらの記憶、あるいは“思い出”の匂いを、その香水は思い出させてくれるのだそうだ。

ふと、今はもうなくなったとある星の、幻の海の事を思い出した。
アクアブルーの透き通った水はどこまでも透明で、照りつける太陽と、爽やかに吹く風が心地よかった思い出の海だ。

その星は少し前に崩壊がはじまり、今は訪れることのできない死んだ星となってしまった。
何事にも終わりはくるし、最後に訪れた時もこれが最後だと理解したうえで、自分なりに別れを告げたはずなのだけど、こうやって思い出してしまうくらいには自分の中で思い入れのある海だったのだ。

店員に話を聞くと、その再現性に誇りを持っているらしく、香りを再現出来ようが出来まいが、本人が欲しいと思わなければ対価は必要ないのだそうだ。そして欲しいと思った時、思い出が染み込んだ持ち物が対価となるそうだ。

今回の場合は、と店員がこちらをさらりと一瞥する。

ポケットからはみ出たハンカチを指してそれがお代になるのだと言った。
これはその星で海に足を濡らしたとき、その塩水を拭ったハンカチだったことを思い出したのは、それからしばらく後のことだった。

まあ、とにかくその時の自分は、長年愛用していたハンカチではあったけれど、好奇心と、そしてあの海への思いからすれば安いほどだと思い二つ返事で快諾したのだった。

最初にしたのはカウンセリングだった。
思い出の話をするのだ。
どんな匂いだったかなどは特に聞かれず、どんな気候だったか、その時の年齢や身長、当時の体調や好きだったもの、着ていた服装、とにかくあまり関係のなさそうなことを事細かく聞かれた。
さすがに覚えていないやというところもなんとか思い出して話をする。
一通り質問が終わったあと、店員は後ろの棚からいくつか茶色の小瓶を取り出した。
小瓶には手書きのラベルが貼ってあるのだけれど、外国の言葉だろうか、読むことは出来なかった。

いくつか白い短冊形の小さな紙を取り出して、小瓶から液体を数的垂らしていく。

それぞれで使う小瓶の中身や比率を変えてブレンドするようだ。
追加で確認するように質問をされ、思い出しながら答えていく。
店員が匂いのチェックをし、最終的に3つの紙片を渡される。
順に匂いを嗅いでいく。

一つ目は、しっとりとした塩の匂いがする夕焼けの海の匂いだった。
近いような気もするしピンと来ない気もする。
なにしろ匂いだ、もうとっくのとうに忘れているのだからうろ覚えなのはしかたなかろう。

二つ目は、カラっと晴れた真昼の海の匂いがした。嫌いな匂いではないけれどこれもあまりピンと来ない。やはり質問だけで再現するのは難しいのだろうか。

そして最後に三つ目の匂いを嗅いだとき、直前までの自分の考えが覆ったことを理解した。

そう、それは夏も終わりすっかり寒さが沁みる秋の終わりの早朝だった。
その日の昼にはもう此処を発たなければならない。そんな日の朝。
名残惜しげに足を塩水にさらし、その波の音を耳に焼き付けていた時の、少しばり鼻の奥がツンとするような、けれども不快感のない、そんな海の匂いだった。
まるで今その景色を見ているような香りに、ふと涙を溢してしまいそうになった。

そうか、もう二度とこの匂いは嗅げないと思っていたのだけれど、こんなめぐり合わせもあったのだなと、そう思った。

分かりやすすぎる自分の反応に、店員も察したのだろう、今度は手首に垂らすようにスポイトを差し出してきた。

香水には匂いの変化がある。

つけた瞬間に香るトップノート。

体臭と馴染んで香るミドルノート。

そして香水の余韻として香るラストノート。

それぞれで
朝焼け、真昼、夜をイメージしているらしい。

ミドルまでは少し待てば嗅げるけれど、ラストノートは半日経たないと分からないらしい。

けれどもとにかくこの香水が気に入ったので、ラストノートは後でのお楽しみと言うことにして対価であるハンカチを渡す。
店員はショウケースの中に並べられた色とりどりのガラス瓶の中から、薄水色したシンプルなデザインの瓶を取り出し、先ほどブレンドした割合で香水の調合をしてくれる。

それなりに大切にしてきたハンカチではあるけれど、本当にこれでよいのかと聞くと、お金ではなく思い出がなにより価値があるらしい。

思い出の香りは思い出でしか再現出来ないのだそうだ。
あまり分からなかったけれど、まあそういうことならありがたく頂いてしまえるくらいには現金な自分だった。

渡された香水を持ち帰って早速、瓶を取り出す。合わせて書斎からとあるアルバムを持ってくる。そこには、当時撮った写真があるのだ。
フィルムをそっと剥がして一枚写真を手に取る。そしてその写真に直接香水を振りかけた。
途端、写真のおかげかさっきよりもより鮮明に海の記憶が思い浮かぶ。
あの星から、あの海から見えた景色はもう無い。けれども確かにここに記憶として、更には記録として残っている。
それを自分が覚えている。
その事実がなんだかとても、嬉しかった。

後日、店の近くを通った際に顔を出そうと思って行くと、その店があったはずの場所には、古びれた空き地と、すっかり太陽にやけて色褪せた看板が立っているだけだった。
隣のビルに出入りしていた人を捕まえて話を聞いても、そんな店があったことなど一度もないと、怪訝な顔で返事を返されるだけだった。

狐につまされたような、一時の幻想を見ていたような気がしたが、部屋に戻ると確かにあの時渡したお気に入りのハンカチは見つからなくて、代わりに薄水色した綺麗な瓶と、思い出の海の匂いがする香水がそこにあるだけだった。

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