見出し画像

勝敗はきかないでー2019

謹賀新年。

ご無沙汰している間に年が明けてしまいました。

前回投稿が10月12日。
あの台風19号が東京に上陸した日に、仕事が休みになった隙をついて『読みたいことを、書けばいい。』について書いたのが2019年の最後になっていたんですね。

つまりあのころを境に本格的に余裕がなくなっていったということで。

年末は30日まで仕事して、大晦日と元日で滞ってた家のことや各方面への連絡なんかのToDoを20ばかり片付けて、今日やっと完全オフの休日を過ごしたところで、明日(日付変わって今日!)からまた仕事が再開。

大晦日の仲間たちとの年越しの宴が本当に多幸感あって救いであったのだけれども、なんとなくこの1月に死亡フラグが見え隠れしているような気もしていて、もう今日を逃がすと2019年を振り返る機会は彼方に流れ去ってしまうであろうこと請け合いなので、ここに、記しておこうと思うのです。


1年9イニング論

去年の1月が過ぎたころ、1年の12分の1が過ぎたことについて、こんなことを書いていました。

中学まで野球小僧だったりしたので、そんなとき、これを9イニングに換算したら、などと考えたりする。
1年365日、これを約360日と概数にすると、1イニングは360÷9=40日。表裏で分けると20日ずつで、つまり1アウトあたり6~7日。
従って、33日目の2月2日の今日は、1回裏の1アウトと2アウトの間くらい、強いていうならカウント2ストライクくらいまできている、というところと換算できるというわけ。
(中略)
…とまあ、ほとんど妄想とこじつけによるお遊びでしかないのだけれど、こうした振り返りや、人間にどこかしらあるらしいバイオリズムみたいなものを20日単位で勝手に読み取るみたいなことにも少しは役に立ったりする、安上がりのライフハックであるかもしれなくて。

この「1年9イニング論」、ほとんどお遊びのつもりだったのだけれど、実はその後も時折「いま何イニング目だ…」と思い出すようになっていて。

守備の回で苦しい時には「(相手の攻撃に)攻め込まれてんなあ」と妄想し、攻撃の回に苦しい時には「(相手の投手に)攻め込まれてんなあ」と妄想し、だいたい攻め込まれていたようにも思うのだけれども、気を紛らすくらいには役に立ったのでした。

そこでせっかくなのでこれに沿って2019年の「試合」展開を振り返ります。
ちょっと長くなりますが、がんばれ、私球団。
*自分が後攻になっている理由は元記事をご参照。


序盤戦

1回表の守備 1月1日~1月20日ごろ
職場でのゴタゴタがありかなり攻め込まれた感じがあったけれども、前の年末12月28日に今の家に引っ越してから割と体調はよく、切り抜けた感。
このnoteを始めたのも1月3日。
初投稿は『ゲンロン0』についてで、「憐れみ」を契機とする「連帯」についてや、「不能の父」にまつわる「家族」についての哲学は、これからも何度でも読み返して身体に染み入らせたいと思う珠玉の1冊です。

1回裏の攻撃 1月21日~2月10日ごろ
勤めていた職場を離れていくことが現実的に見えてきて、その後について考えたり整理したりしなければならなくて、なかなか攻め気になれない初回。
そんな中で実家から1つ年上の兄がやってきて、家族について語らう時間が。
「もう大人なんだから」という言葉を「ほっといてくれ」という主張のためではなく、「親を不安にさせない程度のふるまいは身につけるべし」という自戒のために使うべきだという発見があったりしたのでした。

2回表の守備 2月11日〜2月28日ごろ
この月末付で正社員の仕事を退職することが急展開で決まり、引き継ぎ・残務処理と3月からの仕事探しに追われて防戦。
平野啓一郎さんの「分人主義」について考え始めたのもこのころのようで、これもその後ことあるごとに思い起こすことになる、大事な本になったのでした。

2回裏の攻撃 3月1日〜3月20日ごろ
仕事を「4足のわらじ」で歩き始めたのがこのころで。
なんとか生き抜くべく計画を立てて、選考会やら面接やら研修やらに駆けずり回って「攻めた」感。
noteでは「ユーラシア横断宗教本の旅」などと明らかにサイズ間違いの大風呂敷なタイトルで、記事3本、6冊分の読書記録をつけるなどしていて、なんだか元気だったようすがうかがわれます。

3回表の守備 3月21日〜4月10日ごろ
新しい仕事それぞれをわしわしとこなしながら、隙間に経営関連の資格の勉強して試験も受けたのがこのころで、守りのイニングでありながら強気が続いていたもよう。
noteはご無沙汰になってしまったようだけれども、映画「人魚に会える日」を観て仲村颯悟監督にエールを送ったのがこのころでした。

3回裏の攻撃 4月11日〜4月30日ごろ
このころ仕事が「5足」に増えたのでした。
この時期に「攻めた」というよりは、3月のうちに動いてた分の最後の結果が出た、という感じ。
上野千鶴子先生の祝辞について書いたのがこの時期ですね。
「後輩たち」に宛てて「たくさんの物語を集めてください」なんて偉そうに言える程度には、強気が残っていたようです。


中盤戦

4回表の守備 5月1日〜5月20日ごろ
令和になりましたね。
「5足」で働きながら、前職で残ったトラブル解決に本格的に動き始めたのがこの時期でした。
ちなみに平成最後の夜はカラオケで「ミスチル・桜井和寿の両義性とサンボマスター・山口隆のやさしい嘘」について友達に熱っぽく語っていた、と記録にあります。
これについてもそのうちちゃんと書きたいですね。

4回裏の攻撃 5月21日〜6月10日ごろ
このころになると仕事に追われてnoteのご無沙汰ぶりが常態化し、この間は1本のみ。
佐々木中さんの『切りとれ、あの祈る手を』についてでした。佐々木さんの『夜戦と永遠』は自分的平成史上最高美文の傑作だと思っているけれども、こちらも「書くこと」について希望を与えてくれる、大事な1冊になりました。

5回表の守備 6月11日〜6月30日ごろ
新しい仕事の予感がする出会いがあったりしたものの、自滅を避けるべくしっかり守ったのがこの時期。
学習塾の仕事での消耗を自覚し始めるのもこのころだけれど、ささやかな抵抗を試みて、闘っているようすが記事に残っていました。
この闘いも、まだ続いています。

5回裏の攻撃 7月1日〜7月20日ごろ
後半戦突入。
虐待防止のNPOでの仕事で、11月に開催するイベントの一切を任されてしまったその準備が本格始動。
さらにこれとはまったく別に、前職時代の仲間と、同じく付き合いのあった業者さんと合同で夏のイベントに参加することになったりしてその準備にも右往左往。
旧友との再会もあったりしつつ多忙にかまけて、いよいよこの時期はnoteの投稿がゼロになったのでした。

6回表の守備 7月21日〜8月10日ごろ
前述の夏のイベント、当日を迎えるころには割とへろへろになってしまって、このイニングにふさわしい(?)「守り」の展開に。
反省の夏。
そうそう、「死にたい」と言う人に「生きてほしい」と初めて伝えた記念日が8月3日でした。その人はいまピークの時は過ぎたけれども、まだ闘っています。
このあと11月にオープンすることになる仲間のカフェの、内装工事が始まってその手伝いに行ったりしたのも、居場所を確保しようとする「守り」であったのかもしれません。

6回裏の攻撃 8月11日〜8月30日ごろ
5回裏〜6回表の攻防を過ぎて、このイニングは静かに終えた感。
仕事を1つ削って、「4足」に戻したのでした。
津村記久子さん『ポトスライムの舟』について書いたのがこのときで、いまではすっかりファンといって差し支えない熱量を持つに至ったのでした。


終盤戦

7回表の守備 9月1日〜9月20日ごろ
なんといってもこの回のハイライトは離婚。
もっと時間かかると予想していたところが、思わぬ展開で一気に、そして静かに成立。
そのとき書いたものはやっぱり読み返してしまったけれど、まだ「青ざめる」ほどはあの時の自分から離れてはいないようで。

7回裏の攻撃 9月21日〜10月10日ごろ
実家から今度は父がやってきて。
「心配させないための健康パフォーマンス」をやりきって、1月に兄と会ったときよりちょっとだけ大人になった自分をほめてあげたくなったのがこのとき。

8回表の守備 10月11日〜10月31日ごろ
前述したNPOのイベント準備がいよいよ佳境に入ったところで、演者を怒らすというちょっとしたトラブル発生。
はっきり自覚するほどかなり消耗したのがこの時期で、10月12日の記事を最後にnoteの更新も途絶えてしまったのでした。

8回裏の攻撃 11月1日〜11月20日ごろ
件のイベントは盛会にて丸くおさまり、さてこの終盤にもうひとふんばりというタイミングで始まったのが、受験生たちの過去問添削。
「やりすぎ禁物」と知りながら、じりじりと休日と体力を削っていく不穏な展開で最終イニングに突入します。

9回表の守備 11月21日〜12月10日ごろ
夏から内装工事の手伝いにも行っていた仲間のカフェが開業。ちょっとした個人塾のようにもなっているその手伝いと休日内職の作業のために週2で通う「居場所」になっていて救われていて。
仕事については総量を落とさぬままスケジュールだけ組み替えるなどして、攻め込まれる中にも小さな希望を見出すべく抗っていたのがこの時期でした。

9回裏の攻撃 12月11日〜12月31日
必死の年末。体力的にはほとんど限界。
過去問添削にあえぎながら、NPOの仕事では組織づくりに本格的に取り組むことになったりして、noteではずっと以前にコーチングについて書いたりしたこともあったけれども、スタッフとの個別面談でそれが実践できたかどうかといえば覚束なくて。
いくらかプラスはあったろうと認めてあげたい自分と、「攻め」といえるほど強気でいられない自分とがいたりして、年を越えて辛抱強く取り組む課題となったのでした。


勝敗は…?

こうして見ると、4回までの前半戦は割と強気、5回裏〜6回表の夏に騒がしい攻防があったのち、8回以降にじりじり攻め込まれた、といった展開で。
さて勝敗はどうなったと見るべきなんでしょう。

実は最初にこの「1年9イニング論」を思いついたときからの懸案でもあったのだけど、「この1年、勝った」と考えることにはどこか人として驕りがあるように思うし、「負けた」と考えるのもやっぱり惨めだし、とはいえ「延長戦突入」と言ってしまってはいつまでも終わりが見えないし、「引き分け」で終わりにするのも「人生プラマイゼロ理論」に基づく出来レースのように思えてしまってつまらないなと感じていて。

…だから、うやむやにしましょう。

ヤーコ・セイックラ&トム・アーンキル『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(斎藤環 監訳,2019,医学書院)によれば、「オープンダイアローグ」の7原則のうち第6は「不確実性に耐える」とされています。

それは「答えのない不確かな状況に耐える」ことであり、「すぐに解決したくなる気持ちを手放す」ことです。

まあ、オープンダイアローグの舞台である精神医療の話は今回まったく関係ないので、この引用は場違い極まりないでしょうけれども。

いいようにも悪いようにも「○○な1年だった」と意味づけたくなる気持ちは手放して、「いろいろ攻防があって、そして生き抜いた」というその事実だけを確認したいと思うのです。
そして生き抜いたというその事実だけでも、自分を認めてあげるには十分かもしれない、とも。

去年の正月の記事

1年という時間は、望む姿に自分を変えるのにはきっと短いけれども、思ってもいなかった姿に変わってしまう程度には、十分に長い。

なんて書いていて、あの時点では仕事を4つ(一時は5つ)やってるなんて思ってもいなかったのだし、バツイチになってる想定もなかったのだし、こんなへろへろの年末になるとも思っていなかったのだし、割と個人的には納得感のある考え方であったりして。

もうすでに新しい1回表の守備は始まっていて、冒頭「死亡フラグ」と書いたような不穏な予感がしていたりはするのだけれど、また1年後、「序盤かなり攻め込まれたけど、いろいろ攻防があって、そして生き抜いた」と「思ってもいなかった姿」で振り返ることができるように、そうして自分を認めてあげることができるように、このグラウンドに立ち続けていようと思うのでした。

#日記 #2019年 #1年9イニング

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?