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ある作品を読むことで他の作品の理解が深まると、テンションが上がる。(「葬送のフリーレン」×「ノルウェイの森」)

「葬送のフリーレン」を読んでいて、「ノルウェイの森」の永沢のセリフを思い出した。

「君はよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」(「ノルウェイの森」(下)P116)

 このシーンの永沢は終始、邪悪と言っていい残酷さをハツミに向けている。このセリフはその悪意の極めつけと言っていい。

 主人公のワタナベが永沢の残酷さについて繰り返し言及しているにも関わらず、「葬送のフリーレン」を読むまで永沢がいかにハツミに対して残酷なことをしているか気付かなかった。
「鼻もちならないしょうもない奴」くらいの感覚だった。(生理的に虫が好かない)

 永沢のハツミに対する悪意はどこからくるのか。
 今回気付いたけれど、永沢はある程度ハツミのことが好きで心を開いているから、ハツミを残酷に扱うのではないか。

「他人にうしろを見せるくらいならナメクジだって食べちゃうような人です。そんな人間にあなたはいったい何を期待するんですか?」とワタナベが言うように、永沢は自分の心を鋼鉄の棺桶に閉じ込めて生きている人間だ。
 ハツミに対する悪意ある対応は、その棺桶が開きそうになることに対する防衛反応ではないか。

 心を鋼鉄によろって自分固有のシステムに従って生きることを選んだなら、人と関わるべきではない。それは永沢が言うように、他の多くの人の生き方とは異なる。生き方の異なる人と関われば必ず傷つける。
 特定の人(ハツミ)と付き合うことなく、永沢が言うところの「ゲーム」をプレイして楽しく生きればいい。
 こういう矛盾があるところが、自分が永沢が嫌い(ド直球)な理由だったのだけれど、「何だかんだ言ってハツミが好き」なら「なるほどな」と思う。
 何だかんだ言いすぎていることを真に受けて気付かなかった。(←よくある)

↑のマハトの記事で書いたけれど、他人を理解する(しようとする)ことは、結局は自分を理解することではないか。
 正確には「自分を理解するために最も的確で効率のいい方法」が他人を理解することなのではないか。

「誰か一人とディープに向き合うこと」は「自分はどんな人間なのか」と考えさせられるため、自己と向き合わざるえない面がある。
 マハトが「自分は魔族だ」と実感した瞬間に、グリュック(人間)の気持を認識できた(出来ていたことに気付いた)のはそういうことではないか。

 永沢が夕食のシーンでハツミに悪意を向けて突き放し続けるのは、自分の心の蓋を開けないようにするためだ。
 とすると、
「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」
 
このセリフも「誰かを理解する」のではなく、「自分を理解する」と入れ替えて読むことができる。

 永沢は自分自身の心を理解したくなくてハツミを突き放し、一人で外国に行った。日本に残ったハツミは別の人と結婚したが、結局は死を選んだ。
 ハツミという「自分の心の蓋をこじ開けそうな圧力」に抵抗する必要がなくなったことで、永沢は初めて自分の心を垣間見た。
 だからワタナベには心情を素直に手紙に書いてきた。

 ソースは忘れてしまったが、永沢とワタナベは村上春樹の自我の一面であるという話をどこかで読んだ記憶がある。
 言われると手紙の書き方が永沢よりはワタナベっぽい。
 そういう補助線を引いて読むと「ノルウェイの森」は、永沢、キズキ、ワタナベがほぼ同一人物で、自己確立する(大人になる)過程で「自分(のある面)」が喪われていく話として読むことが出来る。
 大人になる直前でキズキは死に、心を鎧っている永沢とワタナベがハツミと直子を失うという強烈な痛みを体験することで大人へと脱皮する。
 なるほど、そういう話だったかと今さら感じ入った。

 対して「葬送のフリーレン」の男の登場人物たちは既に大人である。別の言葉で言えば自己確立している。

(引用元:「葬送のフリーレン」1巻 山田鐘人/アベツカサ 小学館)
ハイターのこの表情とセリフ、どうしたらこうなれるんだと思う。

 大人である登場人物たちが自己確立していないキャラ(特にフリーレン)を導く話にも読める。

「葬送のフリーレン」は自分から見ると「成熟した大人の話」である。
 ファンタジー漫画という媒体やジャンルやテーマは関係なく、登場人物たちの成り立ちを見てそう思うのだ。

 フリーレンがヒンメルにやっていることは、永沢がハツミにやっていることとほぼ同じだ。
 自分を守るための行動が結果的に残酷な悪意になったり、極度の鈍感さや無神経さになっている。
 ハツミもヒンメルと同じように「永沢を真剣に愛していながら、永沢に何ひとつ押し付け」ず、そして二人とも同じように相手に理解される前に死んでしまう。
 ハツミやヒンメルが死んだ時が、永沢やフリーレンにとっては「相手を理解するしかるべき時期」だった。
 滅茶苦茶残酷な構図だが、その構図をどう解釈してどう展開するかがこの二作の分水嶺になっている。

「ノルウェイの森」では「取返しのつかないもの」であり、だからこそその痛みと喪失が人を大人にすると語られる。
「葬送のフリーレン」では「決して失われないもの」で、見つけた後は自分の人生のかけがえのない一部としていつまでも支えてくれるものなのだ。

「葬送のフリーレン」を読むことで「ノルウェイの森」について自分が気付かなかったことを教えてもらった気持ちになるし、「ノルウェイの森」が語る残酷さに気付くと「葬送のフリーレン」の美しさがより際立つ。
 どちらの物語が正しい、優れているということはなく、どちらもより好きになる。

 こういうことがあると、滅茶苦茶テンションが上がるな。

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