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私が思うに、私はシンプル。

最近noteを開いたのも約2年ぶり。久しぶりだ。
書けるかも少しばかり不安だが、書いてみよう。

リハビリ程度に、ここ数年降り積もるに降り積もった違和感を言葉にしようと思う。じゃあ次の文からいきなり本文だよ。

準備はいいかい❔

では本文。

ところで、きみは私と出逢ってから、仲良くなってからどのくらい?

小学生からの仲だったら、かれこれ15年
中学生からの仲だったら、かれこれ11年
高校生からの仲だったら、かれこれ7年
大学からだったら、ここ4年の話になるね
アルバイト先での出逢いや、
浪人中の予備校での出逢い、
はたまた友達の彼氏という奇妙な関係もある、

みんなは私をどのくらい知っているのだろう。

こういうことを常日頃考えているわけではないんだ。ただ、会話の節々で「私のこと全然わかってないじゃーん」って思ってしまうこと、すこしシュンっとしてしまうことがある。ちがうな、私の印象はそこまでかと思うことかな。

私が出逢った大概の人に抱かれる第一印象
ーいつでも笑顔の人

私と出逢った大概の人に抱かれる印象その2
ー悩みとかなさそう

では少し仲良くなると、途端に言われ始める言葉
ー「 花菜って意外と真面目なんだね 」
ー「 こんなに考えてると思ってなかった 」

では次に何を言われるのかというと、
ー「 考えすぎだよ。」
ー「 深く考えすぎだよ。」

「  真面目だね。」
「 考えすぎだよ。」

これまで気が狂うほど言われてきて。

その度に「多少の違和感」を感じつつも、そうなのかなと疑ってきて、もう少し違う生き方があるのかなとも思ってきたのだけど、最近少しずつ謎が解けてきて、違和感の正体も分かってきたので明かしますね。

違和感その① |  基本そこまで考えてない

「考えすぎだよ」と言われるし、考える過程を外側から見ると若干複雑かもわからないけれど、内容は至ってシンプルだったりもしていてね。

たとえば、わたしはつまらない飲み会にはいきません。それか、行くにしても「つまらない」を重々承知で行くのでその段階で不満は捨てています。

つまらない飲み会に行かないのは、つまらないから。つまらない飲み会に行ったとして、その後に不満等を抱くことをなるべくしないのは、行くと決めたのは自分自身だから。

私の選択は、このくらい【シンプル】です。

この時点でこの過程・選択を「複雑」とお思いになった方は、この時点でこの先の話をするのは難しいかもしれません。

完全に「複雑」と「シンプル」の分類の仕方に違いがある分、同じ言葉を使っての意思疎通は難しいと思うからです。記号論の話にもなるから、長くは話しませんが、同じ言葉に同じ意味合いをもって話しているという前提は即座に捨てた方がいい。

私の「複雑」とあなたの言う「複雑」は現している内容は違って、「シンプル」もそうなのかもしれない。なにを「複雑」と感じ、なにを「シンプル」の思うかどうかが違えば、話すにしても分かりあうにしても限界はあるよね。

つまり、シンプルな物事の選択の末にあるシンプルな答えに、考えすぎも何もなく、単なる自分の中の複数存在する方程式に物事を当てはめて答えを出しているにすぎないのです。なので、ほとんど考えていないにも等しかったりもして。

これを思うに「考えすぎだよ」には到底及ばないなと思うのです。

これも、割とシンプルかと。

違和感その② | 外に出るまでは全然シンプル

これに最近気づいてしまいました。
気づいた時の「スッキリ感」はこの上なかった。
私の考えや感情が、周りのいう「複雑」な形になるのは、自分の内側から外に出た瞬間だということです。なにも私が1人でご飯を食べている時や、映画を見ている時に、毎度毎度言葉を重ねて自己理解を重ねているわけではありません。

普通に「ご飯うまいなー」とか
普通に「この映画おもしろ、」とか
普通に「なんかつまんないなこのテレビ」とか

ドリカムの代表曲のタイトルにに並ぶくらいにはシンプルに生きています。

うれしい、たのしい、だいすき、と。

じゃあそれがどういう過程に触れた時に、誰それに言われたような「まじめ」に姿を変えるかというと、わたしが「伝えよう」と強く思うときです。

✳︎補足情報をひとつ追加いたします。
わたしは「伝えること」に対して、割とギンギンに尖ってるくらいにプライドを持ち合わせている気がしています。プライドというか、こだわりというか、固執しすぎているとも言えるかもしれません。  

もっといえば、「伝えること」以上に「誤解されること」や「間違って伝わること」に対する強い嫌悪感かもしれません。

それを思うに、どうしても、生まれた瞬間は至ってシンプルな、一言で表せてしまう感情でも、言葉を連ねて連ねて連ねて連ねていくと、長くしつこくなってしまうわけで。先ほども触れたように、日本語を扱う同士だったとしても、同じ言葉を同じ意味とか同じ温度や質量で扱っていると思ったら大間違いで。そしたら、安易に言葉をひとつ生身で扱えなくなるんだよ。補足として2つ3つ、場合によっては具体例も必要になってくるんだよ。言葉をいくそうに重ねてもまだ不安なんだよ、伝わっているのかが。伝わらない各自の思いで行うやりとりは、そもそも「会話」といえるのだろうか。そう思うと、重ねてしまうんだよ。それが「真面目」だとか「複雑」だとかに姿を変えていくのかなーと思います。

「うねうね」好き、このくらいにはシンプル

違和感その③ | まあ言うても真面目だけど、ね。

さいごに、「まあ言うても真面目なんだけど、ね。」と言う話。

いや、これまでの話なんだったんだよって思うかもしれないけど、真面目には真面目なんです。

たとえば、ポイ捨てなんかは絶対にしないし、ポイ捨てどころかペットボトル用のゴミ捨て場にスタバのカップを捨てたりもしないです。カラオケは片付けてから出るし、先生の言うことも割と聞きます。
ただそれって当たり前のことです。それらと【違和感その①とその②】を結びつけて考えて欲しくないなーって思うんだよ。

とはいいつつも個人が抱く個人への印象は当人にコントロールのできる範囲を大きく超えているかとは思うので、単純な思いに過ぎないのだけど、少しわがままを言えば、「花菜ってまじめだよね」で終わらず、この先の言葉を抱いてほしいなって。

「なんも考えてない」

さまぁ〜ずのYouTubeを見ては、毎回1人で部屋で笑ってますし、かが屋とかレインボーとかシソンヌとかコントも馬鹿みたいに見てます、散歩も好きだし、なんも考えずに絵も描くし、カラオケでは泣いて歌えなくなるし、ガチャガチャにかけてるお金もすごいです、お酒飲むと空間把握能力が鈍ってものに当たり散らかすしコップ倒します、寝るのもすきだし、基本マイペースです。

今朝の散歩の産物:不自然な植物のレイアウト

番外編 | じゃあ、どうしてこうなったのか。

賢くならないとやって来れなかったんだよ。

こうして賢くならないと、舐められてばかりでムカついてしかたがなかったからだよな。賢くならないと流されていく自分の意見や、ひどく罵られる扱いに飽き飽きした時に、賢くならずにはいられなかったんだよ。そう言う時代が私にはあった。

感情論より論理的な言葉の組み立ての方が得意なのも、矛盾が苦手なのも、全部そう。自分の中の過去の苦い、思い出とも呼びたくない悲しみとか悔しさがが、こう言う形でわたしを賢くさせてしまったのだろうと最近思い直したわけで。

周りの物事が、なんで、どうしてこうなのかが、うまく理解できない時代があった。悪口を言いながら仲良くしてみたり、ちゃんと受ければたのしい授業を受けずしてつまらないといってみたり、幼い私にはよく分からなかった。(今は、そう言う世界もあると受け入れることもできるが、当時は難しかった。)

だから逆に言うと最近は、小学生の時の自分に戻りつつある感覚がある。やっと、人の前で気を許すことができるようになったと思う。まだ地元で2.3度だけだけど、友達の前で酔っ払うことができたのが、なんとなく嬉しかった。強がったり、平然を装ったりすることを選んだり、誰かの考えに見当をつけては確かめることをせずに回りくどい人との関わり方をするのが常の自分だから、今が1番たのしい。

本当の意味で誰のことも信頼していなかったんだなと、過去の自分に対しては悲しくなるけど、結局その通りで。結局その通りなんだ。

その分、もしかしたら、がめつくなったり、生意気になったり、「花菜、変わったよな」って思わせて戸惑わせてしまうかもしれない。ただ私は私だということを、自分はわかっていたい。

あわよくば側にいるあの子やあの子や、あの子にはわかっててほしい。

私は真面目だけど、感情はシンプル。
最近は人を信頼することを少しずつ覚えています。

逆にシンプルがすぎるので、無駄な感情の一切はないものにすることが習性化していたため、逆に悲しんだり怒ったりすることも覚え始めています。

今が1番たのしいし、幸せです。

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