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20冊目―田中泰延『読みたいことを、書けばいい。』

台風19号が上陸、いよいよ本格的な台風模様になってきた東京郊外です。

南の島の「台風銀座」といわれるエリアの育ちであるので、台風は子どものころから慣れたところであって、安全確保のための島民の知恵―「外に出ない」は金科玉条として身に染みているところでもあるけれども、気圧950を切るっていうのはなかなかの勢力であるのでなんとなく緊張感もわいてきたところであって。

一方で予定外に仕事が休みになって明日と合わせて久しぶりの連休で、心おきなく読んだり書いたりできるわくわく感もわいてきていて、晴耕雨読、もとい「晴働雨読」「嵐書風眠」の理想の生活に今日一日だけ浸ってみたいと思っていたりする呑気もあって。

田中泰延『読みたいことを、書けばいい。』(2019,ダイヤモンド社)

めずらしく話題の本に手を出してみたのです。

副題「人生が変わるシンプルな文章術」はとてもビジネス書的で、実際にビジネス書の棚に並んでいるのだけれども、第1章がビジネスのための「文書」と「文章」は違う、というところから始まるように、お手軽なハウツー本の類ではまったくなくて。

それは筆者自身が「本書は、世間によくある『文章テクニック本』ではない」と宣言していることからも明らかであるし、「ターゲットなど想定しなくていい」という、電通のコピーライターであったとは思えないような見出しがデカデカと打ってあることからもうかがえるところで。

無数の文章術の本に書かれているのが、「読む人はだれかをはっきりさせて書きなさい」というやつである。
いわく「20代女性に響く書き方」。そんなものがわかる50代男性がいたら、もうちょっと20代女性にモテているだろう。そしてそんなモテ方を知っている男は、暗い部屋で一人で文章など書かない。
(略)
読み手など想定して書かなくていい。その文章を最初に読むのは、間違いなく自分だ。自分で読んでおもしろくなければ、書くこと自体が無駄になる。

しかし、自分がおもしろいと思えばなんでもいいのかといえばそうではなくて、その次の章では「つまらない人間とは何か。それは自分の内面を語る人である。少しでもおもしろく感じる人というのは、その人の外部にあることを語っているのである」とした上で、いわく。

ライターの考えなど全体の1%以下でよいし、その1%以下を伝えるためにあとの99%が要る。「物書きは調べることが9割9分5厘6毛」なのである。
(略)
調べたことを並べれば、読む人が主役になれる
調べもせずに「文章とは自分の表現をする場だ」と思っている人は、ライターというフィールドでは仕事をすることができない。
いまからでも遅くはない。そういう「わたしの想いを届けたい!」人は、歩道橋で詩集を売ろう

この残酷にも見える宣告は他の箇所でも、

・いまさら書かなくていいことは書く必要がない

・読み手でかまわないなら、読み手でいよう。どこかで読んだ内容を苦労して文章にしてもだれも読まないし、自分も楽しくない。

・承認欲求を満たすのに「書く」は割に合わない

というように語られていて、「誰でも書ける!」と謳うようなテクニック本とは一線を画していることがここからもわかるというもので。

自分は仕事にしているわけではないからまだいいものの、それでも「調べる」ことの不足はひしひしと感じていて身につまされて、そもそも何のために書くのか、という問いについて考えずにはいられなくて。

最終章「なぜ書くのか」ではこの問いについて、真っ白で無限の大宇宙を含んだ原稿用紙が、何かを書かれることでその叙述の対象の範囲が限定されていくように「書くことは世界を狭くすることだ」としつつ。

しかし、恐れることはない。なぜなら、書くのはまず、自分のためだからだ。あなたが触れた事象は、あなただけが知っている。あなたが抱いた心象は、あなただけが憶えている。
あなたは世界のどこかに、小さな穴を掘るように、小さな旗を立てるように、書けばいい。すると、だれかがいつか、そこを通る。
書くことは世界を狭くすることだ。しかし、小さななにかが、あくまで結果として、あなたの世界を広くしてくれる。


思い出した一節があって。

それは佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(2010,河出書房新社)で、筆者が学生に「どうして(書いたものを)発表しなくてはいけないのですか」と問われたことに対する回答で。

どうして発表しなくてはならないか。それは――読んでしまったからです。もっと言いましょうか。ベケットやツェランやヘンリー・ミラーやジョイスやヴァージニア・ウルフや……ヴァレリーがいなければ私はここにいません。ニーチェやフーコーやルジャンドルやドゥルーズがいてくれてよかった。いてくれなければ、私は一体どうしていいかわからなかった。何を書いたらいいかわからなかったということではなくてね。何をして生きていたらいいのかもわからなかった。ヴァルター・ヴェンヤミンが言っています。「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」と。足音を聞いてしまったわけでしょう。助けてもらってしまったわけでしょう。なら、誰の助けになるかもわからないし、もしかして誰にも聞こえないかもしれない。足音を立てることすら、拒まれてしまうかもしれない。けれど、それでも足音を響かせなくてはならないはずです。響かせようとしなくてはならないはずです。一歩でもいいから。

いつかだれかが読むかもしれない。そのときにその人の助けになるかもしれないし、もしかしたら自らを助けるのかもしれない。

もちろん、読まれたうえで無視されたり、こき下ろされたりするかもしれないし、そもそも誰にも読まれないかもしれない。

しかし自分が「読む」ことで救われたなら、あるいは「観る」ことや「聴く」ことで、「調べる」ことで救われたなら、いや救われるまでいかなくても、そこで抱いた自分だけの心象があるのなら、「書く」ことは肯定されるはずであって、つつましくも旗を立て、足音を立てる自分を、自分で認めてあげたらよいのだと思ったりして。

佐々木氏は別の著書『夜戦と永遠―フーコー・ラカン・ルジャンドルー』(2011,河出文庫)において、「概念(concept)」はそもそも「受胎されたもの、孕まれたもの(conceptus)」と同義であることを指摘しつつ、キリスト教神秘主義の女性たちの詩について、語ります。

彼女たちが新たに産み落とそうとするテクスト=御言葉=概念は、「キリストの身体(corpus christi)」であり、ゆえにそれは「精神的かつ政治的な共同体(corpus morale et politicum)」と同義なのだから。神に抱かれ、神と「いっしょに」恋文を、「わたしたち」の言葉を産み出そうとすることは、そのままあるコルプスを、政治社会を産み出そうとすることである。

書くこと、テクストを産み出すことは、ひとつの世界を産み出すことであると。

もちろん僕自身はそんな大仰な構えでこれを書いているわけではないけれども、書くことの尊さと、書き続けていくことへの希望を感じさせる力強い言葉だと思っていて。

そして、実は『切りとれ、あの祈る手を』については前に書いたこともあったのだけれど、この連想と「文脈」こそが、自分だけの心象であり、田中氏的にいえば

「わたしが言いたいことを書いている人がいない。じゃあ自分が書くしかない。」

という、もうひとつの「なぜ書くのか」の回答につながるような気がしていて。

僕は残念ながら今のところ、田中氏のように国会図書館で一次資料を漁るように「調べる」ことができない働き方をしていて、「調べる」割合を「9割9分5厘6毛」まで高めるのにはまだまだ修行が必要な状況ではあるけれども、とりあえず「田中泰延 佐々木中」で検索しても、今日時点では別の佐々木先生との妖怪談義の記事が出てくるだけであるので、たぶんまだこの世にはない話が、だから自分が読みたい話が、書けていると思っていて。

自分が生きて、体験してきたこと、読んだもの観たもの聴いたもの、その「文脈」こそが自分固有のものだとしたら、その「文脈」の上に書かれたものは、やはり自分固有のものと呼んでいいんじゃないかと、自分を認めてやることにしたいと思うのです。

ほんとは内田樹『街場の文体論』(2012,ミシマ社)から、小説を書く作家や論文を書く学者であっても「書きながら、自分が何を言いたいのか、何を知っているのかを発見するんです」という話や、東浩紀(編)『日本2.0 思想地図β vol.3』(2012,ゲンロン)から、「連想の糸」と「星座」の話も書きたいのだけれど、今日はやめておきます。

ちょっと疲れました。

そんな理由で中断するへなちょこさも許してやりたいと思います。
自分のためだもの。

最後に『読みたいことを、書けばいい。』からもうひとつ、書き続けることへの希望のエールを。

あなたが書いたものは、あなた自身が読むとき、たった1日だけ、あなたを孤独から救ってくれる。自分は、なにかに触れた。心が動いた。そのことを過不足なく、なんとか、書けた。自分の寂しい世界を一瞬、追い越した。何度も読み返す。しかし、何度読んでも文字列は変わらない。そしたら、また書くときだ。


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