見出し画像

19冊目-津村記久子『ポトスライムの舟』

父の実家は造園業をやっていたのだけれど、僕はといえば植物のことにはとんと疎いままこの歳になってしまって。

この本のタイトルになっているポトスライムも実は読むまで「スライム」が語幹なのだと思っていたような具合であって、ああそうかライムか、そりゃそうか、アホなオレ、と思ったりもするのだけれど、「あは、スライムか、それもええなあ」という津村さんのやさしい声が聞こえてきそうな、そんな静かな、小さな、ゆるしと幸福感を与えてくれるような本作で。


津村記久子『ポトスライムの舟』(2011,講談社文庫)

工場のラインで働きながら、夜は友人の経営するカフェを手伝い、週末にはお年寄り向けのパソコン教室で講師をし、自宅でデータ入力の内職もするという4つの仕事をかけもちの主人公・長瀬由紀子(ナガセ)の働き方が他人とは思えなかったというわけではないのだけれど、「生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持している」という自己観察と、それでありながらその仕事をむやみに卑下することのない冷静さは、残酷な世の中を生き抜く小さき者の、智恵のようなものを感じさせるところがあって。

新卒で入った会社を、上司からのすさまじいモラルハラスメントが原因で退社し、その後の一年間を働くことに対する恐怖で棒に振った経験からすると、職場の空気が悪くないということは得がたい美点なのだと言い切らざるをえない。


ナガセは職場の掲示板に貼られた「NGOが主催する世界一周のクルージング」のポスターの、そこに書かれた代金が、工場での1年分の手取り収入とほぼ同額だということに気付き、「自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分になって」貯金を決意する。

最後に起こる小さな奇蹟によってこの貯金目標は達成されるのだけれども、実はナガセが本当に世界一周の旅に出たかどうかは描かれておらず、むしろ旅には出なかったとうかがわせるようなラストになっていて。

それはたぶん、ナガセにとって重要だったのは旅をすることよりも、その額を貯金することだったからであって、それはもちろんお金が大事だったということでは全然なくて、自分が働き生きるその目的をもち、そしてそれに向かって自分で裁量をもって日々を営むこと、つまり自分の人生の「舵取り」を取り戻すことのために、ナガセには貯金が必要だったのではないかと思われるのであって。


物語には同じように自分の人生の「舵取り」を模索する女性たちが登場して、総合職として働いていた会社を辞めてカフェを開業したヨシカも、夫の支配から娘とともに逃げ出し、ナガセの家に居候しながら新しい生活を建て直すりつ子も、夫の浮気が発覚するも、悩んだ末に結婚生活を続けることを決意する岡田さんも、みなそれぞれに自分の人生を、誰かに生き長らえさせられるのではなく自分の「舵取り」で生きていくその歩み方を、探していて。

そしてそのそれぞれが肯定される印象的な場面が、ナガセ・ヨシカ・りつ子親子、それからナガセの母の5人で初詣に行く箇所で、ナガセは観音様へ願って言う。

手を合わせて、せかいいっしゅうが、と頭の中で言いかけ、やめた。代わりに、ヨシカとりつ子と恵奈ちゃんとおかんの願いが叶いますように、と願って、そろそろと行列を離れた。自分でも、どうして世界一周クルージングができますように、ひいては、そのための費用が貯まりますように、などとは願わなかったのだろうかと思うが、理由はよくわからなかった。それ以外の願いを思いつけないことについても、自分のお世辞にも恵まれているとは言えない生活を鑑みると不可解だった。もっと自分は望んでいいはずなのだけど。それこそ望むだけなのだとしたら。


多くのモノは望まない、ただそれぞれが望むように生きてほしいというナガセの願いは、そのまま作者からのメッセージのように見えたりもして、クルージングのポスターに掲載された、パプアニューギニアの少年が乗るシングルアウトリガーカヌーについての「波に逆らうんではなく、波に乗る力に長けてて、ひっくり返りにくい」という描写は、クルージングするような「船」ではない小さな「舟」たちが、荒波を越えていくその「舵取り」を称え、慈しんでいるようでいて。


ツァラトゥストラは「服従して仕えるものの意志のなかにも、わたしは主人であろうとする意志を見いだしたのだ」と、自分の人生の「主人」であろうとすることをかく語ったわけだけれども、「意志」なんて堅苦しいものではない言葉で、ありふれた人々のありふれた生を肯定する、『とにかくうちに帰ります』の回でも見た津村文学の真骨頂が詰まった傑作だと思ったのでした。


#推薦図書 #本のこと #津村記久子

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?