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16冊目-『とにかくうちに帰ります』

なんてことだろう。

「3週連続の投稿すごい!」と全然すごくないことをnoteに褒めてもらってから、今度は3週の空白のときが過ぎてしまった。


もう「令和界隈」のことも時機を逸してしまっているでしょう。
干支とか、一世代ということとか、天皇という存在のこととか、考えていたことはあったのだけど。

来月の改元本番のときに持ち越すことにしましょう。
むろん、そんなもったいぶるような立派な内容なわけないのだけれど。


4月になるよりちょっとだけ早く新しいサイクルの生活が始まっていて、2足の草鞋ならぬ4足の草鞋、いや、5足の安全靴?
語呂のいい言葉が見つからないけれどとにかくちょっと余裕がなかったところが少し落ち着いたような感じなので、ようやくnoteも再開できそうだというわけで。

通常モードで本の話をさせてください。 


津村記久子『とにかくうちに帰ります』(2015,新潮文庫)

津村氏は前に深澤真紀氏との対談本でこのマガジンに登場してもらったことがあったけれども、今回は小説で。

短編というくらいの作品が3本収録されていて、その他の作風とも同じく、長らく会社員との兼業作家であった経験を生かした「会社の人びと」の描写が精緻で素晴らしくて。

たとえば1本目の作品「職場の作法」の冒頭に登場する「田上さん」。

田上さんは、短大を出てすぐに見合い結婚をし、子供が保育所に通い始めると同時に飲食業のパートを始め、しかし腰を悪くして事務職に転向し、この会社に入った。今年で五年目である。ぽっちゃりしていて、年齢より少し上に見える。動きもしゃべりもゆっくりで、見るからにおっとり型である。実際におっとりした人だ。食事に行ってもメニューを決めるのはいちばん最後だし、ランチを食べ終わるのも誰より遅いし、私と同時に着替え始めてもロッカールームを出るのは私よりあとだし、調子の悪いパソコンの起動をモニタの前でじっと待てる人だ。彼女を、とろい、と謗る心無い人もいるだろう。事実、田上さんを年配の社員がそのように揶揄しているところに遭遇したこともあるけれど、私からしたら、あんたは田上さんが仕事をしている様子を見た事がないのか、と説教をしたくなるような愚かな考えだ。たぶんないのだろうけれども。そう確信できるぐらい、田上さんはいつも静かに、まるでいないかのように働いている。

それは設定や説明がこまかい、ということだけではない。
この描写自体が読み物として昇華されていて、すでに作品として成立している、と思わせるところがあって。


「いるいる」や「あるある」の描写はお笑いのネタなんかでもそうだと思うけれども、高い技術をもってするとそれ自体で作品になる。
私は実際には田上さんのような人と仕事をしたことはないし、まして女性の事務職員が着替えをするためのロッカールームがあるような会社で働いたこともないけれど、田上さんはこの国にいる誰かだと思わせられ、そしてその人となりを描いていく手さばきで、感動させられる。

他に登場する浄之内さんや北脇部長、間宮さん、山崎さん、表題作「とにかくうちに帰ります」のハラ、オニキリ、サカキ、ミツグといった人物たちについても、どこにでもいそうな彼ら彼女らの観察記録を読んでいるような、そんな調子なのだけれども、それでもページをめくる手が止まらず読者を作品に引き込んでしまうのは、人間の微細な感情の動きを本当によく見ている著者の鋭い観察眼と、それを描き出す高い技術力あってこそだと思うのであって。


取るに足りないとされる日常の、その尊さ。

しかし、というべきか、だから、というべきか、物語の中では、劇的なことはほとんど起こらない。

万年筆がなくなったとか、インフルエンザが社内で流行したとか、大雨でバスが運休になって駅までの長い道を歩いて帰らなければならなくなったとか、話の軸になるのはそんな出来事。
どこにでもいそうな人々の、どこにでもありそうな日常の物語。

この日常性こそがまた、津村作品の魅力であって。


収録されている西加奈子氏による解説。

津村作品には、空港で泣きながら抱き合う恋人は出て来ないし、世界の終わりを予期して絶望する人間も出てこない。ドラマティックとされる瞬間や出来事は現れないけれども、でもそれらとおなじ熱量で日常に光を当てている。
(中略)
津村さんは、とにかく見ている。
私たちの「取るに足りないとされる」感情を、出来事を、真剣に見てくれている。クソみたいでも、極小の規模でも、それが「起こっている」限り、なかったことにしない。それがきっとたった一行で説明出来ることでも、言葉を尽くして書いてくれる。

「あなたの日常は尊い。この人たちと同じように。」

そんな言葉が聞こえてくるようで、なんの劇的なことも起こらないのに、表題作のラストシーン、ようやく駅に辿り着いたオニキリとミツグ(「坊主頭の子供」)が座席に並ぶ静かな場面は、感動に涙さえ出たりして。

 うとうとしていたはずの坊主頭の子供が、突然体を折り曲げてものすごいくしゃみをする。オニキリはそれに気を取られながら、久しぶりに親に電話をしようと考えていた。連絡をとろうと思ったまま、しばらく疎遠になっている友達でもいい。すごい雨だった。今家にいることにちょっとびっくりする。そっちはどうだろう?そう伝える。
 不穏な咳払いと安堵の溜め息の音を聞きながら、オニキリは、やかんのお湯が沸くのを待っている自分を想像した。眠気が押し寄せてきて、オニキリは目を瞑りそうになる。あー、寝過ごしたらやばいのに眠い!と、隣で子供が坊主頭を両手で叩いていた。


穏やかな日常の、その難しさ。

日常の描写に感動するのはたぶん、「あるある」の表現力や、日常の尊さに対する著者の姿勢のためだけではない。

おそらくはその日常が「得難い」ものになっていることも原因していると思うのであって。


脚本家の木皿泉氏は、自分の作風を「そういえば、昔から悪人の出てこない、普通の人の話ばかり書いていた」と振り返りながら語っていて。

その頃、ドラマというものは、現代社会に警鐘を鳴らすものでないと認めてもらえなかった。(中略)現実が徐々に厳しいものになってきて、幸せなドラマを見たいお客さんが増えたおかげで、私たちの出番も少し増えた。つまり、もう、ドラマで警鐘を鳴らさなくても、問題は日常的に誰の目にも見える形で、山積みになっているということなのだろう。
『木皿食堂』(2016,双葉文庫)

あるいは評論家の宇野常寛氏は、フィクションやファンタジーといった創作物について。

退屈な日常をリセットしてくれる非日常=「世界の終わり」は、いつの間にか必要とされなくなっていたのだと思う。あれから随分時間が経って、僕たちが漫画やアニメ、あるいはゲームといった虚構性の高い形式をもつ物語に求めるものは(ファンタジーに求めるものは)、随分と変わってしまったのではないか。
廃墟は、崩壊は、非日常的なものは既に現実として存在している。
『原子爆弾とジョーカーなき世界』(2013,メディアファクトリー)


災害で町が崩壊したり、政府が公文書を捏造したり隠蔽したり、働く者が非人道的な搾取にあったり、暴力被害を訴え出た女性が叩かれたり、ウソみたいな出来事の方が現実にあふれていて、明日や来週や来月や来年が穏やかに当たり前にやってくると考える方がウソみたいに難しくなってしまっていて。

だからこそ「取るに足りない」日常のその尊さに、心震えるのだと思ったりして。

聖人のような善人でなくても、才能あふれる天才でなくても、みんなちょっとずつやさしくて、ちょっとずつわがままな、そんなフツーの私たちがフツーに明日も来年も生きること。
いつの間にか難しくなってしまったそんなフツーのことを、じっと見つめなおして、しっかり味わってかみしめたいと、そう思わせる傑作でした。

 フアン・カルロス・モリーナの引退が発表された週の終わりに、私は、浄之内さんと田上さんを自分の部屋に呼び、余っていたポルチーニ茸を使ったリゾットとパスタを振る舞った。スポーツの話は全然しないで、夏は年々暑くなってきているわりに、でもすぐに寒くなるよなあ、とぼんやり言い合った。
 衝動的に買い込んでしまったポルチーニ茸は、まだまだ余っている。また冬が来たら、スケートを観ながら食べようと思った。


#推薦図書 #津村記久子 #西加奈子 #木皿泉 #宇野常寛 #日常

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