Essay day11. 戦うことについて
私たちは日常生活の中でいつも何と戦っているのか。あるときは同じ目標を持った他者であり、制限時間であり、睡魔とか食欲みたいな自分の内側から沸き起こる欲望だったりする。
大抵は「打ち勝つ」ことが成功とつながっているから、人は日々の生活を努力していると考える。
では、もし、ピアノを弾くのがとにかく楽しくて弾いてるうちに上手くなり過ぎて、弾いてるだけで生計が立てられるようになって、毎日ピアノと遊んで暮らしてる人がいるとしたら、その人は何かに「打ち勝った」り「成功した」りしたことになるのだろうか。
なんとなく、違うような気がする。
ラベルを得ることを目的にすると、そこには必ず努力が必要になり、成功したか失敗したかの二択でしか成果を測れなくなる。
「痩せたい」と決めて体重を落とすことと、他のことに気を取られているうちに勝手に体重が落ちていたことは物理的には道義だけど、精神的には全然違うこともひとつの分かりやすい例だと思う。
努力する人は楽しんでいる人には敵わない、というやつです。
天秤の両側に物を置いて成功と失敗のどちらかにしか転ばない世の中の定規をほっぽり出しちゃいたい。
その事について、大学院で自分自身のためにデザインをするようになったころから考えるようになった。
ずっと、デザインは頑張らなきゃいけないものと思って頑張ってきて、海外に行って大学院にまで入って気付いたのは、これまでの10年全然デザインを楽しめていなかったんだな、ってことだった。
デザイナーと名乗りたくて、自分の自信のなさと随分長い間戦ってきたんだ、と気付くことが出来た。いつもいつも必死だった。
大学院のデザインも大変だけど、少なくとも、その大変さが戦いではなくなっていく感覚が、わたしにはとても新しかった。
だから、私たちの人生にとって、今あなたがしていることが楽しいかどうかというのは、社会的に成功しているかとか、上手くやれるかとか、そういう外側だけで判断できることよりもずっとずっとずーーーっと大切なことなんだと思う。
無茶苦茶な絵を描いても本人が楽しければ大成功。めちゃくちゃ音痴でも本人が気持ちよければ大成功。支離滅裂な文章でも書いてる本人がスッキリすれば本人にとって一番の作家。
大人になる過程で少しずつ他人と戦うことに慣れさせられて、否が応でも周りの反応を気にせずにはいられない社会が出来上がって、そんな世界を生きているけど、自分の内側の反応を気にしてあげることは戦いから降りる第一歩。
あなたって、いつも何していても楽しそうで素敵だね。と言い合える世界になったら良いのになぁ。そうしたら戦争なんてもう誰も興味をなくしてしまうだろうな。
私たちが「子供らしさ」と思っている暮らしは「本来の人間らしさ」だったんだな、とお風呂でぼんやり考えた。
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