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「では」と「とは」を分ける意味とは。相手の心に寄り添うために必要なのは「では」を大切にすること。「では」→「とは」の流れがあると驚きは大きくなる。

〜ひとの「心に寄り添う」ために大切にしていること〜


先日、「では」で語るか、「とは」で語るか。という↓のnoteを読んで

対話の中で自分が大切にしていること、好きなことへの気づきが多かったので、少しまとめて書いてみます。



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「では」→「とは」が対話にあると言葉にできないくらいの驚きがある

ぼくは、「とは」を話し合い、考えていく作業がとても好きだ。

けど、ぼくは、相手の「では」を聴くのもとても好きだ。

そして、もっともっと好きなのは
相手の「では」を聴き、自分の「では」を聴いてもらい、その後に「とは」がお互いの頭の中に浮かぶ瞬間。

相手の頭の中と、ぼくの頭の中に「とは」が生まれた瞬間、お互いに「大きな驚き」が生まれていて、外から見ても相手の表情に変化が生まれ、自分の身体の中でも鳥肌が立つような、嬉しさや驚きや安心、いろんな感情が生まれて、たまらなく好きな瞬間の一つ。

言葉では言い表せない、感覚を感じる。


「ウヒョー」みたいな感じというのか、何とも表現が難しい(笑)


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「ラベリング」するのは自分の中の「研究者」が頭を出しているサイン

ぼくは、もともと研究職でもあるから、ついつい自分の中に何らかの安心がない時に、ラベリングをすることで安心する傾向がある。

何で、こんな話をするのかな?

相手と話をしているときに、疑問が生じて、モヤモヤを感じて、
それに答えを見つけたくて、
「では派」の人なんだな。「とは派」の人何だな。
って、そんな風にラベリングをすると、理解できたようで安心する傾向がぼくにはある。

たぶん、それは研究者としての視点。

研究タイトルは
「『では派』と『とは派』による感情の生成過程と社会インパクトの一考察」

のような研究計画書が頭の中に浮かび、その研究をどこかの学会に発表するわけでもなく、頭の中で研究し、結果をパワポにまとめ、noteの下書きをして、日々下書きが溜まっていくということで、自分の安心を生む傾向がある。

どんなひとも、何かを明らかにしたい、謎を暴きたい、そんな風な「研究者」の資質を持っていると、ぼくは思っているんだけど、

きっと「ラベリング」したくなった時は、自分の中の「研究者」がひょこり頭を覗かせているのかなって思うと、評価や判断をしている自分を責めなくて済むのかなって思ったりする。


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「では」と「とは」を分ける意味とは

「では」と「とは」を分けるのって、「ラベリング」をすることになるんだけど、

じゃあ、なんで「ラベリング」をするのかっていうのを考えるとわかる気がしていて。

「では」で話すひとと出会うと、なんだかモヤモヤする「ネガティブな感情」が生じる。

「とは」で話すひとと出会うと、なんだか驚きや喜びなんかの「ポジティブな感情」が生じる。

このモヤモヤを解消したい!!
その違いは何かな?

そんな問いがきっと頭の中に生じる。


そういうときに、自分の中の「研究者」が頭を出して、安心が欲しくてラベリングするのかなって思うのね。

それって、自分の中で安心がなくて、モヤモヤしてるってことなわけだから、

ラベリングしたくなるのは、

まずひとつ自分がモヤモヤしているという「自分の状況がわかる」ということ。


次に、

自分が「では」で話しているときってどんな時だろう?

って問いを立ててみる。


そうすると、

相手になんとか自分の経験した中で何かを伝えたい!

この時間内で自分をわかってほしい、こんなことを経験してきたんですよ!

すごいと思ってもらいたい!

そんな風にぼくの場合は「不安」があるときに、「では」で話す傾向がある気がしている。

人によっては、もっとポジティブな理由で「では」を話す人もいるかもしれないけど、

それも、もっとポジティブが欲しいということだと思うから「現状のポジティブな感情だけじゃ足りない」みたいな感覚があるのかな、なんて思ったりする。


そうして、自分の「では」を話すときを探っていくと、

どうやら「最高にハッピー」な状態ではないことがわかってくる。

ということは、「では」を話すとき、

それは、何かしら、しんどいというか、心の状態が整っていないときなのかなって思うんだよね。


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「とは」を話せるのはどういうとき

そして、

「とは」で話しているときって、どういうときだろうか?

まずは自分について考えてみると、

相手に否定されたりしないだろうな。
一緒に「とは」について検討していけそう。

そんな風に相手にきっと「安心感」があるときなんじゃないか。


そして、

「とは」を話しているとき、どんな感情が生まれているか?

の問いを立てると、

きっと「驚き」なんだけど、その前に「安心」があるんじゃないかなって

「不安」で心が占められているとき、ひとはなかなか変化を感じられないから「驚き」たくないって思ったりするもんじゃないだろうか。


共通の知識があったり、前提条件にはいろんな要素があるけど

「安心」があるときに「とは」を話せるのではないだろうか。


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「では」を聴くと安心感が生まれ、お互いの「では」を受け入れられる

どんなときに安心するか?

思い出してみると、誰かと話しているときに、

自分のことをわかってくれようとしていることが伝わってくると、

その人は、

自分のことを攻撃しないひと。
自分をわかってくれようとしていくれるひと。
安心なひと。

ってなりやすいのかなって思う。

それって、相手が自分の「では」を聴いてくれようとしているということなんじゃないだろうか。

相手が、自分の世界(では)を知ろうとしていくれるとき、

共感したり、もっと知りたいって思ってくれていると、

自分の中で「安心」が生まれる。


自分の中に「安心」が生まれるとき、それは相手が「安心」を生んでくれているわけだから、相手のことを「安心なひと」だと認識する。

そして

相手が「では」を聴いてくれると、安心や嬉しさが生じる
   ↓
相手の「では」も聴いてみてもいいかもしれない
   ↓
相手の「では」を聴くと相手は安心するかもしれない
   ↓
相手も発見があって嬉しそうだから、自分も発見や嬉しさがあるかもしれない
   ↓
相手の「では」を聴いてもいいかもしれない

って思えることにもつながりやすいのではないだろうか。


そして、何より大切なのはそこに「好奇心」が生まれること。

相手を知ろうとすること

わかった気にならずに知りたいなって思うことって「好奇心」
があることだから、何より大切なのは、相手の「では」を知りたいって思える好奇心なのかもしれない。

好奇心を持てるときって、自分の心の状態が整っているときなことが多いから、

もし相手やいろんなことに好奇心が持ててなかったら、それは心を整えるサインだって思うと、少し楽かもしれない。


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「とは」とあえて言葉に出さなくても、「とは」を話しているとき感情でわかる

お互いに「では」を聞き合いながら、お互いの違いに気づいて、そこには何か定義の違う「とは」があったんだと気づく瞬間がある。

それに気づいた瞬間、ひとは視野が広がって「驚き」が生じるんだと思う。

変化すると言ってもいいかもしれない。

「とは」を話そうってしなくても、自分の中の感情が、「安心」「驚き」「喜び」が生じているとき、

頭の中に「とは」を考えていて、いつの間にか「とは」について話をしているんじゃないかって思うよ。


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「雑談」は最高のエンタメにもなり、ケアとセラピーにもなる

「とは」を話そうっていう前提条件のもと、「とは」を見つけるための話をするのは、

安心感の中で、発見があるから、驚きにもつながるし、もちろんすごく面白い。

数字でたとえていうと

ベースの安心感「50」がすでにあって、そこで発見があり「100」になる。

落差「50」の驚きなのかもしれない。

けど、「雑談」の中で

「では」をお互いに聞きながら、お互いの違いに気づき、いつの間にか「とは」が浮かんで考えているとき、

最初は「不安」があるから「−30」から発見があり「80」になる。
落差「110」の驚きなのかもしれない。

もともと知っている、仲の良い相手であっても、
1日合わないだけで、いろんな経験をしている。
だから、次に会うときは、もう知らない相手と言ってもいいはずだ。

だからこそ、お互いの最近の近況を聞き、お互いに知らない相手なんだ、不安だからもっと知りたい、好きだからもっと知りたい、知って安心したい、

そんな風に最近の「では」を聴き合い、そこから「とは」の話に自然となっていくと

そこに「不安」も「寂しさ」も「安心」も「驚き」も「喜び」もいろんな感情が生じる対話が生まれる。

いろんな感情を、ネガティブな感情も、ポジティブな感情もいろんな種類の感情をお互いにシェアできる相手との対話ってすごく幸せ度が高いと思っている。

それが一番できるのは「雑談」なんじゃないかなって思っている。

しかも、いつでもどこでも、できる、お手軽に幸せを感じることができる。

「では」と「とは」から幸せとかの話に移行して盛り沢山になってしまった感じがするけど、

対話の中に、「では」と「とは」があると、面白い。

面白いって「エンタメ」だと思うんだよね。

そして、相手に分かってもらえてるって安心を生むこと「ケア」につながるし、

「とは」を考えていくことって、相手といて深まっていくから「セラピー」にもなる。

そんな風に「雑談」って「エンタメ」にもなるし、「ケア」と「セラピー」にもなる。

人間関係が幸せに関係してるって、このあたりからくるのかなって思う。

コルクラボに入って、自分の安心や幸せについて深く考えるようにもなったし、

雑談が自分の天職なんだということにも気づけた。


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これ以降は具体的な体験談になります。
最近、コルクラボというコミュニティーで「心の保健室」という雑談をする保健室をしているのですが、それに関連した失敗体験について書いています。
ぼくが「では」について話して失敗して凹んだ話です。
凹みについて、その感情とどう向き合うか、少しだけ、その失敗からどう乗り越えたかについても書いてあります。妻からのダメ出しなんかも書いてあって、少し恥ずかしいので、ぼくの安心のため有料に一旦してみましたが、誰も購入しないだろうと思い、無料で公開に変更しました。
よければお読みください。

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「では」ばかり友達(ラボメン)に話して失敗して凹んだ話

雑談の中で「では」と「とは」の対話をしていくことが自分のためにも、相手のためにもなって面白いし、好きで得意ということが分かってから

ぼくはコミュニティーの中で「心の保健室」というお茶をしながら雑談をする場を開いている。

雑談の中で「では」→「とは」が生まれることが多くて、本当にお互いに困っていたことが楽になったり、「不安」「寂しさ」「安心」「驚き」「喜び」みたいな感情をお互いに大きく感じるからなのか、


相手から

「魔法使いみたい!!」

とか

「神なのか!?」

みたいなことを最近言われたりすることがある。


そう言われると、魔法を使えるわけでもないし、ましてや神でもないから、

「イヤイヤ!そんなことないから!」

と否定したくなって、否定したり、

「そう思えるくらい考え続けてきた証拠だから、ぼくじゃなくて、あなたがすごいんだよ」

なんて言って、

相手の褒め言葉を受け取れない自分が出てくる。


相手の「では」を受け入れるってことは、相手がそう感じたことを受け入れることだから、恥ずかしいけど、そう言ってもらえて嬉しいって、言えるように練習してる。
まだまだすぐには難しい。


そして、最近一番失敗しなって思ったのは、

「心の保健室」にきてくれているわけではなく、友達(ラボメン)とお茶をするときに、

相手が困っていないのに、困っているだろうと決めて、ぼくの中の「では」の話ばかりして、相手を変えようとしてしまった。

もともとぼくは、10年以上精神科で働いていたから、小さな困りごととかもそこから相手を少しでも楽になるヒントにしようってやってきたから、

ぼくの「では」を押し付けた形になってしまった。

困ってないのに、なんだかセラピーされてるように、きっと相手は感じて、

すごくイマイチな感じが場に流れた。


最後の方に、

「ぼくはすごくコミュニケーションが下手だから、ついつい相手に何かメリットを感じてもらわないといけない、自分のすごさを見せなきゃけない、みたいに焦って今日は自分の『では』を伝えてばっかりで、分かってほしい!!となってしまってたと思う。ごめん。」

そんな風に、不安になっていたり、自分の活動を手伝って欲しくて焦ってしまっていたことなんかの気持ちを話すと、

「さかちゃん、チャーミングだね」

なんて言ってもらえて、すごく救われたってことを経験した。

「神なのか!?」

と感じて半分泣いていた。。。。

(これがきっと、ぼくにもそう言ってくれた人の素直な感想なんだなって思えた。)


妻に今日、こんな失敗しちゃってさって話すと

妻からは

「またなの!?学習能力ないの!?」
「本当にコミュニケーション下手だよね。コミュニケーションの講義やってるのはどうかと思う。説得力がない。あなたよりよっぽどコミュニケーションうまい人は山ほどいるよ。」

なんて言われてしまった。


確かに、コミュニケーションは下手すぎるからこそ、学んで少しうまくなってきたところだから、しょうがないじゃん!下手だったからこそ教えることできるんだって!

となんとか返答した。


こんな風に、同じ日に

午前は「神なのか!?」と言われ、少し自信を持てたかと思いきや、

午後は「相手が困っていないのに、困っている」と決めつけて自分てなんて最低だと責めて凹んだりしている。


ぼくは、自分が「では」の話をしてしまっているときは、

その話している瞬間にはすぐには気づけないけれど、相手に対して不安があったんだな。

そして、

相手にとってもきっとぼくに対して不安があったんだな

って振り返りをしている。


次回お話しできる機会があれば、

自分から相手の「では」を聴こう、聴けるともっと相手のことを知れるかもしれない、もっと仲良くなれるかもしれない。

そんな風に思うようにしている。

今回は同じコミュニティーの友達で、そのひとがすごく愛あるひとだったから、「また今度お茶しようね」って言ってもらえたけど、

もちろん不安と焦りから「では」ばかり話してしまって、相手と2回目のチャンスがないことを起業してからよく経験している。


それはしょうがない。

しょうがないとは言っているけれど、とても悲しいし、寂しいし、自責的になって、自分を責めるのが本当のところだ。

ひとしきり、数時間から数日、凹んでから、

次に出会う誰かとの糧にしていこう。


そんな風に切り替えることができるようになった。


切り替えることができるようになったのも、
コミュニティーに入って、安心安全な足場ができたからだ。


安心安全がなくても、きっと、そこで、

自分は間違っていない、相手が悪いからだ。

そう思うと、もっと早く行動できるだろうし、切り替えられるかもしれないけれど、

相手と関係性をうまくとれなかったことも事実

相手のことをわかろうとしなかったことも事実

自分のことを分かってもらえなくて、悲しい、寂しいっていう感情が生じたことも事実

この事実があるのに、自分の感情を見ないふりしているだけでは、


感情が処理されずになくならないないことを自分は学んで知っている。

便秘みたいにどんどん硬くなることを知っているから、

少しだけしんどいけど悲しみに浸る時間をぼくは持つことにしている。


こんな風に失敗しちゃったんだって、安心できる友達や家族に話して、

「わかるよ」とか「バカだね」なんて、そんな風に言われながら、少しずつネガティブな感情を感じる練習をして、感情の言語化をする練習をしている。

なかなかこれまでネガティブな感情が生じた瞬間に、対処してしまうクセがついているから、難しいけど、少しずつ練習している。


またこんな風に体験したことの学びや、気づき、失敗も含めてnoteに書いていこうと思います。


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