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17冊目ー『切りとれ、あの祈る手を』

ハフィントンポストにnoteについての記事が出てましたね。

なぜ「note」には、記事のランキングがないのか? 代表の加藤貞顕さんが目指す“ネットで安心して書き続けられる場所作り”

語られている「心地よい“街づくり”」というマインドは、利用者として安心を感じられる表現で、好感をもちました。

《続けて(発信して)いる人の特徴を見ていると、コンテンツを通じて仲間ができているんですよね。見てもらって、共感してもらって、仲間ができる。それはお金だけの話じゃなくて、人生の幸福の一番の要素なのではないでしょうか。》

僕なんかはまだまだへっぽこなので仲間もできませんが、「書く」ことと「仲間」ということ、うんと広げて考えてみると、今回の本ともつながるところがあるかもしれません。


佐々木中『切りとれ、あの祈る手を <本>と<革命>をめぐる五つの夜話』(2010,河出書房新社)

佐々木さんといえば『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』(2008,以文社)を兄から結婚祝としてもらったりして個人的にも思い入れあったりするのだけれど、あの超がつくほど重厚な大論文と比べると、5回の講義での語りがまとめられた本書はいくらか読みやすく(それはご本人にとってはまったく賛辞にならないだろうと思うけれども)。

しかし内容は相変わらずのヘビー級。

16世紀のルターによる「大革命」、それに先立つ12世紀の中世解釈者革命、そして「迂回」として7世紀のムハンマドによるイスラームの「定礎」を柱としながら、歴々の哲学者・文学者の言葉とともに「読むこと」「書くこと」の意味を「藝術」一般にまで拡げながら、その意義を深く深く掘り下げて、そして最後には人類に残された380万年の未来に向けて希望をつなぐ。

言うまでもなくかいつまんで要約なんて僕の力量をはるかに超えていてできるはずもないのだけれど、ゴリゴリの哲学本なのに涙さえ出たこの感動をなんとか伝えられるように、そして読んでくれた人が「読むこと」「書くこと」をやっぱり続けようと思ってもらえるように、書きます。


なぜ書くのか

若者からの「どうして作品を発表しなくてはならないか」という問いに対して、佐々木さんは「読んでしまったからです。」と答えます。

少し長くなりますが、本文から。

もっと言いましょうか。ベケットやツェランやヘンリー・ミラーやジョイスやヴァージニア・ウルフや……ヴァレリーがいなければ私はここにいません。ニーチェやフーコーやルジャンドルやドゥルーズやラカンがいてくれてよかった。いてくれなければ、私は一体どうしていいかわからなかった。何を書いたらいいのかわからなかったということではなくてね。何をして生きていたらいいのかもわからなかった。ヴァルター・ベンヤミンが言っています。「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」と。足音を聞いてしまったわけでしょう。助けてもらってしまったわけでしょう。なら、誰の助けになるかもわからないし、もしかして誰にも聞こえないかもしれない。足音を立てることすら、拒まれてしまうかもしれない。けれど、それでも足音を響かせなくてはならないはずです。響かせようとしなくてはならないはずです。一歩でもいいから。

「友」は今この時代この場所で生きる人たちだけではなくて、時空を超えてつながりうる。
これは夢想ではなく事実だと。

100年以上前にドイツで『ツァラトゥストラ』を書いたニーチェは今でも世界中の人々にとって「友」であるはずで、さらに遡ってシェイクスピアも、もっと言えば『オイディプス王』で知られる古代ギリシャのソフォクレスも、しかり。

彼らは初めから偉大だったから、それらの作品は残るべくして残ったのかといえば、そうではなくて。

『ツァラトゥストラ』の最終部、第四部が何冊配布されたかご存じか。出版社に見捨てられて、自費出版で四〇部刷って、七部だけ知人に贈ったのです。世界でたった七部ですよ。
ギリシャ人たちが書いた書物で今まで残っているのはどれくらいでしょう。千冊につき一冊です。(中略)〇・一パーセントしか残らずとも、九九・九パーセントの死滅を超えてギリシャ文化はイスラーム文化を育て、ヨーロッパを創り、そしてわれわれのこの世界の礎となった。彼らは勝利した。〇・一パーセントの絶対的な勝利です。

さまざまな偶然と奇蹟の積み重ねのなかで、0.1%だけが今この時代まで生き延びてきたという事実。

この0.1%に賭け、いつか誰かの友となる可能性に賭けること。

書くことの尊さは、自分自身が救われたり、あるいは同じ時代同じ場所の人々から共感や承認を得られたりといったことには収まりきらない射程があるのです。


ここでいう「書くこと」は文字を扱うことだけを意味しません。

文学を「藝術」一般にまで拡げて考えれば、描くこと、撮ること、歌うこと、奏でること、演じること、踊ること、彫ること、織ること、あらゆる藝術活動を含みます。

「読んでしまったから」という言い方に倣うなら、それらの行為を行う理由は「観てしまったから」「聴いてしまったから」「触れてしまったから」「身にまとってしまったから」となるでしょうか。

絵画に、映画に、歌に、音楽に、芝居に、踊りに、彫刻に、服に、時空を超えて「助けてもらってしまった」人たちが、また自らも誰かの助けになるように、0.1%の賭けに打って出ているのです。


生きるための文学≒藝術

ドストエフスキーが活動した1850年前後、ロシアの「文盲率」つまり字の読めない国民の割合がなんと90%以上であったという事実を示したうえで、さらに。

一体この連中は何を考えているのか。端的に九割以上読めないんですよ。ロシア語で文学なんてやったって無駄なんです。こんな破滅的な状況で、何故書くことができたのか。(中略)
当然です。文学が生き延びる、藝術が生き延びる、革命が生き延びるということが、人類が生き延びるということだからです。それ以外ない、何故書くのか、何故書き続けるのか。書き続けるしかないじゃないですか。他にすることでもあるんですか。

「文学」≒「藝術」は「娯楽」のような余剰として扱われるべきものではなく、人が生き延びるのに「本質的」なものであったし、今もそうあり続けていて。

それは「文学的」な物言いなどではなく、「われわれが、一度でもそれを決定的に手放したことなどあるでしょうか。それなしに生きることができたためしなどあるでしょうか。無い。それは絶対にありえない。」

書く(描く/歌う/奏でる/...)という行為は、自らが、そして誰かが、生きるために、生き延びるためにある。

「娯楽」ではなく、むろん「稼ぐための特殊技能」などでもなく、「生きる」ために人類は「書くこと」を続けてきたのであって、むしろそうした営みが生活の「装飾物」のような位置に追いやられてしまっている状態が異常なのだと。


その異常の根源を中世解釈者革命にみるというのが論旨の要であり、つまりその状態が800年続いているということになるのだけれど、この800年という時間がはたして長いのか短いのか。

「文字が生まれてからまだ五〇〇〇年しか経っていない」
「古生物学者の統計によると、生物種の平均寿命はだいたい四〇〇万年」
「われわれが生まれてから二〇万年ですから、あと三八〇万年くらいあるんですね」
という言葉にその回答は表れているけれど、これは屁理屈などでは決してなくて。

最後にまた少し長めに引用。

三七九万年譲ったとしても、あと一万年あるわけです。農耕文明がはじまってから今までくらいの時間がある。文字を産み出してから倍近い時間がある。なら、その一万年の間、われわれのルターやムハンマドやハディージャやアウグスティヌスやテレジアやドストエフスキーやジョイスやベケットやヴァージニア・ウルフが、彼女ら彼らのような人々が二度と現れないと考える理由は何かありますか。何せ一万年もありますから、イエスだってブッダだって、また来るかもしれないですよ。いや、ブッダは二度と生まれ変わらないと言ってるし、本物のイエスさんが来たら世界が終わっちゃうから少し困るけど、彼らくらいの人が現れるかもしれないでしょう。だから、こういうことになります――変革はなされるだろう。いつか、必ず。そう考えてはいけないのか。そう考えることが、何故夢想なのか。どうしてこれが夢想と呼ばれなくてはならないのか。もう一度言います。夢を見ているのはどちらなのか。


その偉大なリストに名を連ねようというのでは毛頭ないのです。

人類は「書くこと」を続けてきた。
それは余暇の楽しみのためなどではなく、生きることそのもののために。

だから、へっぽこでも恥じることなく、もちろん衒うこともなく、書くことを続けようと思うのです。

ああ、また伝えたいことのいくらも書ききれなかったと呻きながら、それでも。


願わくは、いつかの誰かの「友」となれることを祈りながら。


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